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阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(5)

カテゴリ : インフォメーション

 阿片王・里見甫は中学修猷館の柔道部の出身なのか、あるいは玄洋社付属道場明道館で柔道を学んだのか。このことにも疑問がある。

 佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』西木正明の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』のどちらもがそう書いていた。少なくとも、そう受け止められるような書き方をしていた。

 ところで、『修猷館柔道部百年史』(1995年10月、同編集委員会)と『明道館史』(〈明道館創立88周年記念〉1984年9月、明道館)を見たが、どちらにも里見甫の名は見えない。 

 佐野眞一によると、里見自身が(名門修猷館中学の五年生の時)「孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる」と述べたことになっている。西木正明の場合は、「玄洋社では、ここで(明道館で……石瀧注)青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれた」となる。

 大正2年に福岡を訪問した時、中学修猷館であろうと、明道館であろうと、孫文が柔道の試合を見たことがあったのかどうか。当時の新聞記事を見る限り、その事実は確かめられない。そのことは、「阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(3)」で述べた通りだ。

 のみならず、里見が修猷館の柔道部に在籍した事実も確かめられないし、明道館で模範試合に出場するほどの実績を残したという記録自体が見当たらない。不思議な話である。もっとも「小説ですから……」というだけの話で、こだわる方がおかしいのかもしれないが。

 明治39年に中学修猷館を卒業した安川第五郎(安川電機製作所社長、日本原子力発電社長、東京オリンピック組織委員会会長など)の場合は、中学時代に柔道部に在籍し、明道館では38年4月に奥入の奥義相伝を受けている。柔道部でその一級上にいたのが中野正剛、宮川一貫(いずれも代議士)、阿部真言らである。ついでながら、阿部の名前は佐野眞一『阿片王』に一ヶ所だけ出て来る。ただし、里見甫とは直接関係のない形ではあるが……。

 大川周明の日記を引いた部分だ。
 「大正十一年七月二十九日 ……榊原君は相変らずだ。そのうち阿部真言君が来たので榊原君は帰つた。真言君に聞くと榊原君の評判は非常に悪い」(142頁)

 ここで名前を挙げた安川第五郎、中野正剛、宮川一貫、阿部真言のいずれもが玄洋社員として名を連ねることになる。安川は東京帝大に、中野・宮川・阿部は早大に進んだ。(石瀧作成=玄洋社員・名簿

阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(4)

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『ゾルゲ事件』


 以下は全くの余談である。新書本の永松浅造『ゾルゲ事件』(1956年3月、近代社)を読んでいたら、「上海で婦人同志の銃刑」という章にぶつかった。婦人同志というのは、「虹口(ホンキユー)の日本軍特務機関に勤務している支那婦人の鄭蘋茹(ていひんじよ) 」で、登場人物の会話によって「赤軍のスパイばかりでなく、重慶の蒋介石(しようかいせき)政府のためにも、日本軍のためにもスパイをやつてるんだよ。いわば三重スパイだね。」(66頁)と紹介される。

 佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』(2005年7月、新潮社)にもこの名前は出て来た。「当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如*1(テイピンルー*2)という女スパイがいた。中国人司法官の父と日本人の母の間に生まれた鄭蘋如は、人並み外れた美貌の持ち主だった。」(200頁)

 『阿片王』では鄭蘋如処刑の現場に立ち会った上海憲兵隊特高課長の林秀澄の証言*3として「この美女の最期」が語られる。鄭は日本側諜報機関のジェスフィールド76号*4に監禁され、林子江という中国人官吏に、映画に連れて行こうと欺されて、処刑場へと連れ出される。

 同じ場面が、『ゾルゲ事件』では呉子宝*5が虹口へ行こうと誘い出したことになっている。また、日本人が立ち会ったことにはふれていない。微妙な表現の違いは他にもあるが、もっとも驚かされたのは、鄭蘋茹がゾルゲの上海でのスパイ組織の一員だったとされていることである。『阿片王』ではプレイボーイ近衛文隆の遊び相手と書かれているが、これは『ゾルゲ事件』の方には出てこない。近衛文隆を主人公とする、西木正明の『夢顔さんによろしく』については後で触れる。

 永松浅造によると、鄭蘋茹は蒋介石の重慶側(藍衣社)のスパイとして、日本側(すなわち汪兆銘側)から処刑されたが、実はソ連の赤軍のスパイでもあり、三重スパイの「ほんとうのところは、赤軍のスパイ」だったというのだ。しかも、七十六号から身を守るために「日本陸軍の特務機関の諜報部員」(72頁)となったのだから、事実上は四重スパイでもあったというすごい話になる。美貌のみを武器にしての活躍である。

