阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(5)
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阿片王・里見甫は中学修猷館の柔道部の出身なのか、あるいは玄洋社付属道場明道館で柔道を学んだのか。このことにも疑問がある。
佐野眞一
『阿片王―満州の夜と霧』
、西木正明
の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』
のどちらもがそう書いていた。少なくとも、そう受け止められるような書き方をしていた。
ところで、『修猷館柔道部百年史』(1995年10月、同編集委員会)と『明道館史』(〈明道館創立88周年記念〉1984年9月、明道館)を見たが、どちらにも里見甫の名は見えない。
佐野眞一によると、里見自身が(名門修猷館中学の五年生の時)「孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる」と述べたことになっている。西木正明の場合は、「玄洋社では、ここで(明道館で……石瀧注)青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれた」となる。
大正2年に福岡を訪問した時、中学修猷館であろうと、明道館であろうと、孫文が柔道の試合を見たことがあったのかどうか。当時の新聞記事を見る限り、その事実は確かめられない。そのことは、「阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(3)」で述べた通りだ。
のみならず、里見が修猷館の柔道部に在籍した事実も確かめられないし、明道館で模範試合に出場するほどの実績を残したという記録自体が見当たらない。不思議な話である。もっとも「小説ですから……」というだけの話で、こだわる方がおかしいのかもしれないが。
明治39年に中学修猷館を卒業した安川第五郎(安川電機製作所社長、日本原子力発電社長、東京オリンピック組織委員会会長など)の場合は、中学時代に柔道部に在籍し、明道館では38年4月に奥入の奥義相伝を受けている。柔道部でその一級上にいたのが中野正剛
、宮川一貫(いずれも代議士)、阿部真言らである。ついでながら、阿部の名前は佐野眞一『阿片王』に一ヶ所だけ出て来る。ただし、里見甫とは直接関係のない形ではあるが……。
大川周明
の日記を引いた部分だ。
「大正十一年七月二十九日 ……榊原君は相変らずだ。そのうち阿部真言君が来たので榊原君は帰つた。真言君に聞くと榊原君の評判は非常に悪い」(142頁)
ここで名前を挙げた安川第五郎、中野正剛、宮川一貫、阿部真言のいずれもが玄洋社員として名を連ねることになる。安川は東京帝大に、中野・宮川・阿部は早大に進んだ。(石瀧作成=玄洋社員・名簿)
佐野眞一
ところで、『修猷館柔道部百年史』(1995年10月、同編集委員会)と『明道館史』(〈明道館創立88周年記念〉1984年9月、明道館)を見たが、どちらにも里見甫の名は見えない。
佐野眞一によると、里見自身が(名門修猷館中学の五年生の時)「孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる」と述べたことになっている。西木正明の場合は、「玄洋社では、ここで(明道館で……石瀧注)青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれた」となる。
大正2年に福岡を訪問した時、中学修猷館であろうと、明道館であろうと、孫文が柔道の試合を見たことがあったのかどうか。当時の新聞記事を見る限り、その事実は確かめられない。そのことは、「阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(3)」で述べた通りだ。
のみならず、里見が修猷館の柔道部に在籍した事実も確かめられないし、明道館で模範試合に出場するほどの実績を残したという記録自体が見当たらない。不思議な話である。もっとも「小説ですから……」というだけの話で、こだわる方がおかしいのかもしれないが。
明治39年に中学修猷館を卒業した安川第五郎(安川電機製作所社長、日本原子力発電社長、東京オリンピック組織委員会会長など)の場合は、中学時代に柔道部に在籍し、明道館では38年4月に奥入の奥義相伝を受けている。柔道部でその一級上にいたのが中野正剛
大川周明
「大正十一年七月二十九日 ……榊原君は相変らずだ。そのうち阿部真言君が来たので榊原君は帰つた。真言君に聞くと榊原君の評判は非常に悪い」(142頁)
ここで名前を挙げた安川第五郎、中野正剛、宮川一貫、阿部真言のいずれもが玄洋社員として名を連ねることになる。安川は東京帝大に、中野・宮川・阿部は早大に進んだ。(石瀧作成=玄洋社員・名簿)










