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    <title>イシタキ・ファイル新着</title>
    <link>http://monokatari.jp/isitaki/</link>
    <description>【イシタキ・ファイル HOME】＝　イシタキ・ファイル　では石瀧豊美の作品を集成していきます。</description>
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      <title>イシタキ・ファイル HOME</title>
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    <item>
 <title><![CDATA[孫文と福岡（４）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3414</link>
<description><![CDATA[〔３・13〕雑報　○孫逸仙氏の旅程<br />
孫逸仙氏一行は、来る十七日午後三時三十二分下り列車にて来福、水茶屋常盤館に投宿、十八日午後四時より川路知事・山田旅団長・湯浅裁判所長・神崎県会議長及び市長・市会議長・商業会議所会頭等の主催に係る、西中洲公会堂に官民連合歓迎会に臨み、十九日午前八時熊本に向け出発の筈、因に歓迎会々費は一円にて此際成るべく多数の来会を期する由、<br />
<br />
〔３・14〕雑報　○孫氏と筑豊鉱業家<br />
不日来県すべき中華民国孫逸仙氏歓迎に関し、曩（さき）に筑豊鉱業組合の名を以て同氏を門司倶楽部に招待の筈なりしも、旅程取急ぎの為め右は中止し、安川・貝島・松本・麻生・中野・伊藤・堀七氏の連合にて、来十七日福岡着当日午後六時より東公園一方亭に招待の筈にて、同所嵯峨〔ママ〕経吉氏は専ら準備中なるが、同亭門頭には日華両国々旗を交叉し、玄関には赤地「歓迎孫氏」と金文字し縁に電灯装飾を施したる長五尺の扁額を掲げ、宴会場なる階上の大広間天井には民国々旗に因（ちなみ）て径五尺許（ばかり）の円形五色の彩灯二個を吊るし、室の周囲に彩色硝子（ガラス）の装飾を施こし、室外表通りには両国々旗五十流を交互に吊るし、同室及控室には安川氏外各主催者の秘蔵せる珍什佳品を配置する等、最も意匠を凝らしつゝあり、<br />
<br />
〔３・17〕雑報　○関門に於ける孫氏一行<br />
孫逸仙氏は秘書官戴天仇及何天炯（かてんけい）・馬君武・宗（ママ）嘉樹（かじゅ）・袁華選（えんかせん）氏等を随へ、宮崎滔天氏等と与（とも）に宮島より昨十六日午前五時五十分下関停車場着、プラツトホームに待受けたる小林下関市長・宝辺（たからべ）同市会議長・内田下関商業会議所会頭・市参事会員・市会議員・杉下関水上署長・新聞記者其他官民数十名の歓迎を受け、直（ただち）に山陽ホテルに入り、楼上にて歓迎者の訪問に接し、少憩後一行と与（とも）に食堂に入り、朝餐を終へて暫時休憩し、此間新聞記者其他に対し会談したり、氏は載（ママ）天仇氏の流暢なる通訳に依り記者等に対し例の荘重なる態度語調を以て語つて曰く、<br />
　今回予の貴国訪問に際し、長崎上陸以来各地を歴遊せるに、到る所熱誠にして盛大なる歓迎を受けしは、今将に貴国を去らんとするに方り予の深く感謝して措く能はざる所なり、是れ貴国人の博愛の同情を以て世界の平和の為め、又た東洋の平和の為め弊国人に好意を表せらるゝ証拠にして、予は一私人のみならず民国の人民一同に代りて感謝の意を表せざるべからず、貴国人と弊両（ママ）人の間には一部誤解を懐きし者なきにあらざるも、唇歯輔車の両国間に於ては、互に博愛親密の精神を以て平和の為に提携協力せざるべからず、而（しか）して両国の親密は之を実行の上に現はさゞる可からず、今後民国に於ては、商工業其他国富の増進に事業の計画を要するもの多々あることなれば、提携協力以て其の発展を期せんことを望む、今回貴国人の予等一行に寄せられたる誠意好情は、予帰国の上は必ず普（あまね）く之を全国民に伝ふべし、而（しか）して感謝の趣旨は亦貴国人一般に伝へられんことを望む、云々、<br />
話頭は鉄道其他に及びたり、一行休憩中、下関市よりは菓（ママ）物一籠、下関商業会議所よりは菓子一箱を何（いずれ）も贈呈したり、斯（か）くて出迎への汽艇は八時二十分門司鉄道桟橋着、安川清三郎・加納九鉄営業課長・岩崎門司水上警察署長等の出迎ひを受け、一行徒歩にて電車通に至り特別電車にて戸畑に向ひたり、<br />
<br />
同　○戸畑に於ける孫氏一行<br />
門司上陸後の孫逸仙氏は岩橋（ママ）水上警察署長に迎へられ、安川清三郎・加納九管（ママ）営業課長等と共に、八時二十五分停車場前より安川家借切の軌電九車に乗り、戸畑に向ふ途中小倉より松本九軌支配人乗り込み、八時五十分三六停留所にて一同下車、其れより孫氏及び安川氏其他数名は自働（ママ）車にて、外は腕車（わんしゃ）にて午前九時明治専門学校々門に着し、安川敬一郎氏・的場校長以下職員諸氏に迎へられて校長室に入り、其れより校長以下諸教授の案内にて各教室・工場等を順次参観し、諸教授の説明、各種の実験等あり、十一時運動場に至り、当日は日曜なるに拘（かかわ）らず特に外出を見合せ此珍客を迎へし約二百の生徒等が勇壮なる発火演習と分列式を観、其れより職員生徒の方陣に囲まれ、随員載（ママ）氏の通訳にて大要左の如き演説をなし、終つて一同と共に安川邸に入り、午餐入浴の後休憩したり、<br />
　余は本日当校を参観し、生徒諸氏の兵式体操を見て其規律あるは痛感に禁（た）へず、却説（さて）余は深く今日世界の文明は科学の力に俟（ま）たざるべからざるを信ずるものなるが、当校は由来科学上の進歩発達を図らんが為めに設立したるものなり、然るに貴国に当校ありて諸氏が当校に在学せるは、啻（ただ）に貴国進歩の為めなるのみならず、又東洋科学の進歩の為めなる事を知らざるべからず、されば余は諸氏に望む、諸氏は将来貴国の科学興業の責任を負ふのみならず、又東洋発展の為め大なる責任を負ひたるものなり、故に余は此点に於て東洋の為め実に欣喜に堪へざるなり、最後に当校の進運を祝すると共に諸氏が斯（か）く各其志す処を大成せられん事を祈る、<br />
<br />
同　○孫氏歓迎余話<br />
孫逸仙氏昨十六日朝山陽ホテルに休憩中、記者孫氏に対し、日本の鉄道御視察に関するに感想如何と問へば、氏は呵々笑つて曰く、ドウも到る処盛大の歓迎に殆（ほと）んど寸暇なく、実は鉄道視察も今回来遊の一の目的なりしも特に視察と云ふべきは東京にて中央停車場を視たる位のものにて、其他は往復旅行の汽車中の視察位に過ぎず、お話する程の事もありません▲宮崎滔天氏は関門間の船中にて語つて居つた、一昨日孫氏が宮島に於て神戸クロニクルを手にしながら、数日前のノースチヤイナデリーニユウズに東京電報として、北京より孫逸仙氏が日本に滞在するは不可なる由を在東京同国汪代表（宛脱カ）打電したるより、汪代表は日本政府と交渉の結果、遂に日本を退去するに至れり云々の記事を、更に神戸クロニクルに転載せるを見て荒唐無稽も茲に至つては殆んど噴飯に値すと、孫氏は傍人を顧みて哄笑したりと、<br />
<br />
同　○孫氏十七日日程<br />
安川邸に滞在せる孫氏一行は、本日午前九時四十分戸畑発八幡に向ひ八幡製鉄所を参観し、午後一時二十分同駅発午後一時二十分同駅発（ママ、重複）午後三時三十分博多駅着の予定なり、<br />
<br />
同　○孫逸仙氏講演<br />
本日来福すべき孫逸仙氏は明十八日午後三時より九大学友会の求めに応じ、病院等を視察したる後同大学図書館に於て一場の講演を為す由、一般有志も参聴自由なりと、<br />
]]></description>
 <category>孫文と福岡</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3414</comments>
 <pubDate>Sat, 22 Mar 2008 23:23:49 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[孫文と福岡（３）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3413</link>
<description><![CDATA[〔２・９〕雑報　○瑛胡（ママ）来着期<br />
本邦来遊中なる支那屯墾氏胡瑛（こえい）は、十日夜大阪発、十一日若松（ママ）安川家に一泊、十二日午前十一時四十分博多着の列車にて福岡に来遊し、同日の夜行列車にて孫逸仙（そんいっせん）出迎へのため長崎に赴く予定也、<br />
<br />
〔２・12〕雑報　○胡暎（ママ）氏一行来着<br />
民国毛（ママ）墾使胡暎（ママ）氏一行は、予定の如く明十三日長崎来着の孫文氏一行出迎への為め、昨十一日午前九時三十八分、鉄路神戸より下関着、直（ただち）に予（かね）て出迎へたる戸畑安川氏の家族、其他数名と共に、特に門司港務部より借入れたる汽艇神風丸に搭乗渡門、門司鉄道桟橋待合所に少憩、特別借切電車にて戸畑に赴き同地専問学校の視察を為し、夫より安川氏（ママ）に入りたり、一泊の上本日長崎に向ふ筈、<br />
<br />
〔２・14〕雑報　○孫逸仙氏と語る<br />
長崎上り二時三十三分の列車を鳥栖駅に迎ふ、列車の最終尾なる展望車に入る間もあらず、孫逸仙氏等の一行、熊本に向へる胡瑛氏一行と分れて車中に入り来る、孫氏の外かねて見知り越の戴天仇（たいてんきゅう）・山田純三郎氏等も亦一行の中にありて、来べかりし筈の前司法大臣王寵恵（おうちょうけい）氏はあらず、十三師団の参謀袁（えん）・参議院議員宋（そう）の二氏新（あらた）に加はれり、孫氏に対して曾（かつ）て我紙に寄せたる好意を謝し、携へ来れる孫氏肖像入りの本紙を呈すれば、莞爾として御礼は当方よりこそ申すべけれ、貴国は政変時に際して新聞記者は最も多忙なる時なり、遠方の接迎感激尽きずと答へ、長崎着の時間狂ひて彼（かの）地にては我国領事の外何人とも相見ざりきと語る、其面持ち昨臘（ろう）贈られたる写真に比して稍や痩せ、フロツクコートの肩のあたり何となく殺（そ）げて見え、手頸（くび）に捲きたる金時計の光冷たし、今日は新聞記者としての応接なり、記者の外に朝日・九州日報等の同僚もあり、何にもあれ時事談を承はりたしと云へば、匆忙（そうぼう）の際なり近き中に又見るべし、第二の故郷たる日本の春こそ快けれと顧みて他を語る、乃（すなわ）ち「中国革命史」に孫氏の自署を請ひ受けたる後、其れと推して食堂に避けて待つ間も無く、宮崎・山田・馬君武（京都帝大工科出身にして南京政府の実業次長）及び大阪より長崎まで出迎たる大毎新聞の佐藤君と共に食堂に入り来り卓を囲んで寛談す、孫氏、卓上の落花生に砂糖かけたる菓子を取りポロポロと囓ぢりながら、新聞記者としての君に対しては我が来遊の目的は単に観光の為なりとのみ告げん、未だ入京せざる中途詳しき談話は甚だ迷惑なり、又政論を試みんも好ましからず、君は弊邦の事に精（くわ）しく我が今日の境遇をも問はで知りたらん、近日再会の機もあるべし、是非に発表したき意見もあれば、其は載（ママ）君をして書を致さしめん、今日は久闊をこそ叙すべけれと語る、此時隣座の山田君我を顧みて政変の次第、山本内閣の閣員予想に就いて日本語もて問答するに、孫氏は耳を傾むけて、貴国の政変に血を見たるは聞くも憂（う）たてしと挿（さしはさ）む、否、憲政の完美のために流す血なり、不幸なる死傷者自らも亦以て慰むべしと我抗（あら）がへば、孫氏微笑して点頭し、只無辜の人の血を見たくなしとの意なりと云ふ、傍の宮崎君又言を挿みて尾崎行雄君は司法大臣に、犬養毅君は逓信大臣には擬せられ居ると云ふにあらずや、彼等も天下を取れり、我等も天下を取らざらんや、百二百の犠牲何かあらんと豪語し、更に英訳して孫君に告ぐれば卓を繞（めぐ）れる各人一斉に勧笑す、此より英・日・支那三国語をチャンポンにしたる異様の言語もて食卓に時ならぬ花を咲かすれば、彼の国会歓迎会に孫氏一派が関係あるやう北京に伝へられて大に迷惑せる事、江西都督李烈鈞（りれっきん）が醸（かも）せし紛擾も其実は憂ふるに足らず、又李都督のみを責むるは酷に過ぐることなどの談より、新聞紙の偉力の称賛となり新聞記者道徳論となる、我（われ）山本内閣成立すると仮定して、山本内閣に対する貴邦人の感想如何（いかん）と質（ただ）し、孫氏何事をか之に答へんとする際、汽車生憎（あいにく）も博多駅に着す、乃（すなわ）ち孫氏に請ふて展望車外に出で写真を撮影せんことを請へば、孫氏快く諾して馬・載（ママ）・何・宮崎・山田氏と共に車外に出で、我社員の指向（さしむけ）たる写真器のレンズ中に入る、駅頭には福岡県庁・福岡市役所・博多商業会議所等の各代表者等の歓迎者多数ありき、尚ほ孫氏一行は昨日午後五時廿五分、門司着、水上署の特別差立の汽船筑紫丸にて渡門、山陽ホテルに少憩の後、七時十分下関発京都に向ひし筈なり（澤村生）<br />
<br />
同〔掲載写真〕博多駅停車中の孫逸仙氏（中央孫、右馬君武、孫の左に顔を出したるは宮崎滔天）<br />
<br />
〔２・15〕雑報　○胡瑛氏歓迎会<br />
九州遊歴中なる胡瑛氏一行の福岡来遊を期とし、市役所・商業会議所・九日福日両新聞社発起にて、十六日午後五時より水茶屋常盤（ときわ）館にて其歓迎会を催す筈、出席希望者は本日中に商業会議所に申込むべし、尚（なお）氏は同夜福岡一泊の筈なり、<br />
<br />
〔２・17〕○来福せる胡瑛氏<br />
来朝中なる中華民国屯墾使胡瑛氏は、昨日午前五時三十分熊本より来着、松島屋に当時、暫時休憩の上午前十一時同旅館を発し、天神町（てんじんのちょう）平岡良助氏の邸に至り、故浩太郎氏の未亡人等と撮影し、夫より大名町の中野徳次郎氏、西職人町の玄洋社、西公園、市外住吉末永茂世氏等を歴問し、博多聖福寺内の故平岡氏の墓を弔ひ、午後二時三十分東公園一方（いっぽう）亭に至り同所に於ける中野・平岡氏等の招宴に列し、午後五時より水茶屋常盤館に於ける市内有志者の招宴に臨みたり、<br />
<br />
〔２・18〕○胡瑛氏一行招待会<br />
中華民国屯墾使胡瑛氏一行は、既報の如く一昨日市内各所訪問の後、午後三時より東公園一方亭に於ける中野・平岡二氏及び玄洋社の主催に係る招宴に臨みたるが、来賓側には胡瑛・周慶慈（しゅうけいじ）・余長輔（よちょうほ）・彭毅（ほうき）外数氏、並に川路福岡県知事、永田・馬渡・大島各事務官、横地連隊長・日野少佐・秦市助役、九日・福日両新聞社社員其他数氏あり、席定まって中野徳次郎氏主催者側を代表して簡単なる挨拶を述べ、次いで川路知事彼我両国親善の意を陳（の）べ、酒間胡瑛氏起ち一行中周慶慈氏の通訳を以て答辞を述ぶ、斯くて主客歓語多時にして散会、更に午後七時より一般市（ママ）有志者の催せる常盤館に於ける招宴に臨みたるが、此処にも川路知事始め前記諸氏の外五十余名出席小野市助役主催者側を代表して歓迎の辞を述べ、少時にして胡氏亦起つて左の答辞を述べ、午後九時散会せり、因に氏等一行は昨日午後三時廿一分博多発列車にて東上の途に就きたり、<br />
　孫逸仙先生を長崎に迎接し途たまたま此地を過ぎるに方（あた）り、予が為に此の盛大なる歓迎会を催されしは予の感激了（おわ）るを得ざる所なり、九州の地、特に福岡と敝（ママ）邦との交通は往昔甚だ頻繁なるものあり、史蹟歴々として徴すべし、近ごろ十数年来、敝邦に対し九州人士の暗に之を援助し以て、一昨秋の革命を完成するを得せしめられたるは、敝邦人悉く感謝措（お）かざる所なり、而（しか）して敝邦は今や革命を遂行し得たりと雖（いえども）、百瑞ともに興るを俟（ま）つ、兄分たる貴国の指導協賛を得るに非ずんば全からんこと難し、凡（およ）そ亜細亜（アジア）に国するもの数邦あれども、東亜に位地（ママ）して其眉目を為すものは貴邦と敝邦とあるのみ、貴邦と敝邦とは同種なり、同文なり、又同洲なり、二邦提携せずして可ならんや、理応（まさ）に提携すべき也、然れども談何ぞ容易なるといふ語あり、同種同文同洲なるが故に提携すべしとの論を聞くは久しけれども、既往に於ては空論に了らんとせしこと少からざりき、予の今日諸君に切望する所の者は実々在々の提携なり実々在々の協助なり、而して提携協助を実行するの捷（しょう）径如何、曰く、商工業上に於ける関係を層一層密接ならしむるに在り、凡そ近世の文明の発達は科学の力に待たざること無し、敝邦の科学の発達及び人智の程度は貴邦に比し遜色甚し、此点に於ても兄分たる貴邦は、敝邦を啓発さるゝの義務ありと信ず、科学の力に頼る殖産興業は実に敝邦今日の急務にして、之が為めには貴邦人の援力を請ふと共に、敝邦人は之に酬ふるの途を忘れざるべし、予一人にても苟も計り能ふ所の便宜は、今後之を計るに躊躇せず、予日本語に熟せず、通訳を介しての演説は心肝を披瀝し悉さゝるの憾みあれども、言外の言、意中の意は略ぼ了得せられたりと信ず、敢へて多く言はず、冀（こいねがわ）くは国民的・経済的携帯（ママ）の実行に予が趣旨なるを記せられんことを、<br />
]]></description>