 「もし鄭女が四馬路の極東本部*6のことを自白したら、それこそ上海の諜報部ばかりでなく、日本のゾルゲスパイ団も、一網打尽に検挙される」(78頁)。『阿片王』では単なる美人スパイのエピソードという扱いだったが、『ゾルゲ事件』の方では、東京にいるゾルゲと尾崎秀実が鄭女史の助命に奔走したこと、その際、表向き動けないゾルゲが世論を味方に救援に努めたことが語られている。『阿片王』では三重スパイどころか、ゾルゲとの関係にはふれていなかっただけに、永松浅造の記事には強い印象を受けた。ただ、日中双方の血を引く鄭蘋茹がなぜ(ソ連)赤軍のスパイ組織に属したのかの説明は見当たらない。

 西木正明『夢顔さんによろしく』(1990年7月、文藝春秋)は佐野眞一『阿片王』で書かれていた、近衛文隆とテンピンルーの交際を大きなモチーフにしている。上海の東亜同文書院に勤務する文隆のもとに、一人の美女が訪ねてくる。父は中国人、母は日本人だ。

 「年の頃は二十歳前後。顔は小さな卵形。広い額の下に、きれいに弓形を描いた眉毛と、目尻がわずかにつり上がった大きな二重まぶたの目があった。瞳の色は淡い茶色。
 長めの髪の毛を、無造作に軽く後頭部で束ね、肩まで垂らしている。藤色のチャイナドレスは、腿の少し上までスリットが入った、控えめな物。それが、この女性には恐ろしいほど良く似合っていた」(180頁)

 西木の小説の特徴はその微に入り細を穿つ描写である。文隆とピンルーの初対面の場面だが、そんなことを書き残した文献はあろうはずもなく、すべて西木の想像の産物であろう。それどころか、上海での文隆と女スパイテンピンルーの交際も、小説上の虚構にちがいなかろう。読者はここまで詳しく書いているのだから、ほんとうのことに違いないと思いこまされることになる。ノンフィクション・ノベル(!)というのだそうだ。

 テンピンルーの最期の証言者として知られる(小柄な)林秀澄少佐まで、作中人物として登場させたのはなかなかの腕前である。それにしても、伝説の女スパイ・テンピンルーは戦前の上海を描く上でなくてはならない存在だということがわかる。

 『阿片王』では「当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如という女スパイがいた」(200頁)と書かれていた。「鄭蘋如はその類まれな容姿で、時の日本国総理大臣・近衛文麿の息子で、当時、東亜同文書院に留学中だった近衛文隆に近づいた。……鄭蘋如と近衛文隆の美男美女カップルが夜な夜な上海の盛り場を遊び歩く姿は、日本政府を慌てさせた。二人の仲が日中関係悪化の原因となることを恐れた近衛家では……」と続く。

 日本国総理大臣は、もしそう言いたければ、大日本帝国総理大臣と言い直すべきだろうか。日本国と言われると、戦後のことを語っているような響きがある。『夢顔さんによろしく』では「学生主事として赴任」、「一介の大学職員としての赴任」(168頁)としていたところが、ここでは「留学中」という点が異なるが、おおむね『夢顔さん』の記述をなぞっているような印象を受ける。「二人の仲が日中関係悪化の原因となる」という論理は理解しがたいが、『夢顔さん』の方では、このあたりを丁寧に描いている。テンピンルーは「日支和平」のために意図的に文隆に接近したと告白し、文隆を重慶に潜行させようと画策する。しかし、もちろんフィクションと見るべきであろう。

 佐野眞一はこうも書いていた。

 「蒋介石派と汪兆銘派の血で血を洗う秘密戦の様相は、晴気慶胤『上海テロ工作76号』に活写されている。……
 『上海テロ工作76号』は、書き出しの描写からして三文スパイ小説なみで大いに笑える」(198頁)

 と。一方で活写と言いながら、他方で三文スパイ小説とこきおろす。その感覚が不思議だ。私は晴気の著書『謀略の上海』(1951年11月、亜東書房。これを改題・再刊したものが『上海テロ工作76号』。)を読んで、むしろ晴気の並々ならぬ筆力というものを感じた。テンポ良く話は展開する。まさに〝活写〟と言うにふさわしい。描写は(文学的には)不器用かもしれないが(それは表現する目的が違うだけのことである)、私は笑える書き出しというふうには思わなかった。

『謀略の上海』

阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(3)

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 西木正明の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』を読んだのは、周囲からしばしば質問を受けたことがきっかけだった。佐野著『阿片王』では、里見甫が中学修猷館在学中に、孫文の前で柔道を披露したことになっているが、そもそも孫文は中学修猷館を訪れたことがあるのか、という質問である。もちろんそんな話は聞いたことがない、覚えがないから、そのような疑問が生じることになる。

 佐野眞一によれば、大正2年(1913)2月、進藤喜平太が孫文を中学修猷館に案内し、里見は孫文の前で柔道の試合をしてみせた。原稿のその部分は、里見自身の談話の記録がもとになっていることも、佐野は明かしている。

 私は大正2年に孫文が九州に足を踏み入れた時の新聞記事を集めて、「孫文と福岡(一)」(『福岡地方史研究会会報』第21号〔1982年4月30日、福岡地方史研究会発行〕に収録)を発表したことがある。残念ながら「一」で終わっているが、福岡日日新聞の2月3日「孫文渡日確定」から始まり、3月30日「日華国民会成立」まで、孫文訪日関係の記事として見出しを拾い、福岡県滞在中の記事は網羅して翻刻、掲載した。それによって、孫文の日程をたどってみよう。

 孫文は2月13日、長崎に上陸。列車で上京した。この時は福岡市を素通りして、再び九州を訪れるのが3月16日。下関から汽艇で門司の桟橋に着いた。戸畑の明治専門学校(現・九州工業大学)を見学、次いで安川敬一郎邸に一泊した。

 翌17日、八幡製鉄所を見学の後、午後3時30分、孫文を乗せた特別列車は博多駅に着いた。4時、旅館常盤館で休憩。福岡日日新聞社、九州日報社訪問予定を取りやめたのは疲れがたまっていたのであろう。午後6時、東公園一方亭で孫文歓迎の晩餐会が催された。主催したのは安川敬一郎をはじめ、貝島・松本・麻生ら筑豊鉱業家7名。

 18日午前10時、常盤館を出て博多聖福寺にある平岡浩太郎の墓参、次いで福岡天神町の平岡良助宅(浩太郎の遺児)を訪問し、中野徳次郎別邸に立ち寄った後、西職人町玄洋社を訪問した。平岡家訪問後は西公園で風光を眺めると予告されていたが、これは中止されたもようである。

 午後1時、常盤館にもどって、安川敬一郎、進藤喜平太、平岡、中野ら旧友会主催での午餐。孫文の革命運動を助けた日本人同志一同が会した。午後3時、東公園松原内の崇福寺に安永東之助の墓参(この時の記念写真がよく知られている)。隣接する九州帝国大学医科大学(現・九州大学医学部)を見学の後、戴天仇の通訳で講演。職員・学生・一般有志で教室はあふれんばかりの盛況だった。

 午後6時には西中洲公会堂で歓迎会。主催者総代は川路県知事、来会者は官民200名。翌19日午前8時30分博多発の列車で大牟田へ向かい、熊本・長崎を経て帰国の途に就いた。平岡良助から孫文へ、博多人形12組が贈られた。

 すなわち、3月17日午後3時30分博多駅着。19日午前8時30分博多駅発。正味41時間の福岡市滞在であった。それにしても、孫文はあわただしい日程をよくこなしている。ただ、この報道では中学修猷館訪問の記事はなく、中学修猷館であれ、玄洋社付属道場明道館であれ、孫文の前で柔道の試合が行われたという記事もない。

 実際に、里見甫の談話が残されているのだとすれば、それは別の機会のことであろう、少なくとも大正2年3月17日・18日のことではない*1、と考えるほかはない。現実にもこの日程で、中学修猷館を訪れる時間的余裕はないし、もし訪れたとすれば、九州帝国大学など他の例から見て*2、記念の揮毫が残され、学生を前にしての講演も行われたであろう。今のところ、そうした記録が見当たらないのである。

阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(2)

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 佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』(2005年7月、新潮社)を読むと、西木正明が何をもとに小説を書き、どこまでが史実を踏まえていて、どこからが作家の想像力にもとづくのかが、おおむねわかるような気がする。

 『夜と霧』は精神科医フランクルのナチス・ドイツによる強制収容所体験を描いた本のタイトルとして知られている。「満州の夜と霧」はそのフランクルの本を直ちに連想させる。うまい命名だが、読者にあらかじめ強いメッセージを刻印することにもなる。

 著者は満州の夜と霧に姿を隠している二人の人物、甘粕正彦と里見甫に強い関心を持つ。甘粕は敗戦と同時に自殺し、里見は戦後の日本社会を生き延びる。甘粕の死を「潔い自己処罰というより、きわめて身勝手な自己清算」という著者は、権力から遠ざかる位置を貫いて飄々と生きた里見の戦後の処し方に対しては、西木正明の場合と同様、好意的である。