 <category>孫文と福岡</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3413</comments>
 <pubDate>Sun, 24 Feb 2008 17:35:23 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[孫文と福岡（２）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3412</link>
<description><![CDATA[　　　孫文関係記事一覧<br />
　　　　* 「　」は見出し、（　）は小見出しの別。<br />
月・日<br />
２・３「孫文渡日確定」「孫逸仙入京期」<br />
２・４「孫逸仙待遇」<br />
２・５「孫逸仙来着期」<br />
２・７「孫逸仙来着期」<br />
２・９<b>「瑛胡（ママ）来着期」</b><br />
２・12<b>「胡暎（ママ）氏一行来着」</b><br />
２・13「孫氏来遊目的」「写真、本日来朝の孫逸仙氏」<br />
２・14「孫逸仙来る」<b>「孫逸仙氏と語る」</b>「写真、博多駅停車中の孫逸仙氏」<br />
２・15「関門に於る孫逸仙氏」「胡瑛氏歓迎会」</b><br />
２・16「孫逸仙入京す」「孫逸仙氏歓迎」「孫逸仙氏歓迎会」「孫氏延命寺参詣」<br />
２・17「孫氏と知人」<b>「来福せる胡瑛氏」</b><br />
２・18「孫逸仙歓迎会」「東邦協会の孫氏歓迎」<b>「胡瑛氏一行招待会」</b>「写真、孫逸仙氏の入京―新橋着当時の出迎人雑沓」「写真、帝国ホテルに於けり（ママ）孫氏」<br />
２・20「大岡議長の孫氏歓迎」「両氏の辞令交歓」「写真、滞京中の孫逸仙氏―日暮里近衛公の墓参」<br />
２・23「孫逸仙氏動静」<br />
２・24「孫氏と日華学生」<br />
２・26「北京宮の悲雲―隆裕皇太后の御事共」（孫氏一行の談・某支那通の談）<br />
２・27「孫逸仙氏帰程」「孫氏歓迎会」<br />
３・１「孫逸仙氏の電告」<br />
３・２「孫氏と実業関係」<br />
３・４「孫氏の首相訪問」「寺尾博士の対支談―二日福岡県教育会主催先賢追慕会に於る演説」<br />
３・５「民国承認問題」「孫逸仙氏歓迎」「寺尾博士の対支談（承前）」<br />
３・８「孫逸仙氏旅程」<br />
３・９「孫氏一行来着」<br />
３・10「孫逸仙氏入洛」「孫と香港日報」<br />
３・11「日華国民連合会の活動」<br />
３・13<b>「孫逸仙氏の旅程」</b><br />
３・14「孫氏歓迎の影響」<b>「孫氏と筑豊鉱業家」</b><br />
３・16「孫逸仙氏出迎」「孫氏の海軍見学」<br />
３・17「孫逸仙氏の答詞」<b>「関門に於ける孫氏一行」「戸畑に於ける孫氏一行」「孫氏歓迎余話」「孫氏十七日日程」「孫逸仙氏講演」</b>「孫逸仙氏小伝―本日午後来福すべき（写真）」「歓迎孫逸仙先生来博（クラブ歯磨広告、写真）」<br />
３・18<b>「孫逸仙氏一行</b>―昨日午後三時半来福<b>」（安川邸にて・製鉄所参観・列車内の孫氏一行・福岡来着・孫氏代理の来社・孫夫人等遭難・本日の日程）</b><br />
３・19<b>「孫夫人経過」「孫逸仙氏一行」（午前中の行動・旧友会の招待・九州大学参観・公会堂の歓迎会・本日の日程）、「寺尾博士と宮崎氏」</b>「写真、福岡医科大学講話会に臨みし孫逸仙氏（昨日所見）」<br />
３・20<b>「孫逸仙氏一行」（列車中の一行・三池港其他観覧・宮崎家訪問・万田坑を見る・熊本の日程）、「孫氏講演と歓迎」（九大に於る講演・公会堂の講演）、「不体裁なる歓迎会」</b><br />
３・21<b>「孫逸仙氏一行」（工業学校参観・晩餐会・大牟田出発</b>・熊本駅着・熊本見物）<br />
３・22「孫氏の熊本出発」「長崎に於ける孫中山」「宋教仁狙撃さる」<br />
３・23「孫逸仙氏一行」「写真、狙撃されたる宋教仁氏」<br />
３・24「孫逸仙氏一行」「孫氏の日支親睦論」「<u>宋教仁氏</u>」「嗟乎宋教仁氏」　* 以上二つは三月二十日上海で狙撃され二十二日死亡した宋教仁の訃報。以後続報相次ぐが割愛する。<br />
３・28「孫逸仙氏帰着」「宋教仁追悼会」<br />
３・30「日華国民会成立」<br />
]]></description>
 <category>孫文と福岡</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3412</comments>
 <pubDate>Sat, 23 Feb 2008 22:18:50 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（５）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3411</link>
<description><![CDATA[　阿片王・里見甫は中学修猷館の柔道部の出身なのか、あるいは玄洋社付属道場明道館で柔道を学んだのか。このことにも疑問がある。<br />
<br />
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank"><font color="chocolate">佐野眞一</font></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104369039?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4104369039" TARGET="_blank"><b><font color="chocolate">『阿片王―満州の夜と霧』</font></b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4104369039" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%A5%BF%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank"><font color="chocolate">西木正明</font></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087744450?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4087744450" TARGET="_blank"><b><font color="chocolate">『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』</font></b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4087744450" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のどちらもがそう書いていた。少なくとも、そう受け止められるような書き方をしていた。<br />
<br />
　ところで、『修猷館柔道部百年史』（１９９５年１０月、同編集委員会）と『明道館史』（〈明道館創立８８周年記念〉１９８４年９月、明道館）を見たが、どちらにも里見甫の名は見えない。　<br />
<br />
　佐野眞一によると、里見自身が（名門修猷館中学の五年生の時）「孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる」と述べたことになっている。西木正明の場合は、「玄洋社では、ここで（明道館で……石瀧注）青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれた」となる。<br />
<br />
　大正２年に福岡を訪問した時、中学修猷館であろうと、明道館であろうと、孫文が柔道の試合を見たことがあったのかどうか。当時の新聞記事を見る限り、その事実は確かめられない。そのことは、「阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（３）」で述べた通りだ。<br />
<br />
　のみならず、里見が修猷館の柔道部に在籍した事実も確かめられないし、明道館で模範試合に出場するほどの実績を残したという記録自体が見当たらない。不思議な話である。もっとも「小説ですから……」というだけの話で、こだわる方がおかしいのかもしれないが。<br />
<br />
　明治３９年に中学修猷館を卒業した安川第五郎（安川電機製作所社長、日本原子力発電社長、東京オリンピック組織委員会会長など）の場合は、中学時代に柔道部に在籍し、明道館では３８年４月に奥入の奥義相伝を受けている。柔道部でその一級上にいたのが<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><font color="chocolate">中野正剛</font></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />、宮川一貫（いずれも代議士）、阿部真言らである。ついでながら、阿部の名前は佐野眞一『阿片王』に一ヶ所だけ出て来る。ただし、里見甫とは直接関係のない形ではあるが……。<br />
<br />
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><font color="chocolate">大川周明</font></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の日記を引いた部分だ。<br />
　「大正十一年七月二十九日　……榊原君は相変らずだ。そのうち阿部真言君が来たので榊原君は帰つた。真言君に聞くと榊原君の評判は非常に悪い」（１４２頁）<br />
<br />
　ここで名前を挙げた安川第五郎、中野正剛、宮川一貫、阿部真言のいずれもが玄洋社員として名を連ねることになる。安川は東京帝大に、中野・宮川・阿部は早大に進んだ。（石瀧作成＝<a href="http://www5e.biglobe.ne.jp/~isitaki/page045.html" TARGET="_blank"><font color="chocolate">玄洋社員・名簿</font></a>）]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3411</comments>
 <pubDate>Fri, 25 May 2007 22:42:34 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[孫文と福岡（１）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3410</link>
<description><![CDATA[<b>『福岡地方史研究会会報』</b>第２１号〔１９８２年４月３０日、福岡地方史研究会発行〕より<br />
<br />
資料紹介<br />
　　　　<b><large>孫文と福岡（一）</large></b><br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　石瀧豊美<br />
<br />
　辛亥革命に助力した日本人は多かったが、殊に福岡県では玄洋社の人々や筑豊の炭鉱経営者たちの与えた援助が知られている。ただ、これらの福岡県人と辛亥革命の関わりについても、わかっているのは通りいっぺんのことであって、具体的な事実についてはほとんど解明されていないのではなかろうか。私が知りたいのは事実である。<br />
　福岡県所在の孫文関係資料を集め、記録にとどめることを本稿の目的としたい。孫文関係の資料を追うことで、ひいては孫文と玄洋社・筑豊鉱業家との関係を、その細かいひだに至るまで、見きわめたいものだと思う。先ず、大正二年二・三月の孫文訪日関係記事を、当時の福岡日日新聞からひろってみる。（他に、孫文の動向に関連するものも、合わせて採用した）<br />
<div style="text-align: center">◆　　　　　　　　　　　　 ◆<br />
</div>　中国では十月十日を双十節と呼ぶ。武昌（今、湖北省武漢市の一部）に辛亥革命の火ぶたを切った記念日である。今年（昭和五十六年）はちょうどその七十周年にあたる。<br />
　中国革命同盟会の結成（明治三十八年八月）から辛亥革命（同四十四年十月）に至る過程で、宮崎滔天をはじめ、革命派を支援した日本人には九州出身の人々が多かった。中でも福岡県では、玄洋社が組織をあげて孫文を支援していた。その人たちの名は、枚挙にいとまがないほどである。亡命中の孫文の生活を支えていたのは、筑豊の炭鉱経営者が提供した資金であった。このように、「孫文と福岡」は、中国近代史や日本近代史といったレベルだけでなく、福岡地方史の分野でも興味深いテーマである。<br />
　辛亥革命の直後、中華民国臨時大総統に就任した孫文は、在任二カ月余にして袁世凱にその地位を譲る。中華民国元年、明治四十五年三月（七月、大正に改元）のことである。翌大正二年二月十三日、孫文は前・国家元首としての栄光につつまれて来日、三月二十三日帰途につくまでの三十九日間、行く先々で歓迎の人波にもまれたのだった。この間、福岡県内では戸畑・八幡・福岡・大牟田の各地を訪れた。八幡製鉄所や三池炭鉱を視察し、明治専門学校・九州大学・三井工業学校を見学した。殊に福岡市では西職人町の玄洋社を訪問し、聖福寺と崇福寺に革命を支援した玄洋社員の墓参を行った。<br />
<br />
<div style="text-align: center"><img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070524-tyuuzan.jpg" width="314" height="336" alt="中山紀念碑　中山は孫文の号。孫中山と言った。" title="中山紀念碑　中山は孫文の号。孫中山と言った。" /></div><br />
<div style="text-align: center">孫文生誕百年を記念した「中山紀念碑」（福岡市南公園）</div><br />
　孫文来日の直前、二月十日には東京日比谷の内閣弾劾国民大会が騒擾化し、焼打ちにまで発展して軍隊が出動した。孫文の来日中には、上海で宋教仁（国民党指導者の一人）が袁世凱の手で暗殺されるという事件が起きた。日本も中国も政変のさなかであった。この年七月には袁世凱打倒の第二革命が失敗、孫文は黄興とともに日本に亡命するのである（九月七日）。この孫文来日の当時は、革命派と袁世凱の妥協が成立していた時期だったが、一方では不安な序奏が聞こえ始めていたのでもあった。<br />
　記事転載にあたり、次のとりあつかいをした。<br />
①旧字体は新字体に改めた。次のように、同音の当用漢字でおきかえた場合もある。「聯→連」<br />
②ルビは原文によらず、必要なものだけ新たに付けた。ルビは新かなづかいに従っている。……（補足　ルビは（　）内に移した。）<br />
③原文には句点はなく、読点はあるがその数は少ない。新たに読点のみ補って読みやすくした。また、単語が並んでいる場合は中黒を付した。<br />
④孫文記事一覧のうち、福岡県関係分（ゴシック体で区別）だけを掲載した。……（補足　ゴシック体を太字に替えた）<br />
⑤新聞は、福岡県文化会館所蔵の福岡日日新聞（大正二年二・三月分）を利用した。……（補足　須崎にあった福岡県文化会館図書部は現在、箱崎に移り福岡県立図書館となっている。当時は新聞の原紙を閲覧できたが、今はマイクロフィルムでしか見ることができない）]]></description>
 <category>孫文と福岡</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3410</comments>
 <pubDate>Thu, 24 May 2007 22:27:27 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（４）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3409</link>
<description><![CDATA[<div style="text-align: center"><img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070524-zoruge.jpg" width="113" height="186" alt="『ゾルゲ事件』" title="『ゾルゲ事件』" /></div><br />