 宏済善堂(里見機関)がペルシャアヘンで稼ぎ出した2000万ドルは現在の貨幣価値では30兆円近い(167頁)。その資金が里見を通じて蒋介石側に、あるいはこれと敵対する汪精衛(汪兆銘)側に、そして日本の軍部へと上納された(172頁)。

 里見甫の陰に見え隠れする男装の麗人梅村淳(じゅん)に興味を持った著者は、里見の満州・上海での謀略の鍵を握る人物として梅村の追跡を始める。「私は行く先々で、梅村淳という謎の女にいよいよ翻弄されていくことになる。」本書のテーマは男装の麗人の正体を明かすことであるかのようだ。西木の小説には梅村淳は登場しなかった。

 梅村淳の養母ウタは満州国皇帝溥儀(ふぎ)から与えられた(という)勲章(のようなもの)を胸に、写真に収まっている。甘粕と里見が役割を分担し、やがて満州国皇帝となる溥儀を天津から脱出させるシナリオがあった……と著者は推測する。ウタも一定の役割を果たしたのだ。これまで知られていなかった事実を掘り起こしているには違いない。しかし、著者自身が「陰謀史観に毒された荒唐無稽の推論と一笑に付す向きもあるだろう」と言う通り、どれも詰めが甘いという印象は残る。

 52頁に書かれていた、梅村淳が「やんごとなき家柄らしく、京言葉を使っていた」という証言は、いつのまにか雲散霧消してしまっている。やんごとなき家柄は、別の証言で「かなり高貴な生まれ」「(子爵・陸軍中将)小笠原長生の落としダネ」とまで、強調されていたのだが……。

 82頁にこういう個所がある。「彼女」とあるのは、東条英機の私設秘書若松華瑤の娘(二代目若松華瑤)である。
「高畠義彦の戦時中の肩書きは、すでに割れていた。海南島・厚生公司の東京事務所責任者というのが、高畠の戦時中の肩書きである。
 高畠の名前が彼女の口から出たとき、里見と若松、そしてその背後に控える東条は阿片で完全につながった、と思った。
 というのは、昭和十四(一九三九)年の陸海軍共同の占領以降、海南島では阿片の原料となるケシ栽培が盛んに行なわれており、海南島・厚生公司東京事務所の責任者となった高畠が栽培を、上海の宏済善堂のボスとなった里見が販売を、それぞれ一手に任されていたからである。」

 この部分は示唆されているだけで、深められていない。高畠義彦は「(夢野)久作の義母幾茂の従妹の長男に当たる」(久作関係人物誌<<夢野久作をめぐる人々)。つまり、夢野久作の父杉山茂丸から見れば、妻のイトコの長男だ。高畠の名が里見と並んで出て来るとは思いもしなかった。

「記念写真の方には、里見と森田継生、それに海南島のアヘン栽培の元締めだった高畠義彦の三人が、見るからにふてぶてしい面構えで写っていた」(227頁)というのも同じで、〝ふてぶてしい〟と見るかどうかは人によって違うわけだし、仮にそうだとしてもだからいったい何なの……、と言いたくなる。顔で行状のよしあしを判断するわけにはいかない。西木氏の本は文句なしに楽しめたが、佐野氏の本は真実の追究よりも、主観を優先させているように思えた。「疑念が晴れた雲のすきまから、謎めいた笑いを浮かべた里見の精悍な顔が、一瞬、見えたと思った。」(402頁)などという思わせぶりな表現はこうした本の常套だが、私の好みではない。

 さて、孫文が中学修猷館を訪れたという問題。西木正明はこう書いていた。
「大正二年二月、里見が中学五年生の時、修猷館にめずらしい客があった。一年余り前の明治四十四年十月、辛亥革命を成功させたばかりの孫文である。
 ……玄洋社社長の進藤喜平太に案内されて、修猷館を訪問したのだった。
 修猷館訪問後、一行はさほど遠からぬ西職人町にある玄洋社構内の武道場、明道館に移った。玄洋社では、ここで青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれたのだった。」(『其の逝く所を知らず』51頁。ただし、誤りは正して引用。)

 同じ内容が佐野眞一『阿片王』ではこうなる。文中「覚書」とあるのは、元東洋大学教授中下正治氏による「里見甫氏談話おぼえ書き」で、里見自身の談話を書き取ったもの。
「『覚書』の一ページ目は、大正二(一九一三)年二月、前々年に辛亥革命を成功させ、中華民国臨時大総統に就任した孫文が、福岡の修猷館中学を訪問した記述から始まる。
 当時、里見は……名門修猷館中学の五年生だった。昭和四十年記録の『覚書』で里見は、そのときのもようをこう述べている。
〈今日より五〇年前なり、孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる。これより小生の中国関係はじまれりというべし〉
 同年三月、修猷館を卒業した里見は上海の東亜同文書院に進んだ。
 ……玄洋社の二代目社長で、孫文を修猷館に案内した進藤喜平太に頼みこみ、福岡市からの留学生という身分での入学だった。」(88~89頁)

 進藤喜平太が孫文を修猷館へ案内したという記述では一致している。佐野によれば、(この点あいまいだが)里見が孫文の前で柔道の試合に臨んだのは修猷館でのことのように思える。西木は明道館へ移動した後のことである、と言う。

 いずれにしても、この部分の記述が、里見自身の談話に拠っていることが明らかになった。

 ついでに、玄洋社記念館について書かれた部分には違和感がある。著者は玄洋社記念館を訪ねたが、「いつ行っても留守だった」として、こう書いている(89頁)。
「大アジア主義を唱え、保守、革新を問わず多くの若者たちを共感させてきた玄洋社も、時代の波には抗(あらが)えず、忘却の彼方に遙か遠く過ぎ去っている」と。

 無駄足を踏んだ佐野氏には気の毒というしかない。しかし、開いていなかったのは、今は故人となった館長の進藤龍生さん(進藤喜平太の孫)が地域の役職についていて多忙だったからだ。そのことをもって「時代の波に抗えず……」というのは見当違いである。私も空振りになることがしばしばあった。ちなみに、玄洋社の付属道場だった明道館は、場所こそ移ったものの、今も活動を続けている。

阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(1)

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 佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』(2005年7月、新潮社)が出た時、私の周辺で話題になった。

 阿片王とは福岡県立中学修猷館の出身で、上海の東亜同文書院へと進み、中国大陸で阿片を扱って巨万の富を稼ぎ出したとされる里見甫(はじめ)のことである。

 玄洋社の研究で里見の名を目にすることはない。しかし、中学修猷館の出身だというだけでも、玄洋社の周辺に位置していたことは間違いない。大正二年に孫文が福岡を訪れたとき、里見は孫文の前で柔道を披露したという。孫文は中華民国が成立した翌年、辛亥革命支援への感謝をこめて玄洋社を訪問したのだ。この時、孫文が修猷館をも訪問したのかどうか、が史実としては問題になる。私の周辺で話題になったというのはそのことである。

 里見については、西木正明の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』(2001年7月)があることを知ったので、まず『其の逝く処を知らず』を先に手に取った。「その逝(ゆ)くところを知らず」……死後の行き先は地獄か極楽か、という含意がある。里見の墓碑に刻まれた言葉がタイトルになっている。

 ハードボイルド・タッチの乾いた文体。最初から最後まで、緊張をはらんでストーリーは進行する。李鳴(りめい)の中国名を持つ里見(李鳴大人と呼ばれている)は、影佐禎昭(かげささだあき)大佐にペルシャアヘンの輸入と流通を取り仕切るよう依頼される。影佐はその得た資金で汪兆銘(おうちょうめい)政権樹立を画策する。めざすところは日支の和平……盧溝橋事件に始まる日中戦争の停止だ。里見は自己の利益のために阿片の売買に手を染めたのではない……というのが本書の基調である。

 ペルシャアヘンは三井物産が上海まで運んできた。軍の管理下に置かれたアヘンは、里見のパートナーである盛文頤(せいぶんい)に引き渡され、いくつものルートで売りさばかれる。

 盛は抗日戦争を闘う蒋介石のシンパだ。上海の裏社会を支配する秘密結社青幇(ちんぱん)の杜月笙(とげっしょう)の片腕でもある。盛はまた、蒋介石のもとでテロ活動を実施する藍衣社(らんいしゃ)のリーダー戴笠(たいりゅう)を里見に紹介し、里見は戴笠とも手を組むことになる。

 アヘンの流通によって、蒋介石側に利益がもたらされ、他方で影佐の謀略資金も確保される。表で闘う日中双方が里見を接点に裏では提携していた。

 終戦後、里見はA級戦犯の容疑で巣鴨プリズンに収監されるが、国民政府に身柄の引き渡しを求められる。里見の知る秘密が法廷で公然化されることを戴笠は恐れている。アメリカ側もまた同様の弱みを持つ。妥協が成立して、連合軍は里見を釈放した。この取引で、里見は岸信介の釈放も条件に加えて……。

 陸軍と提携した里見は海軍の児玉誉士夫に比肩される存在だった、それが戦後は市井に隠れるような人生を送った。その潔さに西木正明は好感を持っている。

 小説である以上、虚実が巧みに織り込まれていて、どこまでが史実を踏まえているのかがわからない。そこが作家の腕の冴えでもある。

 里見が被差別部落出身の芸者お喜代と知り合うことが、里見の人生に転機をもたらすことになるのだが、お喜代は作者の造型であろうと見た。しかし、これが後々の展開の伏線ともなっているのは見事な構成だ。