<br />
　以下は全くの余談である。新書本の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%B0%B8%E6%9D%BE%E6%B5%85%E9%80%A0&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank">永松浅造</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><b>『ゾルゲ事件』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（１９５６年３月、近代社）を読んでいたら、「上海で婦人同志の銃刑」という章にぶつかった。婦人同志というのは、「虹口（ホンキユー）の日本軍特務機関に勤務している支那婦人の鄭蘋茹（ていひんじよ） 」で、登場人物の会話によって「赤軍のスパイばかりでなく、重慶の蒋介石（しようかいせき）政府のためにも、日本軍のためにもスパイをやつてるんだよ。いわば三重スパイだね。」（６６頁）と紹介される。<br />
<br />
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">佐野眞一</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104369039?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4104369039" TARGET="_blank"><b>『阿片王―満州の夜と霧』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4104369039" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（２００５年７月、新潮社）にもこの名前は出て来た。「当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如<span class="footnote"><a href="#3409-1" title="　茹と如の違いは元のママ。以下、引用を除き、ここでは永松浅造に従っておく。　女スパイ 鄭蘋如 はアン・リー次回作のモデル＜春巻雑記帳　から台湾のサイトにある写真にたどりついた。　還我丈夫頭來！＜自由時報電子新聞網－自由廣場">*1</a><a name="3409-1f"></a></span>（テイピンルー<span class="footnote"><a href="#3409-2" title="　これも、西木正明はテンピンルーと読んでいる。以下、西木に従う。">*2</a><a name="3409-2f"></a></span>）という女スパイがいた。中国人司法官の父と日本人の母の間に生まれた鄭蘋如は、人並み外れた美貌の持ち主だった。」（２００頁）<br />
<br />
　『阿片王』では鄭蘋如処刑の現場に立ち会った上海憲兵隊特高課長の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%9E%97%E7%A7%80%E6%BE%84&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank">林秀澄</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の証言<span class="footnote"><a href="#3409-3" title="　『林秀澄氏談話速記録』がある。">*3</a><a name="3409-3f"></a></span>として「この美女の最期」が語られる。鄭は日本側諜報機関のジェスフィールド76号<span class="footnote"><a href="#3409-4" title="　「汪兆銘政権擁立工作側の秘密組織」『阿片王』１９７頁。「フランス租界の七十六番地にあるので〝七十六号〟という」『ゾルゲ事件』６９頁。ここに写真があった。　上海老樓的故事---劊子手的營地：汪偽“76號”">*4</a><a name="3409-4f"></a></span>に監禁され、林子江という中国人官吏に、映画に連れて行こうと欺されて、処刑場へと連れ出される。<br />
<br />
　同じ場面が、『ゾルゲ事件』では呉子宝<span class="footnote"><a href="#3409-5" title="　上記の「汪偽“76號”」では呉世宝と書かれていた。">*5</a><a name="3409-5f"></a></span>が虹口へ行こうと誘い出したことになっている。また、日本人が立ち会ったことにはふれていない。微妙な表現の違いは他にもあるが、もっとも驚かされたのは、鄭蘋茹がゾルゲの上海でのスパイ組織の一員だったとされていることである。『阿片王』ではプレイボーイ近衛文隆の遊び相手と書かれているが、これは『ゾルゲ事件』の方には出てこない。近衛文隆を主人公とする、西木正明の『夢顔さんによろしく』については後で触れる。<br />
<br />
　永松浅造によると、鄭蘋茹は蒋介石の重慶側（藍衣社）のスパイとして、日本側（すなわち汪兆銘側）から処刑されたが、実はソ連の赤軍のスパイでもあり、三重スパイの「ほんとうのところは、赤軍のスパイ」だったというのだ。しかも、七十六号から身を守るために「日本陸軍の特務機関の諜報部員」（７２頁）となったのだから、事実上は四重スパイでもあったというすごい話になる。美貌のみを武器にしての活躍である。<br />
<br />
　「もし鄭女が四馬路の極東本部<span class="footnote"><a href="#3409-6" title="　コミンフオルム極東本部。">*6</a><a name="3409-6f"></a></span>のことを自白したら、それこそ上海の諜報部ばかりでなく、日本のゾルゲスパイ団も、一網打尽に検挙される」（７８頁）。『阿片王』では単なる美人スパイのエピソードという扱いだったが、『ゾルゲ事件』の方では、東京にいるゾルゲと尾崎秀実が鄭女史の助命に奔走したこと、その際、表向き動けないゾルゲが世論を味方に救援に努めたことが語られている。『阿片王』では三重スパイどころか、ゾルゲとの関係にはふれていなかっただけに、永松浅造の記事には強い印象を受けた。ただ、日中双方の血を引く鄭蘋茹がなぜ（ソ連）赤軍のスパイ組織に属したのかの説明は見当たらない。<br />
<br />
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%A5%BF%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">西木正明</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E5%A4%A2%E9%A1%94%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%8F&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><b>『夢顔さんによろしく』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（１９９０年７月、文藝春秋）は佐野眞一『阿片王』で書かれていた、近衛文隆とテンピンルーの交際を大きなモチーフにしている。上海の東亜同文書院に勤務する文隆のもとに、一人の美女が訪ねてくる。父は中国人、母は日本人だ。<br />
<br />
　「年の頃は二十歳前後。顔は小さな卵形。広い額の下に、きれいに弓形を描いた眉毛と、目尻がわずかにつり上がった大きな二重まぶたの目があった。瞳の色は淡い茶色。<br />
　長めの髪の毛を、無造作に軽く後頭部で束ね、肩まで垂らしている。藤色のチャイナドレスは、腿の少し上までスリットが入った、控えめな物。それが、この女性には恐ろしいほど良く似合っていた」（１８０頁）<br />
<br />
　西木の小説の特徴はその微に入り細を穿つ描写である。文隆とピンルーの初対面の場面だが、そんなことを書き残した文献はあろうはずもなく、すべて西木の想像の産物であろう。それどころか、上海での文隆と女スパイテンピンルーの交際も、小説上の虚構にちがいなかろう。読者はここまで詳しく書いているのだから、ほんとうのことに違いないと思いこまされることになる。ノンフィクション・ノベル（！）というのだそうだ。<br />
<br />
　テンピンルーの最期の証言者として知られる（小柄な）林秀澄少佐まで、作中人物として登場させたのはなかなかの腕前である。それにしても、伝説の女スパイ・テンピンルーは戦前の上海を描く上でなくてはならない存在だということがわかる。<br />
<br />
　『阿片王』では「当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如という女スパイがいた」（２００頁）と書かれていた。「鄭蘋如はその類まれな容姿で、時の日本国総理大臣・近衛文麿の息子で、当時、東亜同文書院に留学中だった近衛文隆に近づいた。……鄭蘋如と近衛文隆の美男美女カップルが夜な夜な上海の盛り場を遊び歩く姿は、日本政府を慌てさせた。二人の仲が日中関係悪化の原因となることを恐れた近衛家では……」と続く。<br />
<br />
　日本国総理大臣は、もしそう言いたければ、大日本帝国総理大臣と言い直すべきだろうか。日本国と言われると、戦後のことを語っているような響きがある。『夢顔さんによろしく』では「学生主事として赴任」、「一介の大学職員としての赴任」（１６８頁）としていたところが、ここでは「留学中」という点が異なるが、おおむね『夢顔さん』の記述をなぞっているような印象を受ける。「二人の仲が日中関係悪化の原因となる」という論理は理解しがたいが、『夢顔さん』の方では、このあたりを丁寧に描いている。テンピンルーは「日支和平」のために意図的に文隆に接近したと告白し、文隆を重慶に潜行させようと画策する。しかし、もちろんフィクションと見るべきであろう。<br />
<br />
　佐野眞一はこうも書いていた。<br />
<br />
　「蒋介石派と汪兆銘派の血で血を洗う秘密戦の様相は、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%99%B4%E6%B0%97%E6%85%B6%E8%83%A4&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank">晴気慶胤</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%83%86%E3%83%AD%E5%B7%A5%E4%BD%9C%EF%BC%97%EF%BC%96%E5%8F%B7&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><b>『上海テロ工作７６号』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />に活写されている。……<br />
　『上海テロ工作７６号』は、書き出しの描写からして三文スパイ小説なみで大いに笑える」（１９８頁）<br />
<br />
　と。一方で活写と言いながら、他方で三文スパイ小説とこきおろす。その感覚が不思議だ。私は晴気の著書<b>『謀略の上海』</b>（１９５１年１１月、亜東書房。これを改題・再刊したものが『上海テロ工作７６号』。）を読んで、むしろ晴気の並々ならぬ筆力というものを感じた。テンポ良く話は展開する。まさに〝活写〟と言うにふさわしい。描写は（文学的には）不器用かもしれないが（それは表現する目的が違うだけのことである）、私は笑える書き出しというふうには思わなかった。<br />
<br />
<div style="text-align: center"><img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070524-bouryaku.jpg" width="118" height="171" alt="『謀略の上海』" title="『謀略の上海』" /></div><ul class="footnote"><a name="3409-1"></a><li><a href="#3409-1f">注1</a>　茹と如の違いは元のママ。以下、引用を除き、ここでは永松浅造に従っておく。　<a href="http://springroll.exblog.jp/5414937/" TARGET="_blank"><I>女スパイ 鄭蘋如 はアン・リー次回作のモデル＜春巻雑記帳</I></a>　から台湾のサイトにある写真にたどりついた。　<a href="http://www.libertytimes.com/2003/new/mar/12/today-o4.htm" TARGET="_blank"><I>還我丈夫頭來！＜自由時報電子新聞網－自由廣場</I></a></li><a name="3409-2"></a><li><a href="#3409-2f">注2</a>　これも、西木正明はテンピンルーと読んでいる。以下、西木に従う。</li><a name="3409-3"></a><li><a href="#3409-3f">注3</a>　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%9E%97%E7%A7%80%E6%BE%84%E6%B0%8F%E8%AB%87%E8%A9%B1%E9%80%9F%E8%A8%98%E9%8C%B2&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"TARGET="_blank"><b>『林秀澄氏談話速記録』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />がある。</li><a name="3409-4"></a><li><a href="#3409-4f">注4</a>　「汪兆銘政権擁立工作側の秘密組織」『阿片王』１９７頁。「フランス租界の七十六番地にあるので〝七十六号〟という」『ゾルゲ事件』６９頁。ここに写真があった。　<a href="http://www.yiyou.com:1980/b5/shanghai.yiyou.com/html/13/402.html" TARGET="_blank"><I>上海老樓的故事---劊子手的營地：汪偽“76號”</I></a></li><a name="3409-5"></a><li><a href="#3409-5f">注5</a>　上記の「汪偽“76號”」では呉世宝と書かれていた。</li><a name="3409-6"></a><li><a href="#3409-6f">注6</a>　コミンフオルム極東本部。</li></ul>]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3409</comments>
 <pubDate>Thu, 24 May 2007 02:22:53 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[竪坑櫓　№２　2007/05/11]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3408</link>
<description><![CDATA[<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-1hati2.jpg" width="372" height="306" alt="竪坑櫓009" title="竪坑櫓009" /><br />
「わが家の蜂の巣　増築中か？」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-2tatekou2.jpg" width="372" height="538" alt="竪坑櫓010" title="竪坑櫓010" /><br />
「夕焼けの竪坑櫓。シーメイト駐車場から」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-3tatekou.jpg" width="372" height="668" alt="竪坑櫓011" title="竪坑櫓011" /><br />