 お喜代は言う。「あたしのように、ただそこで生まれたというだけの理由で、差別される者の気持ちなんて、絶対にわかりっこないわよ」。

 

 ▼51頁 「玄洋社社長進藤嘉平太」は進藤喜平太の間違い。
 同 「東職人町にある玄洋社」は西職人町の間違い。

頭山満は天才である 追記

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 「満は天才なり」と書いた東台隠士とは何者か。彼は名士の家を訪問しては応接間を観察し、そこから主の人柄を探ろうとする。

 【近代デジタルライブラリー】で著者=“東台隠士”で検索すると、ヒットしたのは次の三冊であった。
  1. 伊庭想太郎 / 東台隠士著,日本館, 明34.8
  2. 江戸の武士伊庭想太郎 / 東台隠士著,日本館, 明34序
  3. 名士の交際術 / 東台隠士著,大学館, 明35.3

 1・2は同じ本で標題は『〔江戸の武士〕伊庭想太郎』、序文は松野翠識。奥付は編輯兼発行人岡田常三郎の名のみで著作権者の表示がない。

 松野翠は木下尚江の筆名で、したがって東台隠士とは木下尚江なのである。尚江は明治2年の生まれで、『名士の交際術』を出した明治35年には数えの34歳。明治32年からは毎日新聞の記者になっていた。

 つまり、キリスト教社会主義の立場に立つ尚江が、一般的には対極にあると考えられているであろう頭山満を、好意的に描き出していたのだということが明らかになった。

頭山満は天才である

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満は天才なり

 ついに見つけたぞ。同時代の頭山満評。それも究極の……。

 頭山満とはどういう人物なのか。後世の、ためにする評価(それがおとしめるものであれ、持ち上げるものであれ)ではなく、真実の人物像に迫りたい。それには何と言っても直接会った人達の言に耳を傾けることだ。

 そう思ってコツコツと証言を集め始めたのがブログ「同時代が見た頭山満」である。

 集め始めてとんでもない混乱ぶりに我ながら驚かざるを得なかった。いったい世の中に、このような両極端の評価を受ける人物が他にいるものだろうか。すでに同時代に頭山満の評価は分かれている。とんでもない賢人と見るか、とんでもない愚人と見るか*1……その両極端しかないのである。いやはや。

 ところで、そのついでに今度は「同時代が見た平岡浩太郎」にも手を出したのだが、その平岡浩太郎評の中に、頭山満との比較論があった(東台隠士著『名士の交際術』)。明治35年(1902)の刊行。頭山はこの年、数えで48歳、平岡はその4歳年長だ。頭山はすでに数多の壮士を抱える浪人の巨頭であり、いっぽうの平岡も石炭経営の成功で巨富を蓄え、政界を陰で操っている。

 この本の中で、頭山は黒田如水と同じく愚を装っているが、如水と同様に「天才」である、と評されているのだ。作者は頭山を訪問したが、インタビューは実はかんばしくなかった。無口で返事がかえってこないのだ。しかし、座は白けるどころか「一陣の春風が満ちて居るかの如くに感ぜられるの」だと言う。

 また、「頭山は何にも知らぬ人かと云ふに、決してそうでない。人情には深く通じ、何でも知て知て知り抜いて居つて、それで知らぬ顔をして居るのである」とも言う。それが愚を装うということでもある。これは中江兆民の有名な評「君(頭山のこと)言はずして而して知れり」に通ずるものがある(『一年有半』明治34年)。

 その作者が「満は天才なり」とも書いていた。頭山満の人間像……まことに不可思議で、他に類のない人にはちがいない。問題はどういうものさしを用意すべきか、ということになりそうである。

 急いで付け加えておこう。「満は天才なり」と断じた東台隠士。実は彼が用意したものさしが実に変わっていた。「余は人を観察するは宜しく其の家に就いてす可しといふ定義を決めたのである。」

 彼のものさしはただ応接間のたたずまいである。そのため、平岡浩太郎邸の応接間の描写は微に入り細に亘る。「余は特に其の人となりに就て断定を与へないで唯だ其応接間を諸君の眼前に供へたのみである」。

 すなわち『名士の交際術』とは、応接間は人物の価値を推し量る最良の手段を提供する(……「応接間は人なり」)という仮説のもとに書かれた本なのである。奇書というべきであろう。
  • 注1 たとえば、木村義治『現代偉人の言行』(明治41年)には「世人は頭山氏を……頭脳粗笨で、思慮雑駁で」と見ているであろうが実はそうではない、と書き出している。