「東側の張り出し」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-4tatekou.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓012" title="竪坑櫓012" /><br />
「南東方向から仰ぎ見る。」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-5tatekou.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓013" title="竪坑櫓013" /><br />
「南側に張り出したひさし」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-6tatekou.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓014" title="竪坑櫓014" /><br />
「ひさしを上へ」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-7tatekou.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓015" title="竪坑櫓015" /><br />
「ひさしの上の格子状の部分」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-8tatekou.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓016" title="竪坑櫓016" /><br />
「南壁と西側の張り出し」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-9tatekou.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓017" title="竪坑櫓017" /><br />
「もう一度、東側の張り出しを見る」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-10tatekou.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓018" title="竪坑櫓018" /><br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-11tatekou.jpg" width="372" height="134" alt="竪坑櫓019" title="竪坑櫓019" /><br />
「ボタ山の間を夕日が沈む。ピラミッドが二つあるように見えるでしょう？」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070511-0511-12tatekou.jpg" width="372" height="311" alt="竪坑櫓020" title="竪坑櫓020" /><br />
「わが家の裏からボタ山を望む。右側の薄いシルエットがボタ山。」<br />
]]></description>
 <category>今日の竪坑櫓</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3408</comments>
 <pubDate>Fri, 11 May 2007 23:50:31 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[竪坑櫓　№１　2007/05/10]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3407</link>
<description><![CDATA[　竪坑櫓とは、地下の坑道へと鉛直につながる「竪坑」を、エレベーターのように上下に上り下りするために作られた施設だ。地上部分は５２メートル以上、地下部分は４３０メートル。てっぺんに巻揚機が設置されていた。<br />
<br />
　海軍・国鉄時代を通して、唯一の国営炭鉱である旧志免鉱業所の竪坑櫓は、戦時中に造られた巨大なコンクリート構造物で、今年、国の「登録有形文化財」の指定を受けた。<br />
<br />
　竪坑櫓は周辺の風景に融け込み、季節により、時間によって、また天候によっても、さまざまな表情を見せる。折々の表情をここにとどめていくことにしよう。<br />
<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou001.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓001" title="竪坑櫓001" /><br />
「壁に張り付いて、冬の間は静かに眠っていた草が、眠りをさまして、そろそろ緑を濃くし始めた。」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou002-2.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓002" title="竪坑櫓002" /><br />
「左側は庁舎跡に建つシーメイト」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou003.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓003" title="竪坑櫓003" /><br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou004-2.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓004" title="竪坑櫓004" /><br />
「左に少し見えるのがボタ山、右に、ここからは見えないがシーメイト・竪坑櫓。その間を新しく作られた道路が貫く。志免町から須恵町へ抜ける。正面に見えるのは若杉山で、右に三郡山地が連なり、その先の麓に太宰府天満宮がある。」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou005.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓005" title="竪坑櫓005" /><br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou006-2.jpg" width="372" height="279" alt="竪坑櫓006" title="竪坑櫓006" /><br />
「竪坑櫓の足元部分。鉄板で四囲を囲っている。」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou007.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓007" title="竪坑櫓007" /><br />
「竪坑櫓のｔｏｐ。避雷針がある。」<br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20070510-tatekou008.jpg" width="372" height="496" alt="竪坑櫓008" title="竪坑櫓008" />]]></description>
 <category>今日の竪坑櫓</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3407</comments>
 <pubDate>Thu, 10 May 2007 23:15:22 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（３）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3406</link>
<description><![CDATA[　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%A5%BF%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">西木正明</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087744450?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4087744450" TARGET="_blank"><b>『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4087744450" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">佐野眞一</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104369039?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4104369039" TARGET="_blank"><b>『阿片王―満州の夜と霧』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4104369039" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />を読んだのは、周囲からしばしば質問を受けたことがきっかけだった。佐野著『阿片王』では、里見甫が中学修猷館在学中に、孫文の前で柔道を披露したことになっているが、そもそも孫文は中学修猷館を訪れたことがあるのか、という質問である。もちろんそんな話は聞いたことがない、覚えがないから、そのような疑問が生じることになる。<br />
<br />
　佐野眞一によれば、大正２年（１９１３）２月、進藤喜平太が孫文を中学修猷館に案内し、里見は孫文の前で柔道の試合をしてみせた。原稿のその部分は、里見自身の談話の記録がもとになっていることも、佐野は明かしている。<br />
<br />
　私は大正２年に孫文が九州に足を踏み入れた時の新聞記事を集めて、「孫文と福岡（一）」（『福岡地方史研究会会報』第２１号〔１９８２年４月３０日、福岡地方史研究会発行〕に収録）を発表したことがある。残念ながら「一」で終わっているが、福岡日日新聞の２月３日「孫文渡日確定」から始まり、３月３０日「日華国民会成立」まで、孫文訪日関係の記事として見出しを拾い、福岡県滞在中の記事は網羅して翻刻、掲載した。それによって、孫文の日程をたどってみよう。<br />
<br />
　孫文は２月１３日、長崎に上陸。列車で上京した。この時は福岡市を素通りして、再び九州を訪れるのが３月１６日。下関から汽艇で門司の桟橋に着いた。戸畑の明治専門学校（現・九州工業大学）を見学、次いで安川敬一郎邸に一泊した。<br />
<br />
　翌１７日、八幡製鉄所を見学の後、午後３時３０分、孫文を乗せた特別列車は博多駅に着いた。４時、旅館常盤館で休憩。福岡日日新聞社、九州日報社訪問予定を取りやめたのは疲れがたまっていたのであろう。午後６時、東公園一方亭で孫文歓迎の晩餐会が催された。主催したのは安川敬一郎をはじめ、貝島・松本・麻生ら筑豊鉱業家７名。<br />
<br />
　１８日午前１０時、常盤館を出て博多聖福寺にある平岡浩太郎の墓参、次いで福岡天神町の平岡良助宅（浩太郎の遺児）を訪問し、中野徳次郎別邸に立ち寄った後、西職人町玄洋社を訪問した。平岡家訪問後は西公園で風光を眺めると予告されていたが、これは中止されたもようである。<br />
<br />
　午後１時、常盤館にもどって、安川敬一郎、進藤喜平太、平岡、中野ら旧友会主催での午餐。孫文の革命運動を助けた日本人同志一同が会した。午後３時、東公園松原内の崇福寺に安永東之助の墓参（この時の記念写真がよく知られている）。隣接する九州帝国大学医科大学（現・九州大学医学部）を見学の後、戴天仇の通訳で講演。職員・学生・一般有志で教室はあふれんばかりの盛況だった。<br />
<br />
　午後６時には西中洲公会堂で歓迎会。主催者総代は川路県知事、来会者は官民２００名。翌１９日午前８時３０分博多発の列車で大牟田へ向かい、熊本・長崎を経て帰国の途に就いた。平岡良助から孫文へ、博多人形１２組が贈られた。<br />
<br />
　すなわち、３月１７日午後３時３０分博多駅着。１９日午前８時３０分博多駅発。正味４１時間の福岡市滞在であった。それにしても、孫文はあわただしい日程をよくこなしている。ただ、この報道では中学修猷館訪問の記事はなく、中学修猷館であれ、玄洋社付属道場明道館であれ、孫文の前で柔道の試合が行われたという記事もない。<br />
<br />
　実際に、里見甫の談話が残されているのだとすれば、それは別の機会のことであろう、少なくとも大正２年３月１７日・１８日のことではない<span class="footnote"><a href="#3406-1" title="　西木、佐野ともに孫文の来福を２月としているが、すでに述べた通り、２月の時点では福岡市を素通りしている。">*1</a><a name="3406-1f"></a></span>、と考えるほかはない。現実にもこの日程で、中学修猷館を訪れる時間的余裕はないし、もし訪れたとすれば、九州帝国大学など他の例から見て<span class="footnote"><a href="#3406-2" title="　石瀧豊美「総長室にかかる孫文の書―学内歴史探訪７―」（『九大広報』第１０号〔２０００年１月、九州大学広報委員会発行〕）">*2</a><a name="3406-2f"></a></span>、記念の揮毫が残され、学生を前にしての講演も行われたであろう。今のところ、そうした記録が見当たらないのである。<ul class="footnote"><a name="3406-1"></a><li><a href="#3406-1f">注1</a>　西木、佐野ともに孫文の来福を２月としているが、すでに述べた通り、２月の時点では福岡市を素通りしている。</li><a name="3406-2"></a><li><a href="#3406-2f">注2</a>　石瀧豊美<a href="http://www.kyushu-u.ac.jp/magazine/kyudai-koho/No.10/rekishi.htm" TARGET="_blank">「総長室にかかる孫文の書―学内歴史探訪７―」</a>（『九大広報』第１０号〔２０００年１月、九州大学広報委員会発行〕）</li></ul>]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3406</comments>
 <pubDate>Thu, 26 Apr 2007 01:15:12 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（２）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3405</link>
<description><![CDATA[　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">佐野眞一</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104369039?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4104369039" TARGET="_blank"><b>『阿片王―満州の夜と霧』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4104369039" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（２００５年７月、新潮社）を読むと、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%A5%BF%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">西木正明</a>が何をもとに小説を書き、どこまでが史実を踏まえていて、どこからが作家の想像力にもとづくのかが、おおむねわかるような気がする。<br />
<br />
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E5%A4%9C%E3%81%A8%E9%9C%A7&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">『夜と霧』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />は精神科医フランクルのナチス・ドイツによる強制収容所体験を描いた本のタイトルとして知られている。「満州の夜と霧」はそのフランクルの本を直ちに連想させる。うまい命名だが、読者にあらかじめ強いメッセージを刻印することにもなる。<br />
<br />
　著者は満州の夜と霧に姿を隠している二人の人物、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">甘粕正彦</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />と里見甫に強い関心を持つ。甘粕は敗戦と同時に自殺し、里見は戦後の日本社会を生き延びる。甘粕の死を「潔い自己処罰というより、きわめて身勝手な自己清算」という著者は、権力から遠ざかる位置を貫いて飄々と生きた里見の戦後の処し方に対しては、西木正明の場合と同様、好意的である。<br />
<br />
　宏済善堂（里見機関）がペルシャアヘンで稼ぎ出した２０００万ドルは現在の貨幣価値では３０兆円近い（１６７頁）。その資金が里見を通じて<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">蒋介石</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />側に、あるいはこれと敵対する<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%B1%AA%E7%B2%BE%E8%A1%9B&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">汪精衛</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（汪兆銘）側に、そして日本の軍部へと上納された（１７２頁）。<br />
<br />
　里見甫の陰に見え隠れする男装の麗人梅村淳（じゅん）に興味を持った著者は、里見の満州・上海での謀略の鍵を握る人物として梅村の追跡を始める。「私は行く先々で、梅村淳という謎の女にいよいよ翻弄されていくことになる。」本書のテーマは男装の麗人の正体を明かすことであるかのようだ。西木の小説には梅村淳は登場しなかった。<br />
<br />
　梅村淳の養母ウタは満州国皇帝<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%BA%A5%E5%84%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">溥儀</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（ふぎ）から与えられた（という）勲章（のようなもの）を胸に、写真に収まっている。甘粕と里見が役割を分担し、やがて満州国皇帝となる溥儀を天津から脱出させるシナリオがあった……と著者は推測する。ウタも一定の役割を果たしたのだ。これまで知られていなかった事実を掘り起こしているには違いない。しかし、著者自身が「陰謀史観に毒された荒唐無稽の推論と一笑に付す向きもあるだろう」と言う通り、どれも詰めが甘いという印象は残る。<br />
<br />
　５２頁に書かれていた、梅村淳が「やんごとなき家柄らしく、京言葉を使っていた」という証言は、いつのまにか雲散霧消してしまっている。やんごとなき家柄は、別の証言で「かなり高貴な生まれ」「（子爵・陸軍中将）小笠原長生の落としダネ」とまで、強調されていたのだが……。<br />
<br />
　８２頁にこういう個所がある。「彼女」とあるのは、東条英機の私設秘書若松華瑤の娘（二代目若松華瑤）である。<br />
「高畠義彦の戦時中の肩書きは、すでに割れていた。海南島・厚生公司の東京事務所責任者というのが、高畠の戦時中の肩書きである。<br />
　高畠の名前が彼女の口から出たとき、里見と若松、そしてその背後に控える東条は阿片で完全につながった、と思った。<br />
　というのは、昭和十四（一九三九）年の陸海軍共同の占領以降、海南島では阿片の原料となるケシ栽培が盛んに行なわれており、海南島・厚生公司東京事務所の責任者となった高畠が栽培を、上海の宏済善堂のボスとなった里見が販売を、それぞれ一手に任されていたからである。」<br />
<br />
　この部分は示唆されているだけで、深められていない。高畠義彦は「（夢野）久作の義母幾茂の従妹の長男に当たる」（<a href="http://www1.kcn.ne.jp/~orio/main/contents.html" TARGET="_blank">久作関係人物誌</a><<<a href="http://www1.kcn.ne.jp/~orio/index.html" TARGET="_blank">夢野久作をめぐる人々</a>）。つまり、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E5%A4%A2%E9%87%8E%E4%B9%85%E4%BD%9C&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">夢野久作</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の父<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">杉山茂丸</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />から見れば、妻のイトコの長男だ。高畠の名が里見と並んで出て来るとは思いもしなかった。<br />
<br />
「記念写真の方には、里見と森田継生、それに海南島のアヘン栽培の元締めだった高畠義彦の三人が、見るからにふてぶてしい面構えで写っていた」（２２７頁）というのも同じで、〝ふてぶてしい〟と見るかどうかは人によって違うわけだし、仮にそうだとしてもだからいったい何なの……、と言いたくなる。顔で行状のよしあしを判断するわけにはいかない。西木氏の本は文句なしに楽しめたが、佐野氏の本は真実の追究よりも、主観を優先させているように思えた。「疑念が晴れた雲のすきまから、謎めいた笑いを浮かべた里見の精悍な顔が、一瞬、見えたと思った。」（４０２頁）などという思わせぶりな表現はこうした本の常套だが、私の好みではない。<br />
<br />
　さて、孫文が中学修猷館を訪れたという問題。西木正明はこう書いていた。<br />
「大正二年二月、里見が中学五年生の時、修猷館にめずらしい客があった。一年余り前の明治四十四年十月、辛亥革命を成功させたばかりの孫文である。<br />
　……玄洋社社長の進藤喜平太に案内されて、修猷館を訪問したのだった。<br />
　修猷館訪問後、一行はさほど遠からぬ西職人町にある玄洋社構内の武道場、明道館に移った。玄洋社では、ここで青年たちによる柔道の試合を見せて、孫文の旅情を慰めることにしたのである。里見は、この明道館で得意の柔道に磨きをかけていた。そしてこの時、孫文の前で行われる模範試合出場者の一員に選ばれたのだった。」（『其の逝く所を知らず』５１頁。ただし、誤りは正して引用。）<br />
<br />
　同じ内容が佐野眞一『阿片王』ではこうなる。文中「覚書」とあるのは、元東洋大学教授中下正治氏による「里見甫氏談話おぼえ書き」で、里見自身の談話を書き取ったもの。<br />
「『覚書』の一ページ目は、大正二（一九一三）年二月、前々年に辛亥革命を成功させ、中華民国臨時大総統に就任した孫文が、福岡の修猷館中学を訪問した記述から始まる。<br />
　当時、里見は……名門修猷館中学の五年生だった。昭和四十年記録の『覚書』で里見は、そのときのもようをこう述べている。<br />
〈今日より五〇年前なり、孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる。これより小生の中国関係はじまれりというべし〉<br />
　同年三月、修猷館を卒業した里見は上海の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">東亜同文書院</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />に進んだ。<br />
　……玄洋社の二代目社長で、孫文を修猷館に案内した進藤喜平太に頼みこみ、福岡市からの留学生という身分での入学だった。」（８８～８９頁）<br />
<br />
　進藤喜平太が孫文を修猷館へ案内したという記述では一致している。佐野によれば、（この点あいまいだが）里見が孫文の前で柔道の試合に臨んだのは修猷館でのことのように思える。西木は明道館へ移動した後のことである、と言う。<br />
<br />
　いずれにしても、この部分の記述が、里見自身の談話に拠っていることが明らかになった。<br />
<br />
　ついでに、玄洋社記念館について書かれた部分には違和感がある。著者は玄洋社記念館を訪ねたが、「いつ行っても留守だった」として、こう書いている（８９頁）。<br />
「大アジア主義を唱え、保守、革新を問わず多くの若者たちを共感させてきた玄洋社も、時代の波には抗（あらが）えず、忘却の彼方に遙か遠く過ぎ去っている」と。<br />
<br />
　無駄足を踏んだ佐野氏には気の毒というしかない。しかし、開いていなかったのは、今は故人となった館長の進藤龍生さん（進藤喜平太の孫）が地域の役職についていて多忙だったからだ。そのことをもって「時代の波に抗えず……」というのは見当違いである。私も空振りになることがしばしばあった。ちなみに、玄洋社の付属道場だった明道館は、場所こそ移ったものの、今も活動を続けている。]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3405</comments>
 <pubDate>Tue, 10 Apr 2007 18:53:21 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ（１）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3404</link>
<description><![CDATA[　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">佐野眞一</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104369039?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4104369039" TARGET="_blank"><b>『阿片王―満州の夜と霧』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4104369039" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（２００５年７月、新潮社）が出た時、私の周辺で話題になった。<br />
<br />
　阿片王とは福岡県立中学修猷館の出身で、上海の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">東亜同文書院</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />へと進み、中国大陸で阿片を扱って巨万の富を稼ぎ出したとされる里見甫（はじめ）のことである。<br />
<br />
　玄洋社の研究で里見の名を目にすることはない。しかし、中学修猷館の出身だというだけでも、玄洋社の周辺に位置していたことは間違いない。大正二年に孫文が福岡を訪れたとき、里見は孫文の前で柔道を披露したという。孫文は中華民国が成立した翌年、辛亥革命支援への感謝をこめて玄洋社を訪問したのだ。この時、孫文が修猷館をも訪問したのかどうか、が史実としては問題になる。私の周辺で話題になったというのはそのことである。<br />
<br />
　里見については、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%A5%BF%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%98%8E&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">西木正明</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087744450?ie=UTF8&tag=issiekandokuk-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4087744450" TARGET="_blank"><b>『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』</b></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&l=as2&o=9&a=4087744450" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（２００１年７月）があることを知ったので、まず『其の逝く処を知らず』を先に手に取った。「その逝（ゆ）くところを知らず」……死後の行き先は地獄か極楽か、という含意がある。里見の墓碑に刻まれた言葉がタイトルになっている。<br />
<br />
　ハードボイルド・タッチの乾いた文体。最初から最後まで、緊張をはらんでストーリーは進行する。李鳴（りめい）の中国名を持つ里見（李鳴大人と呼ばれている）は、影佐禎昭（かげささだあき）大佐にペルシャアヘンの輸入と流通を取り仕切るよう依頼される。影佐はその得た資金で<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">汪兆銘</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（おうちょうめい）政権樹立を画策する。めざすところは日支の和平……盧溝橋事件に始まる日中戦争の停止だ。里見は自己の利益のために阿片の売買に手を染めたのではない……というのが本書の基調である。<br />
<br />
　ペルシャアヘンは三井物産が上海まで運んできた。軍の管理下に置かれたアヘンは、里見のパートナーである盛文頤（せいぶんい）に引き渡され、いくつものルートで売りさばかれる。<br />
<br />
　盛は抗日戦争を闘う<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">蒋介石</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のシンパだ。上海の裏社会を支配する秘密結社<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E9%9D%92%E5%B9%87&tag=issiekandokuk-22&index=books-jp&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211" TARGET="_blank">青幇</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=issiekandokuk-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（ちんぱん）の杜月笙（とげっしょう）の片腕でもある。盛はまた、蒋介石のもとでテロ活動を実施する藍衣社（らんいしゃ）のリーダー戴笠（たいりゅう）を里見に紹介し、里見は戴笠とも手を組むことになる。<br />
<br />
　アヘンの流通によって、蒋介石側に利益がもたらされ、他方で影佐の謀略資金も確保される。表で闘う日中双方が里見を接点に裏では提携していた。<br />