雑誌『日本人』と二人の社会主義者

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文学辞典に「国粋主義をとなえ」たと書かれていた雑誌『日本人』。実際に読むと、その定義は当たらないのではないか、という意味のことを川戸道昭氏が書いていた*1

私は別の意味で驚いたことがある。日本の先駆的な社会主義者である片山潜幸徳秋水*2が『日本人』に寄稿していたことである。

片山潜(1859~1933)はモスクワで客死し、幸徳秋水(1871~1911)は明治末の大逆事件で死刑になる。『日本人』が国粋主義の立場であれば、決して相容れないはずの二人だ。彼等が寄稿したという事実―そこからはむしろ、『日本人』の「国粋主義」とはいったい何なのか、という問題が浮かび上がってくる。

片山潜、幸徳秋水を受け入れる『日本人』の側にも、我々が失った寛容性のようなものを、私は見るのである。これが明治なのだ! と言ってもいい。

以下は、『日本人』の目次から片山潜、幸徳秋水(伝次郎)の名を拾い上げたものである。

第68号(明治31年6月5日)
 片山潜 英国今日の社会
第103号(明治32年11月20日)
 幸徳秋水 革命乎亡命乎
第118号(明治33年7月5日)
 幸徳秋水 清国問題と土耳其問題
第122号(明治33年9月5日)
 幸徳秋水 所謂戦争文学
第124号(明治33年10月5日)
 幸徳伝次郎 外交に於ける非立憲国
第129号(明治33年12月20日)
 幸徳伝次郎 十九世紀と二十世紀
第138号(明治34年5月5日)
 幸徳伝次郎 公徳養成に就て
第145号(明治34年8月20日)
 幸徳伝次郎 社会主義の大勢
第148号(明治34年10月5日)
 片山潜 恐るべき社会の現象
第156号(明治35年2月5日)
 幸徳伝次郎 社会主義と国家
第159号(明治35年3月20日)
 片山潜 人口増加と労働者
第164号(明治35年6月5日)
 片山潜 労働組合と我工業の前途
第165号(明治35年6月20日)
 幸徳伝次郎 卑猥なる文学
第175号(明治35年11月20日)
 幸徳伝次郎 読工場法案要領
 片山潜 工場法案に対する私見
第185号(明治36年4月20日)
 幸徳伝次郎 社会と犠牲
第192号(明治36年8月5日)
 幸徳伝次郎 非戦論
  • 注1 「シャーロック・ホームズの翻訳史から見えたものとは」の引用部分を参照。
  • 注2 告白すると、私は若い頃(20歳前後だった)、高知県中村市の幸徳秋水の墓を見に行ったことがある。地元でかつおのたたきの接待を受け、せっかく来たのだからと切り出したところ、快く案内していただいたのである。草ぼうぼうで、地元の関心も薄いのだろうと感じたものだった。たまたまよき案内者に恵まれ、迷うこともなくたどりついたのを覚えている。

シャーロック・ホームズの翻訳史から見えたものとは

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『日本一』や『日本人』『日本及日本人』の目次採集を続けている。何のために、とか、ばかなことを、という声が聞こえてきそうだ。

考古学者が地面を掘っているようなもので、古雑誌の山にはやはり新発見の材料が眠っている。それらは一頁一頁、誰かがめくっていかなければならないのだ。そうした宝物に出会うのが楽しみである。

今回意外だったのはコナン・ドイルとの遭遇であった。ドイルの翻訳が明治・大正期に盛んに行われていることに驚いた。その辺の事情は川戸道昭「明治時代のシャーロック・ホームズ ―ドイルの紹介と初期の探偵小説―」(『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》8 ドイル集』解説)に詳しい。

この川戸氏の解説におもしろい一文を見つけたので紹介しよう。

  人はあるいは、最初にホームズを紹介する栄を担ったのが、欧化主義の時流に抗して日本主義を唱えたはずの『日本人』であったと聞いて、少々奇妙な感じにおそわれるかもしれない。普通、政教社の『日本人』といえば、文学辞典などにも「当時の急激な欧化的風潮にあきたらず国粋主義をとなえ」た(片岡良一編『岩波小辞典 日本文学―近代―』)、と解説が施されているように、おおよそ海外の文学作品などとは縁遠い雑誌と考えられている。しかし、そのころの『日本人』というのは、中を開いてみればすぐに分かるが、テニソンの伝記あり、ワーズワスやゲーテの紹介ありで、一面において大変国際性に富んだ雑誌でもあった。難解な古典の翻訳などはいざ知らず、コナン・ドイルのような現代作家の作品ならば紹介者には決してこと欠かない状況にあったのである。何ごとも、通説を鵜のみにせずに、自分の目で確認してみる心がけこそが歴史研究には欠かせない基本姿勢*1ということを改めて痛感させられる。(341頁)