<br />
　終戦後、里見はＡ級戦犯の容疑で巣鴨プリズンに収監されるが、国民政府に身柄の引き渡しを求められる。里見の知る秘密が法廷で公然化されることを戴笠は恐れている。アメリカ側もまた同様の弱みを持つ。妥協が成立して、連合軍は里見を釈放した。この取引で、里見は岸信介の釈放も条件に加えて……。<br />
<br />
　陸軍と提携した里見は海軍の児玉誉士夫に比肩される存在だった、それが戦後は市井に隠れるような人生を送った。その潔さに西木正明は好感を持っている。<br />
<br />
　小説である以上、虚実が巧みに織り込まれていて、どこまでが史実を踏まえているのかがわからない。そこが作家の腕の冴えでもある。<br />
<br />
　里見が被差別部落出身の芸者お喜代と知り合うことが、里見の人生に転機をもたらすことになるのだが、お喜代は作者の造型であろうと見た。しかし、これが後々の展開の伏線ともなっているのは見事な構成だ。<br />
<br />
　お喜代は言う。「あたしのように、ただそこで生まれたというだけの理由で、差別される者の気持ちなんて、絶対にわかりっこないわよ」。<br />
<br />
　<br />
<br />
　▼５１頁　「玄洋社社長進藤嘉平太」は進藤喜平太の間違い。<br />
　同　「東職人町にある玄洋社」は西職人町の間違い。<br />
]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3404</comments>
 <pubDate>Sun, 8 Apr 2007 14:52:59 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[頭山満は天才である　追記]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3403</link>
<description><![CDATA[　「満は天才なり」と書いた東台隠士とは何者か。彼は名士の家を訪問しては応接間を観察し、そこから主の人柄を探ろうとする。<br />
<br />
　【近代デジタルライブラリー】で著者＝“東台隠士”で検索すると、ヒットしたのは次の三冊であった。<br />
　　1. 伊庭想太郎 / 東台隠士著，日本館, 明３４．８<br />
　　2. 江戸の武士伊庭想太郎 / 東台隠士著，日本館, 明３４序<br />
　　3. 名士の交際術 / 東台隠士著，大学館, 明３５．３<br />
<br />
　１・２は同じ本で標題は『〔江戸の武士〕伊庭想太郎』、序文は松野翠識。奥付は編輯兼発行人岡田常三郎の名のみで著作権者の表示がない。<br />
<br />
　松野翠は木下尚江の筆名で、したがって東台隠士とは木下尚江なのである。尚江は明治２年の生まれで、『名士の交際術』を出した明治３５年には数えの３４歳。明治３２年からは毎日新聞の記者になっていた。<br />
<br />
　つまり、キリスト教社会主義の立場に立つ尚江が、一般的には対極にあると考えられているであろう頭山満を、好意的に描き出していたのだということが明らかになった。]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3403</comments>
 <pubDate>Sat, 14 Oct 2006 01:10:28 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[伊藤時編『茶話（ちゃばなし）』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3402</link>
<description><![CDATA[<b>伊藤時『茶話』</b><br />
<br />
奥付：編輯兼発行者伊藤時、発売所東京堂書店（東京市神田区表神保町二番地）、明治三十四年五月拾八日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>陸羯南</b><br />
●陸羯南ほど碁好きも少いだらう廿幾年前司法省の学校で書生をして居た時分から打始めて今に絶えず打て居るに此頃でも国分青崖へ井目置て百目以上も負けるそうな<br />
<br />
◎それで青崖が自分より少し強い桂湖村抔と碁を打て居ると羯南が側からノベツに助言をして居る<br />
<br />
◎福本日南が洋行から帰ツて来て羯南と打て見ると少しも上達して居らずに依然呉下の旧阿蒙だから日南が君もー碁は止め給へと云つたら羯南が碁は止めてもよいが助言は止めぬと云ツたげな<br />
（下略）<br />
<br />
▼元版は茶話主人著『〈維新後に於ける〉名士の逸談』文友舘発行である。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た福本日南</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3402</comments>
 <pubDate>Thu, 12 Oct 2006 23:56:34 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[岩崎徂堂『名士経世奇談』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3401</link>
<description><![CDATA[<b>岩崎徂堂著『名士経世奇談』</b><br />
<br />
奥付：著作者岩崎徂堂、発兌元笛浦堂（東京市神田区千代田町十九番地）、明治三十五年二月二十一日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>支那料理と鰕</b>（えび）<b>の講釈</b><br />
人間は何（ど）んな者でも得意がある、又た自惚自慢も免かれないのであるが、彼の神鞭知常（こうむちともつね）と云ふ男は上（かみ）は星晨日月（せいしんじつげつ）の大より下（しも）は世俗人情の微細に至るまで一として知らないことはないと云ふて、自称自慢して居るのである、或時彼れは同士の人と共に支那の料理を食べようと言ふて往かれたことがあつた、すると鰕が出たのである、彼れは其の皮を剥きて喰べながら字と云ふものはどうも能く出来て居る者じやないか、此の鰕と云ふやつは斯の如く皮が段々となつて居るから、魚扁に段の字を書くのであると云ふた、そうすると其の傍らに居つて福本日南と云ふ男の言ふのには、夫れは間違つて居る、成る程鰕と云ふ字の旁（つく）りはカ（叚）でダン（段）ではない<span class="footnote"><a href="#3401-1" title="　原文では「鰕と云ふ字の旁（つく）りはカ（段）でダン（段）ではない」とあるが、「カ（叚）」の誤植と見て正しておいた。">*1</a><a name="3401-1f"></a></span>然しながら世間で云ふカヂ（鍛冶）はタンヤの誤りであると云ふ人があると言ふたので、流石才物の彼れ神鞭であるから、直ちに語を転じて満洲料理談に及んで仕舞うたと云ふ話しがある。<ul class="footnote"><a name="3401-1"></a><li><a href="#3401-1f">注1</a>　原文では「鰕と云ふ字の旁（つく）りはカ（段）でダン（段）ではない」とあるが、「カ（叚）」の誤植と見て正しておいた。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・同時代が見た福本日南</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3401</comments>
 <pubDate>Thu, 12 Oct 2006 23:42:25 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3399</link>
<description><![CDATA[<b>吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』</b><br />
<br />
奥付：著者吉田俊男、発行所成功雑誌社（東京市本郷区弓町壱丁目十一番地）、明治四十五年六月十八日発行<br />
<br />
<br />
　　　　<b>（三十四）　怪傑頭山満と九州炭鉱王平岡浩太郎</b><br />
左様、今では物故せられた、九州炭鉱王の一人たる、平岡浩太郎は、生前怪傑頭山満と、非常に懇意な間柄であつた、平岡が先年、欧洲見物から帰ると、帰朝の旨を報ぜんものと、頭山の邸に赴いた、主客互に、久方振りの挨拶が済むと、平岡は脇目も触らず、一生懸命、欧洲に於ける交通制度の完備より、美術工芸の発達と云はず、鉱山経営と謂はず、あらゆる方面より説き起し、遂に天下経綸に説き及んだ、終始黙々として傾聴して居つた頭山が、いつしか寝込んでしまつたと見えて、周囲より高鼾の声が聞えた、これはしたり平岡は、頭山に天下の経綸を説いたのぢやない、何のことはない、壁に向ふて話しをして居つた様なものである、こゝに平岡は、喋舌り損の草臥れ儲け、後ち平岡は頭山が、不図目覚めたのに気附き、<br />
平岡「頭山寝て居つたのか」、<br />
頭山「うむ」、<br />
平岡「頭山酷いね」、<br />
頭山「俺りや寝掛けるから、汝へも寝ながら話せと言ふたら耳に入らぬようぢやつたから、お先に御免蒙つた、あはゝゝゝゝ」、<br />
相手にこふ言はれちや、流石の平岡浩太郎も、今更仕様がない、又話しに来ようと、頭山の邸を辞した、後ち頭山人に語るよう、「平岡が俺に種々難かしいことを話したようだが、何で俺に西洋のことなど判るかい」。<br />
<br />
　平岡浩太郎は、頭山満の郷友である、彼は起業的手腕のあつた人で、鉱業界に成功を博した、喝采的生涯を送つた、一世の快男子であつた、事業の迹を見ると頭山を真似てる所が、ちらりちらり現はれて居る。<br />
<br />
　請ふ左に、某雑誌記者の、頭山満平岡浩太郎の人物対較評の一節を掲げしめよ。<br />
<br />
　平岡浩太郎は、人に接すると、盛んに天下の経綸を説いたものだが、頭山満は之と反対に、沈言寡黙、己れは天下国家を論じない、頭山満の親友子爵三浦梧楼（観樹将軍）も、頭山の豪い所は、自ら天下国家を口に出さないで、いざ国家的の問題が起ると、云はず語らずの中に、驚天動地のことをやらかすにあるのだ、と又能く穿つてる、平岡に始め接すると、英姿颯爽人をして、覚へず快哉を叫ばしむるが、二度目には漸く稚気を感じ、三度四度するに及んでは、遂に矜気を生ずる、頭山は平岡と異なつて居る、頭山に始めて逢ふ時は、愚なる如く、二度目には茫なるが如く、三度目には大なる如しと、<br />
<br />
　此言は一寸面白い、嘗て頭山が結社の玄洋社に在る日、終日黙して語らず、茫然として来り、茫然として去つたことがある位、一見愚なる如く、衆人の間に在りて、別る所はなかつたのである、然るに、久しからずして、社の首領と仰がるゝに至つたのを見ると、何処かに常人の上に立つべき偉大なる所があるのである。<br />
<br />
　最後に著者の、頭山満評を、簡単に記せば次の如くである。<br />
<br />
　単に頭山満の名のみ聞くものは、世に怪傑と謳はれて居る人だから、何だか怖ろしく、近づき難いように思ふが、さて逢ふて見れば、風貌堂々たる人物で、何となく元亀天正年間の遺物ではないかと思はれる、これは頭山満に初見の時の観察である、彼と久しく交遊するに従ひ、頭山満は、剛勇にして胆大、深く其智を晦まし、機略を蔵するの人であるかゞ判る、元来義侠心に富んで居る男だから人の難義を扶助せずには居られないのである。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3399</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 19:55:11 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[須藤靄山著『名士名家の夫人』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3398</link>
<description><![CDATA[<b>須藤靄山著『名士名家の夫人』</b><br />
<br />
奥付：著作者須藤愛司、発行所大学館（東京市神田区鍛冶町十七番地）、明治三十五年二月廿三日発行。（年月日は手書き訂正による）<br />
<br />
<br />
　　　　<b>平岡浩太郎と其夫人</b><br />
福岡県第一区撰出代議士平岡浩太郎君といへば何人も其九州鉱山王として又憲政本党の金庫として商界に亦政界に其偉名を拡めつゝあるは世人皆之を承する処。其君が始めは維新改革より西南戦争の間身を千軍万馬の中に置き遂に賞典録を賜はるに至りしと云へば軍人的事歴に似たるも、君が度量已に百折不撓の胆据りて居る故にして敢て怪しむに足らず、君今より十数年以前僅に金二十両を懐にし、赤池に至つて鉱業に従事し掘り当てゝ以て今日の富に及びしと云へば世人又大に其好運に驚くならん、君は嘉永四年六月二十三日を以て福岡地方に生れしなり、君が前半生は鉱業より出でゝ政事家となり、又鉱山業に返りしが明治二十七年日清平和破れしより以来又風雲に乗じ其三区より挙られて中央の政機に参与す、降りて三十年松隈両伯の間に斡旋し遂に其聯合内閣を組織せしめぬ、爾後政党の変遷につれ今は憲政本党に籍を措くに至る、君が此幾年の間に在つてよく世に処し、政界に奔走するを得しは即ち君が家に在つてよく其内政を理弁し、君をして毫も其財政より私交迄眷顧の憂なからしめたる君が令夫人の在りしが為なり、世人君が偉業を賞すると共に之が内に在つて君が諸事を補助せし夫人が功は決して忘るべからざるの価値あり、又世の夫人たるもの大に奮起せざるべけんや。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3398</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 19:54:04 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[岩崎徂堂著『〈商海立志〉明治豪商苦心談』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3397</link>
<description><![CDATA[<b>岩崎徂堂著『〈商海立志〉明治豪商苦心談』</b><br />
<br />
奥付：著作者岩崎勝三郎、発兌元大学舘（東京神田区鍛治町十七番地）、明治三十四年十月十一日発行。（月日は手書き訂正による）<br />
<br />
<br />
　　　　<b>平岡浩太郎</b><br />
世に所謂政治家なるものは即ち政党屋である、若し吾人をして云はしめたならば彼れは政党政派の為めに労する者であつて政治家ではない、政治家たらんとせば政治上の素養がなけんければならんので有る、彼れ等は何の有する所もなくて自から政治家を以て誇るとは余輩其意を知るに苦しむのである、彼れ等の多くは祖先伝来の遺物を蕩尽して、漸く代議士たるの資格を仮ることを得て而して其伎倆は皆無に属して居るのである、其為す所只夫れ己利、眼中には社会なくしかも国家と云ふ感念がないので有る、徒らに其位置に懸恋して以て歳費二千円を貪るのみで有る、其一度び議場に上ては活動を失ふて黙然たる有様で有る、偶々開口しても賛成若くは不賛成の短語を発するのみで有つて理由に至ては之を口にすることが出来んのである、蓋し彼れは脳中利益の外は何の計画ない頭脳又空々たるのみで有るからである、誰れか憫笑せざるものあらんや、思へば政治と他の関係を知らざるの徒敢て怪しむに足らないので有る独り君の如きは真個の政治家である、正党を組織し得らるゝの資格ある一人物であると、我輩の認むる所である請ふ聊か一言せん先づ君の<br />
<b>生地</b>　より云へば君は九州福岡地行の人、嘉永四年六月を以て生る、君が家は世々鉱業を営む幼少の時より秀才能く衆を抜く長ずるに及び文武の学を講じた、戊辰の際君王師に従ふて軍功あり為めに賞典録を賜はつたのである、其平定するや君は卒先以て就義隊なるものを編制したが廃藩置県と共に戍衣を解き以て公私の事に身を尽す、佐賀の乱が起るや君四方に奔走して志士と謀つて以て不慮に備ふた、西南の役<br />
<b>兵を挙げて</b>　遙に西郷に応じたが戦破れ単身薩軍に投じて事平ぐや君は捕はれて東京の獄に入れられ、十二年放免された後に<br />
<b>玄洋社</b>　を起して二区十五郡四十万人民の連署を以て国会開設の建白を為す、吾人今日に於て帝国議会を見る所以のものは蓋し君等主張に依て生れたるものである、之れより後ち政党熱の流行するや君は立憲政体上に於ける政党の必要を認め茲に始めて政海に入る此時十四年君が齢三十二の時にぞありしが、君は傍ら鉱業に従事して富国の策を講ず爾来日を追ふて欧米の文明に化して内部の事皆な彼れに習ふたので有る、交通上の機関は益々繁多となつたから、君は早くも此点に着眼し九州に於ける炭鉱其他の諸鉱を採掘して以て外国の輸入を防ぎ、一は以て斯業の発達を図つた、之れ君が政治家として実業と政治との関係を知るの端緒で有る、君は実に鉱業界の人たるばかりでなく一汎経済上の事情に注意して措かな（か）つた、故に君は今日流行せる政党屋でなくて実に夫れ真の政治家と評するのも豈偶然ではない、見よや去年清国に変乱あるや君は忽然として満州の内地を跋渉し、戦況地理民情の視察を遂げて朝に帰た、然して之を政友に説くに清国問題を以てした吾人は政治家として宜しく君の如き着眼と決心なくてならぬと信じて疑はないのである、君は籍を進歩党に置いて松隈内閣□立に斡旋し次で憲政党□立に多額の金を抛ち終に政党内閣の濫觴を開くに至つた所以は又任つて君の熱誠に出でないと云事はないのである、故に党員は挙げて君の徳を慕ふた宜で有る君は現下憲政本党の有力者で或一方に於ては真に旗頭として持囃さるゝので有る、之れ皆な君が実力あるにあらずんば何を以て他を支配することを得べけんや、蓋し君の如きは現時の代議士として政党家として又敵を見ざるのである吾輩聊か之を特筆して諸氏に紹介する所以のもの又他にある訳でない]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3397</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 19:53:06 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[頭山満は天才である]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3396</link>
<description><![CDATA[<b>満は天才なり</b><br />
<br />
　ついに見つけたぞ。同時代の頭山満評。それも究極の……。<br />
<br />
　頭山満とはどういう人物なのか。後世の、ためにする評価（それがおとしめるものであれ、持ち上げるものであれ）ではなく、真実の人物像に迫りたい。それには何と言っても直接会った人達の言に耳を傾けることだ。<br />
<br />
　そう思ってコツコツと証言を集め始めたのがブログ「同時代が見た頭山満」である。<br />
<br />
　集め始めてとんでもない混乱ぶりに我ながら驚かざるを得なかった。いったい世の中に、このような両極端の評価を受ける人物が他にいるものだろうか。すでに同時代に頭山満の評価は分かれている。とんでもない賢人と見るか、とんでもない愚人と見るか<span class="footnote"><a href="#3396-1" title="　たとえば、木村義治『現代偉人の言行』（明治４１年）には「世人は頭山氏を……頭脳粗笨で、思慮雑駁で」と見ているであろうが実はそうではない、と書き出している。">*1</a><a name="3396-1f"></a></span>……その両極端しかないのである。いやはや。<br />
<br />
　ところで、そのついでに今度は「同時代が見た平岡浩太郎」にも手を出したのだが、その平岡浩太郎評の中に、頭山満との比較論があった（東台隠士著『名士の交際術』）。明治３５年（１９０２）の刊行。頭山はこの年、数えで４８歳、平岡はその４歳年長だ。頭山はすでに数多の壮士を抱える浪人の巨頭であり、いっぽうの平岡も石炭経営の成功で巨富を蓄え、政界を陰で操っている。<br />
<br />
　この本の中で、頭山は黒田如水と同じく愚を装っているが、如水と同様に「天才」である、と評されているのだ。作者は頭山を訪問したが、インタビューは実はかんばしくなかった。無口で返事がかえってこないのだ。しかし、座は白けるどころか「一陣の春風が満ちて居るかの如くに感ぜられるの」だと言う。<br />
<br />
　また、「頭山は何にも知らぬ人かと云ふに、決してそうでない。人情には深く通じ、何でも知て知て知り抜いて居つて、それで知らぬ顔をして居るのである」とも言う。それが愚を装うということでもある。これは中江兆民の有名な評「君（頭山のこと）言はずして而して知れり」に通ずるものがある（『一年有半』明治３４年）。<br />
<br />
　その作者が「満は天才なり」とも書いていた。頭山満の人間像……まことに不可思議で、他に類のない人にはちがいない。問題はどういうものさしを用意すべきか、ということになりそうである。<br />
<br />
　急いで付け加えておこう。「満は天才なり」と断じた東台隠士。実は彼が用意したものさしが実に変わっていた。「余は人を観察するは宜しく其の家に就いてす可しといふ定義を決めたのである。」<br />
<br />
　彼のものさしはただ応接間のたたずまいである。そのため、平岡浩太郎邸の応接間の描写は微に入り細に亘る。「余は特に其の人となりに就て断定を与へないで唯だ其応接間を諸君の眼前に供へたのみである」。<br />
<br />
　すなわち『名士の交際術』とは、応接間は人物の価値を推し量る最良の手段を提供する（……「応接間は人なり」）という仮説のもとに書かれた本なのである。奇書というべきであろう。<ul class="footnote"><a name="3396-1"></a><li><a href="#3396-1f">注1</a>　たとえば、木村義治『現代偉人の言行』（明治４１年）には「世人は頭山氏を……頭脳粗笨で、思慮雑駁で」と見ているであろうが実はそうではない、と書き出している。</li></ul>]]></description>
 <category>インフォメーション</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3396</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 00:59:28 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[東台隠士著『名士の交際術』から　追録]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3395</link>
<description><![CDATA[<b>東台隠士著『名士の交際術』</b><br />
<br />
奥付：著作者東台隠士、発兌元大学館（東京市神田区鍛冶町十七番地）、明治三十五年三月廿三日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>◎平岡浩太郎</b><br />
<br />
<div style="text-align: right">（略）</div><br />
<br />
ツラツラ惟（おも）ふに往年封建時代の遺風は其の藩々に依て今も猶ほ余韻を存し居るかの如くに思はれる、筑前は関ヶ原の大戦後黒田長政の封ぜられし所であつて長政の父如水は非凡の豪傑にして又頗る洒々落々たる気風ありて極めて放胆的でヤヽもすれば曠世の英雄秀吉を翻弄せんずる気宇の人であつた、従ふて長政も亦乃父の遺鉢を踵（つ）いで少年の時からナカナカ聞かぬ気の性で年甫（はじ）めて十三の時其の一族の黒田甚吉なるものゝ家に出火があつた其の頃は盗賊が頻りに徘徊して居つたので長政は一族に火事が出たと云ふので手に大なる薙刀を提（ひつさ）げて奔り行き其の家人に号令して汝等早く家財を搬（にな）ひ来れ我れ此に在て之を守るべしとて火の鎮まるまで泰然として孤（ひと）り留り以て賊の襲来を禦（ふせ）いだと云ふ談（はなし）である、それのみならず一方には柔和（やさ）しい情け深い義気にも富んで居つたと云ふのは彼の関ヶ原の戦ひに石田三成は武運拙く空しく敗亡（やぶれ）て終に家康の捕虜（とりこ）となつて小西行長等と与（とも）に縛せられた後ちであるが長政は馬に跨（の）つて家康の所に行かんとして途中（みち）で三成が秋風の寒く身に浸む頃にまだ帷子（かたびら）一枚で慄へて居るのを見て徐（そぞ）ろに哀れを催ふし馬から飛び降りて三成の前に行き自から着くる陣羽織を脱ぎて三成に着せたと云ふことである誠に武士の情けと云ふものは芳ばしき談である。<br />
<br />
古への藩主が斯ふ云ふ気風であつたからしてか妙に今の筑前人士に此の遺風が存して居つて面白いのである、一口に九州人と云ふけれども取り分け筑前は快活でハツキリして交際（つきあ）つても気持が善（い）い果して然らば今日筑前人士の性格を代表するもの果して誰ぞと問ふものあらば余は其の人を挙ぐるに少しも躊躇するなく曰く頭山満曰く平岡浩太郎の二人を称すべし、古への豪傑を以て之に比すれば頭山の大智にして胆あり略あり而して愚を装ふる所は如水の如く平岡は長政の如しとも云ひ得べけんか、如水が其の子長政を戒めて汝は乃公（おれ）の如くに智ならず又天下を争ふの機略なし我れ死するの後は小心翼々臣下を撫して自から驕ることなかれと浩太郎を以て満に比す其の器量の大小人物の高下は猶ほ長政を以て如水に比すると略ぼ同一と謂ふても善からう<b>満は天才なり</b>是を以て高きなり大なるなり浩太未だ垢抜けせざるなり、構へるなり、従ふて大ならざるなり高からざるなり然れども浩太も亦筑前人士なり高く且つ大ならずとは雖も快活なり任侠なり一たび意（こころ）に決するあれば邁往突貫して少しも顧みず斃れて後ち止むの慨あり頭山に比すればこそ小なれ浩太豈に猥りに軽（か）ろんずべけんや。<br />
<br />
<div style="text-align: right">（略）</div><br />
]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3395</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 00:26:03 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[東台隠士著『名士の交際術』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3394</link>
<description><![CDATA[<b>東台隠士著『名士の交際術』</b><br />
<br />
奥付：著作者東台隠士、発兌元大学館（東京市神田区鍛冶町十七番地）、明治三十五年三月廿三日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>◎平岡浩太郎</b><br />
明治十年西郷南洲叛旗を翻へして王師に抗して九州の地を風靡するの慨あり年少気鋭の徒、太平無事の世に在て頻りに腕を撫して事あれがしと祈り居る矢前きに薩南の一隅に狼火燄々天を燃かんとす乱を思ふの青年血沸き肉動き剣を負ふて之に投ずる者日に相踵ぐ今の長谷場純孝佐々友房福井県知事宗像政の如き当時九州に於ける青年中の翹楚たり何んすれぞ夫れ躊躇せんや孰れも袖を投じて起ち奔りて南洲の軍に応ず剛骨稜々たる平岡浩太郎年歯将に二十有六時に福岡に在りて実業に従事す風雲甚だ急なるを見るや彼れ亦牙籌を捨てゝ剣に更へ意気昂然として賊軍に入りて死生の間に出入し乱平ぎて南洲以下宗徒の面々悉く自刎して死し一味の徒類或は梟せられ或は徒刑に処せられ禁獄に投ぜらる者其の数を知らず浩太郎亦禁獄三年の処刑に逢ふ後ち出でゝ玄洋社の副社長となり多数の健児を教養し傍ら炭山に従事し巨万の富は多数の健児を養成す議会開くるや代議士に推選せられ毎ねに強硬の議論を主張し三十二年自由進歩二党連合して憲政党を組織するに当て其の間に斡旋尽力甚だ勉め終に憲政党内閣を組織するに到れる者平岡大に与て力ありと云ふべし彼れ亦真とに人中の豪たるを失はず。<br />
　　　　＊　　＊　　＊　　＊<br />
一口に九州と謂ふ者の九州人には其の国々に依て夫れぞれの特徴が存して居るが中にも薩摩熊本筑前佐賀と来たら丸で各々其の流義を異にして居るのみならず面構へからして違つて居る見給へ佐賀人の顔はドレモコレモ揃ひも揃ふて一つの鋳型で造られたかの如くに綺麗に三角形に出来て居るから面白い既に故人となつた江藤新平の写真を見よ今の子息新作と同じ様に額が広くて頬が殺（そ）げて立派に三角形に為つて居るではないか大木喬任も三角であつたが佐賀人の代表者とも云ふべき大隈伯爵に副島伯爵孰れも現在御覧の通りである少し細長くはあるが松田正久も三角の鋳型たるは免かれない既に佐賀人に此の特徴がある如くに孰（いづ）れも夫れ皆斯の如しだ、薩摩人は躯幹長大にして鬚髯（ひげ）が多い所北海道のアイノ人種に似たる所があつて其の性質は勇悍で極めて朴直の風采を備へて居るが案外に狡獪な性質に富んで居るは不思議じやないか薩摩出身の元老株で貧乏人は少ない陸海軍人も皆然りだ熊本人に至ては體格には之と云ふ特徴は見へぬが総體に智巧に長じて決してヘマナ事はしない又人を危地に落し入れて屁とも思はないのは明智光秀の謀叛時代から引き続き一種（ひとつ）の遺伝性を為して居るかの如く思はれる、であるから先づ節義とか大義とか云ふ如き肩の凝る面倒な事は此の国人に求るは恐らく求むる者の愚であらう維新前の豪傑平野国臣が斯（こ）ふ謂て居る肥人議論に長じ大節に臨んで為すあるなしと何事に限らず議論を好むの風あるも亦妙じや昔は我豈に弁を好まんや止むを得ざるなりと歎息した哲人もあるが肥人は大に弁を好みて止むを得て尚且つ論弁するの癖あり、今の佐々克堂や徳富蘇峰など云ふ連中が肥人の好標本とでも云ふのであらうか、筑前に至ては大に其の撰を異にして居る凡て華麗（はで）やかで覇気に富んで頗る義侠の熱誠漢が多い様に思はれるが中には向ふ見ずの突飛漢（とつぴかん）も此の国の輸出品であるらし、大隈伯の片脚を奪ひ取つた来島恒喜と云ふ男も此の国の産物であつたのだ。<br />
<br />
ツラツラ惟（おも）ふに往年封建時代の遺風は其の藩々に依て今も猶ほ余韻を存し居るかの如くに思はれる、筑前は関ヶ原の大戦後黒田長政の封ぜられし所であつて長政の父如水は非凡の豪傑にして又頗る洒々落々たる気風ありて極めて放胆的でヤヽもすれば曠世の英雄秀吉を翻弄せんずる気宇の人であつた、従ふて長政も亦乃父の遺鉢を踵（つ）いで少年の時からナカナカ聞かぬ気の性で年甫（はじ）めて十三の時其の一族の黒田甚吉なるものゝ家に出火があつた其の頃は盗賊が頻りに徘徊して居つたので長政は一族に火事が出たと云ふので手に大なる薙刀を提（ひつさ）げて奔り行き其の家人に号令して汝等早く家財を搬（にな）ひ来れ我れ此に在て之を守るべしとて火の鎮まるまで泰然として孤（ひと）り留り以て賊の襲来を禦（ふせ）いだと云ふ談（はなし）である、それのみならず一方には柔和（やさ）しい情け深い義気にも富んで居つたと云ふのは彼の関ヶ原の戦ひに石田三成は武運拙く空しく敗亡（やぶれ）て終に家康の捕虜（とりこ）となつて小西行長等と与（とも）に縛せられた後ちであるが長政は馬に跨（の）つて家康の所に行かんとして途中（みち）で三成が秋風の寒く身に浸む頃にまだ帷子（かたびら）一枚で慄へて居るのを見て徐（そぞ）ろに哀れを催ふし馬から飛び降りて三成の前に行き自から着くる陣羽織を脱ぎて三成に着せたと云ふことである誠に武士の情けと云ふものは芳ばしき談である。<br />
<br />
古への藩主が斯ふ云ふ気風であつたからしてか妙に今の筑前人士に此の遺風が存して居つて面白いのである、一口に九州人と云ふけれども取り分け筑前は快活でハツキリして交際（つきあ）つても気持が善（い）い果して然らば今日筑前人士の性格を代表するもの果して誰ぞと問ふものあらば余は其の人を挙ぐるに少しも躊躇するなく曰く頭山満曰く平岡浩太郎の二人を称すべし、古への豪傑を以て之に比すれば頭山の大智にして胆あり略あり而して愚を装ふる所は如水の如く平岡は長政の如しとも云ひ得べけんか、如水が其の子長政を戒めて汝は乃公（おれ）の如くに智ならず又天下を争ふの機略なし我れ死するの後は小心翼々臣下を撫して自から驕ることなかれと浩太郎を以て満に比す其の器量の大小人物の高下は猶ほ長政を以て如水に比すると略ぼ同一と謂ふても善からう満は天才なり是を以て高きなり大なるなり浩太未だ垢抜けせざるなり、構へるなり、従ふて大ならざるなり高からざるなり然れども浩太も亦筑前人士なり高く且つ大ならずとは雖も快活なり任侠なり一たび意（こころ）に決するあれば邁往突貫して少しも顧みず斃れて後ち止むの慨あり頭山に比すればこそ小なれ浩太豈に猥りに軽（か）ろんずべけんや。<br />
<br />
先づ平岡の人物の如何は人の推測に任すとして彼が人に応接する態度其の口吻並びに其の応接間が如何にあるかを吟味しやうか。<br />
<br />
麹町は紀尾井町の行政裁判所に隣して最も太き白木の冠木門（かぶきもん）を構へ和洋折衷の居然たる一家あり門札なければ何人の城郭とも知れざれども之ぞ平岡浩太郎が東京に於ける仮り住居として造られたる邸宅にぞある。<br />