というわけで、私にも出番がある。

これと同じことを、私は南進北鎖の夢・福本日南 第9回 【完】の中で述べていたのだ。

  ただ、日南の〝国粋〟観念は無限定な欧化の風潮に反対しているのであって、「智識を世界に求め」と主張しているとおり、近代の価値そのものを否定したのではなかったのである。


日南は国粋保存*2を主張する、新聞『日本』で活躍した。その兄弟関係にあったのが雑誌『日本人』であり、両者が合体したのが『日本及日本人』という関係にある。『日本』や『日本人』に拠ったのは当時有数の欧米通だったのであるから、欧米の新聞・雑誌に眼を光らせ、新しい流れがいち早く紙面に登場したのも無理はない。彼等は欧化のあまり、日本のアイデンティティーが失われることに警鐘を鳴らしたのであって、日本を基盤にして、欧米に学ぶことそのものを否定したのではないのだ。むしろ極端な欧化と極端な国粋(いわゆる……)を排した中庸・中道(みごとなバランス感覚)と言うべきだろう。『日本人』が「国際性に富んだ雑誌」であるのも、驚くにはあたらない。

グローバルの美名のもとに際限のない対米同化が進もうとしている今、彼等に耳を傾けるのも無駄ではなかろう。ちまたでは、小学校での英語導入に対し、日本語もできないのに英語とは? という疑問の声があるが、『日本及日本人』の面々が知ったら何と言うだろう。

明治人は漢学の素養の上に英語を学んだから、英語を(その他の外国語も)受け入れやすかったという説もあるようだ。それは事実が示している。

川戸氏が何に驚いたのかもふれておこう。

  注目すべきは、この翻訳の発表時期と原作のそれとの差である。先にも述べた通り、「唇のねじれた男」がイギリスで発表されたのは一八九一年十二月のことであり、一方その翻訳が『日本人』に連載されたのは一八九四(明治二十七)年一月から三月にかけてのことであった。ということは、『ストランド・マガジン』掲載の月から数えると、わずか二年一ヵ月の違いで日本の読者はその翻訳に触れることができたということになる。……本国においてデビューしたばかりの探偵シャーロック・ホームズの名が、わずか一、二年の違いで日本の読書界にも登場してくるという事実(下略)(341頁)


翻訳者と雑誌の発行者と、それを享受する読者層の厚さの幸福な出会いというわけである。そして、案外今よりも……だったのかもしれない。
  • 注1 下線は石瀧による
  • 注2 『日本人』第3号(明治21年5月3日)には志賀重昂「日本前途の国是は『国粋保存旨義』に撰定せざる可からず」が掲載されているが、旨義は主義であってまさに国粋保存主義が宣言されていた。国粋主義ではなく、国粋保存主義であることに注意したい。目次抄では採録しなかったが、『日本及日本人』第487号(明治41年7月1日)には白雲生「清国に於ける国粋保存主義」が掲載されている。内容は未見だが、この時点でも国粋保存主義という観点が生きていたことを知りうる。

『日本一』の役員と、発行元である南北社のスタッフを紹介します

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 *印は目次の肩書きから記者であることが確認できた人物です。

中野武営 日本一顧問
志賀重昂 日本一評議員
和田垣謙三 日本一評議員
浮田和民 日本一評議員
杉山重義 日本一修養会長
    ★    ★
(大正5年1月現在)
東京市牛込区神楽坂通り
 株式会社南北社

浮田和民 顧問・法学博士
杉山重義 顧問
田中四郎左衛門 社長
高橋都素武 専務取締役
尾後家省一 常務取締役
鶴田新蔵 取締役
佐藤鉄蔵 監査役

米村六松 主事
小野秀雄 日本一主筆
下平幸兵 卸部主任
大庭宗太夫 大阪支社主任

丸山英観 *丸山博章と同一人物のようです。
斎藤孝治郎
志手環 *
日向福次郎
松田芳太郎
船木義三郎
佐藤重雄

高須安一 *
石井衛太
大石英太郎 *
高知末造
亀甲谷真平

伊東錬次郎
大日方昇
口林集三
平山光徳
永原宗敬
酒本亀太郎
和田貞一
瀬尾浅太郎
田村都喜
江藤五十次郎
池田作四郎
岡野伊平
皆川俊三
伊藤松太郎

  (大阪支社)
増田勘治
並川一
和久十三
志保川昇平
矢内文雅
今井喜三太
高見丈夫
岡本仙平
和田正三
三宅半太
村川勇造

角喜久吾
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本間良介
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