<br />
門を入りて数歩にして突き当りが其の玄関にして通常よりは幅広くして黒き縁ち塗りの障子を閉ざしてあり上り口の石段には靴拭きを備へて洋服の客は靴のマヽにて上がれと教へられある、玄関より一間（いっけん）許（ばか）り右に当りて一間口の入り口ありて格子戸を入れある所は之れ蓋しお出入りの商人（あきんど）書生下婢等の昇降口なるべし往訪の客が玄関にて案内を乞へばドス声にてドーレと応へて取次に出て来る人は短袴を穿ちたる元気相な書生なり刺を通じて待つ少時（しばらく）にして彼の書生はコチラへと先きに立て案内するなり玄関を入ると幅一間余にして長き廊下で其の廊下にて毛の浅き絨氈が敷き詰められて左りに帽子懸けありて右に書生部屋らしきがある其の書生部屋の次ぎに又細き廊下が右に入るべくある之は日本間の方に通ずる路（みち）となつて居るのである其の又廊下の向ふが小庭で植木が三四本植ゑられてある小庭の南には広さ十畳許りの日本間が二つ続きになつて居つて南に庭園（にわ）に向て居る其の庭園は尋常（ふだん）見る所の庭と別に異（かわ）つた特色はないが其処にタツタ一つ主人が来客（きたひと）に誇る所の者が衝（つ）つ立て居る夫は何んであるかと云ふに素徒目（しろうとめ）には何だコンナものがと思はるゝ高サ一間余りの古き石灯籠である、見ると余程の年処（ねんしょ）を経た古物らしく苔蒸して古色蒼然として居る、聞けば主人の生国九州は筑前より遙るばる此処まで運搬して来たとのことである何故に此の石灯籠を江戸の真ん中まで持つて来たのか其の理由（わけ）は聞くを得なんだが余程の由緒附きであらうが主人の自慢する所は恐らく九州から東京まで運んで来たと云ふ点ではあるまいかとも思はれる。<br />
<br />
此の日本間は主人と格別懇意な者でなければ通さぬと見へる多くの客は応接間に案内せられるのである其の応接間は玄関を入りて左りに設けられてある其の応接間は二室（ふたつ）あつて玄関に近き一室（ひとま）は狭くて僅かに二坪ばかりで其処には大理石の卓子（ていぶる）があつて向ひ合せに一脚づゝ椅子があつて卓子の上には巻煙草入とマツチがある、横に煖炉（すとうぶ）があるが火の気は少しもない煖炉の上に銅（からかね）製の鷲が木に留まつた置き物が載せてある、其の上に富士山の日本画の額が懸つてある、蓋し此の室は応接間と云ふよりは寧ろ来客が重りて差支のある時に待ち合はす部屋であらうと察せらる。<br />
<br />
其の次ぎの一室こそ主人が客を迎へて談弁を逞しふする真の応接間である扉を押して入れば広さ二十畳ばかりで窓を東南二方に設けて窓掛けの結構なること燦然目を奪ふばかり敷き詰めたる絨氈は毛深くして足障り悪しからず室の中央（まんなか）には四角形の卓子を置き上に銀製の巻煙草入れに火皿マツチを用意してある卓子の廻りに数脚の皮張りの椅子を備へ少し南の隅にも小さき丸形の卓子を置て其の横には長椅子（ソツフハー）が人待ち顔にある東の窓の下に紫檀製の小さき角形の卓子がある其の上に主人の写真を安置し前に石炭の一塊が供へてある云ふまでもなく主人が石炭で大（おほひ）に成功したからであらう額は幾つもあつて油画もあれば墨画もある殊に目に附くは豊国の筆になれる男女の風俗画の額である此処の主人は書画骨董を多く秘蔵するが自慢の一つであるのに此の室には格別是れと云ふ程のものはないと室内を見渡すとあるわあるわ在々焉（ざいざいえん）として大有りだ近眼（ちかめ）の人はウツカリすると驚いて此の室から飛び出し度くなるほどの一物がある室の北に焔々として燃へあがる煖炉があつて上には七宝焼の花瓶が載せてあるが花は凋落（かれ）て見る影もないのは此の室に取りて白壁の微瑕とでも謂はうか後ろは通例の姿見の大鏡である驚いたのは其の煖炉の左りに居然として鎮座まします巨大の木仏である西洋室に木像とは如何にも不釣合ではあるが之れこそ主人が客に誇示する有一（ひとつ）の逸品であるそうな聞けば幾百年の其の昔し某大師の作像にして日本に二品（ふたつ）しかないとの談しである此の木像の価を聞ては最初（はじめ）に木像を見て驚かされるよりは尚ほ更らに驚かされるのである現金引き更へに拾参万円なら誰にでも売却すとは主人が常に口癖に云ふ所であると聞ては何人か駭奔せざらんやだ、如何なる算盤のハジキ様かは知らぬが木仏一個（ひとつ）の価拾参万円と聞ては恐らく何人でもビツクリ敗亡するであらう、宜（う）べなる哉甚だ調和せぬにも拘わらず此の室に木像の安置せらるゝことやだ。<br />
<br />
煙草を燻（くび）らしながら暫し待つほどに跫音高く闥（たつ）を排して入り来る人は細面（ほそおも）のスラリとした面（かほ）に疎髯のある丈け高き一個の偉丈夫である。<br />
　「イヤードーモお待せ申しました、ズツト火の方に」<br />
と椅子を煖炉近くに引きずり行き股（もも）の見ゆるまで着物を捲り上げ傍らの石炭箱の石炭を十納にスクヒ取り無造作に火中に投げ込み左りの肩を少し怒らしながら声は其の態度の颯爽たるに似ず割合に細き方にて談しは骨董より始まりぬ。<br />
　「王中山の書幅が四千円なんて、なんでそんな馬鹿な価があるもんか<br />
　　重野博士の鑑定なんて決してアテになるもんじやナイ、彼等は書物は読めるだらうが鑑定と来ては全くの門外漢サ、何が分るものか」<br />
と罵倒して書画骨董の鑑定に至ては独り乃公あるのみと云ふ口吻決して掩ふべからず夫より西南の戦争談政党の操縦策サテはお得意の財政談滔々として口を衝て出で客をして啄（くちばし）を容るゝの余地なからしむ殊に此の人の談話（はなし）の特長はそうデシヤウ、そうでアらうと云ふ如き曖昧の語なくして断定的に謂ひ切るにあるなり然り然らずと云ふの風あり其の自信の堅き人たるを知ることができる。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3394</comments>
 <pubDate>Mon, 9 Oct 2006 00:23:29 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[明治文学界の今昔（３）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3393</link>
<description><![CDATA[<b>『日本及日本人』第四百五十号</b>から<br />
<br />
<b>紅袍生「明治文学界の今昔」</b>（『日本及日本人』第四百五十号、政教社、明治四十年一月一日発行。）<br />
<br />
<br />
　　<b>和歌界</b><br />
　次に十三年前の歌人の連判帳を見るべきに、<br />
<br />
<b>　　高崎正風　　黒川真頼　　税所篤子　　黒田清綱　　小出粲<br />
　　海上胤平　　松浦詮　　鈴木重嶺　　福羽美静　　松の門みさ子<br />
　　坂正臣　　小杉榲村</b>【邨が正しい】<b>　　中島歌子　　植松有経　　江刺恒久<br />
　　大口鯛二　　鶴久子　　橘道守　　小中村清矩　　諏訪忠元<br />
　　久我建通　　池袋清風　　水原みさ子　　近藤芳介　　安東菊子<br />
　　勝安房　　会田安昌　　飯田武郷　　近衛忠凞　　谷勤<br />
　　井上通泰　　下田歌子　　西岡訓棟　　谷口為紀　　三田葆光<br />
　　上杉義順　　木村正辞　　加藤安彦　　小池道子　　畠山健<br />
　　千家尊福　　桐廼屋かつら子　　毛利元徳　　千葉胤昌　　前田利□<br />
　　田中頼庸　　鎌田正夫　　佐々木信綱　　加茂水穂　　竹屋雅子<br />
　　竹屋光照　　林甕臣　　猪熊夏樹　　徳大寺実徳　　西升子<br />
　　増山正治　　鶴久子</b>【重出】<b>　　内藤存守　　増山雪子　　佐々木高行<br />
　　郷純造　　三浦千春　　大谷光尊　　河谷子　　田所千秋</b><br />
　　<br />
　とあり、御歌所派が一番多く、次に香川の流れを酌めるも井上通泰を始めとして多少はあるやうなれど、万葉派に至つては殆んど無しと云ふて可、故人となれる人には、黒川、税所、中島、小中村、池袋、近衛、飯田、毛利、勝、大谷、三浦、鈴木猶ほ他にもあるべくや。今ま恙なくてある中にて、なほ名あるは、高崎、黒田、小出、海上、松浦、福羽、鎌田、坂、徳大寺、大口、御前講義を仕れる猪熊夏樹、近頃宮中に鳩の杖を賜はりし佐々木高行伯、東京府知事千家尊福男、靖国神社宮司の加茂水穂、国学院の小杉榲村、畠山健、学習院の下田香雪女史、国語家の林甕臣など、何れも堂上派の歌よみなるべし。民間党としては井上通泰、佐々木信綱の二人あり、概して今日の歌界より云へば、此等の歌人には、旧派と呼ばるゝもの多く、徒らに典雅を尊んで偏に古典古歌のみに泥み、新らしき思想に指を染めずとして貶せられ居る次第にて、其の勢力の及べる範囲は、老人や婦人界に中々広けれど、もし之れ以上に何等かの発展を試むるなくば、何程の将来あるやは疑はしき限り、現に学校出の青年歌人などは、竹柏園派を除く外、此等の旧派に趨くもの極めて寥々たり、偖て今日の新派と目され居る人は、<br />
<br />
<b>　　与謝野鉄幹、与謝野晶子、尾上柴舟、金子薫園、服部躬治、窪田空穂</b><br />
<br />
　などに過ぎず、尤も以上の人々は、前の竹柏園と合せて多少の門下、或は同趣味の歌人を卒ゐ居る訳にて、此の門下或は同趣味の歌人に、其の師を凌ぐ丈けの技倆ある人も尠なからず、殊に和歌の思想、形式等も、混乱に混乱を重ねて一定の型のなき今日の有様なれば、此れより後、諸種の異りたる詩型詩想と共に、諸種の異才も続々と顕はれ来る事なるべし、猶ほ前の歌人の表に、萩の舎落合直文氏と、竹の里人、正岡子規は是非加はるべきものなり、二氏は明治歌界革新の急先鋒として、一方は新しき和歌を作り、一方は旧き和歌を復活せしめたる事を忘るべきにあらず。]]></description>
 <category>資料・文学史の落穂拾い</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3393</comments>
 <pubDate>Tue, 12 Sep 2006 00:41:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年４月２１日～３０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3392</link>
<description><![CDATA[<b>四月二十一日</b><br />
○朝来雨。午后相当の雨あり。<br />
○午前、慶子が着物と帯を小包として、須恵行の自働車発車の処に行きて、お上さんに岡が晩に帰りに来らば渡す様に頼み、尚ほ千代町より電話して、以上の事を話し置けり。<br />
○平山弥四郎に、家賃が払へず重なる許りだから、今月末迄に他に移転する様に申渡したり。<br />
○桧室は今回にて三度の催促となるが、来る廿八日に必ず支払ふ可く返事。<br />
○本日は多々野方雅互会に出席。自分と木村と多々野の三人丈け。葵ノ上を一番謡ひし処、木村に電話来り帰宅せしにより、自分が〔ママ〕直ぐ帰宅せり。時に四時前。<br />
○午后五時頃、宮崎金次郎氏、茶業組合会に出席せりとて立寄りあり。晩餐を採り、夜に入り退去せられたり。栄屋に投宿、明朝帰京の途に就くとの事なれば、御無礼する旨を話し置けり。<br />
○宮地〔崎〕氏に、尚一が宮崎高農就学中なれば、今後就職に関し依頼したれば、尚一の名を手帳に記し行けり。<br />
<br />
<b>四月二十二日</b><br />
○昨夜来引続雨。但し、本日は細雨。且つ、急に昨日より暖気となる。<br />
○門前二階家のガラス取換。但し、切通しの店に頼む。甚だ廉価なり。<br />
○二、三日前、風呂場の入口の水道鉛管の漏水の為め修繕せしめたるが、今晩台所流しの水道活栓故障あり。電話を掛けて修繕せしめたり。<br />
<br />
<b>四月二十三日</b><br />
○昨日来の雨、次第に霽れ来る。<br />
○北山善臣氏へ、金借用の申越しに対し、断り状。<br />
○朝日新聞、配達が悪いから断る。<br />
○武智太吉来り、久留米にツヽジ買旅費として六円借り、五月一日返済の約束。<br />
○ダリヤが発芽せるにより、掘取り植附けたり。<br />
○晩、赤高菜を収穫せり。<br />
○木村金蔵と多々野元吉へ、ダリヤ種子の件通知。<br />
○北村は、本日の約束なりしが、講が廿五日に盛ることになつたから、廿五日迄待つて下さいとの頼み。<br />
<br />
<b>四月二十四日</b><br />
○午前晴。午后曇、雨模様となる。<br />
○小寺氏へ七重草二株贈呈す。<br />
○午后、南瓜・南京豆の植壺作り。<br />
○市役所、水道漏水ヶ所、改めて修繕せらるゝことを照会。<br />
<br />
<b>四月二十五日</b><br />
○昨夜は南風強く吹き込み、雨降り、為めに吹き込の漏りの聞へたり。午前は曇天の処、午後は次第に晴れ、晩景になつて見事な晴れとなる。<br />
○里芋の植附をなす。<br />
<br />
<b>四月二十六日</b><br />
○朝来拭ふが如き快晴。<br />
○茄子・胡瓜の植場処作りをなす。<br />
○操は朝参り・花の会・御振替と、三度人ノ道に行けり。<br />
<br />
<b>四月二十七日</b><br />
○曇天。時々小雨あり。午後より暖気なり。<br />
○米屋に、三月分の米代、余りに延期するので支払へり。<br />
<br />
<b>四月二十八日</b><br />
○小雨。<br />
○岡静枝より、慶子の滞留の事に就て問合せ来る。返事。<br />
<br />
<b>四月二十九日</b><br />
○終日細雨。濛々として降り止まず、甚だ鬱陶し。<br />
○本日は熊本より、米村正氏、人ノ道に出席し、其序でに来訪すとの通知あり。待ちしも遂に来らず。<br />
○明日はドンタクの催しある筈にて、町の装飾として立つ可き短冊の色紙を配付し来る。依て其準備をなす。<br />
<br />
<b>四月三十日</b><br />
○昨日来の雨、漸く晴る。<br />
○長谷川健助、十円送り来る。<br />
○東公園集金行。平山弥四郎、跡は四、五日中に入金の約束。和田は明日晩迄持参の事。桧室は留守。<br />
○郵便貯金より二十五円を引出し、手持十円と合せ三十五円、五月分学資を尚一に送る。<br />
○米村正氏来る。昨夜は知事<span class="footnote"><a href="#3392-1" title="　福岡県知事畑山四男美。昭和九年十月から十二年十一月まで在職。畑山は高知県出身の内務官僚で、福岡県知事、福岡市長を歴任した。畑山夫人の静江は熊本出身で、米村正のいとこという関係。さらに米村正の妻トモが石井操の異父妹であった。なお、トモの叔父にあたる鹿島甕雄（みかお）は神風連に参加して自決している。">*1</a><a name="3392-1f"></a></span>邸に止宿せりとて、本日午前より来る。午後、玉屋・松屋・新道・公設市場を案内す。<br />
○中村恵氏の告別式に、午后四時西林寺に出席、一円の香典を受附に出す。<ul class="footnote"><a name="3392-1"></a><li><a href="#3392-1f">注1</a>　福岡県知事畑山四男美。昭和九年十月から十二年十一月まで在職。畑山は高知県出身の内務官僚で、福岡県知事、福岡市長を歴任した。畑山夫人の静江は熊本出身で、米村正のいとこという関係。さらに米村正の妻トモが石井操の異父妹であった。なお、トモの叔父にあたる鹿島甕雄（みかお）は神風連に参加して自決している。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3392</comments>
 <pubDate>Mon, 11 Sep 2006 23:28:47 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[鳥谷部春汀著「明治人物月旦」から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3391</link>
<description><![CDATA[<b>鳥谷部春汀著「明治人物月旦」（『春汀全集』第一巻）</b><br />
<br />
奥付：著者鳥谷部春汀、発兌元博文館（東京市日本橋区本町三丁目）、明治四十二年六月十五日発行。<br />
<br />
<br />
「第一篇　政治家月旦」の内、<br />
<br />
　　　　<b>故平岡浩太郎氏</b><br />
<br />
　平岡浩太郎氏は、策士にも非ず、政治家にも非ず、国士を以て任じたる大なる有志家なりき。顧ふに氏の尋常人士に異る所は、寧ろ其の自ら標置すること頗る高く、策士政治家の間に立て、別に一個特立の勢力を占むるを得たるに在り。氏が挙世国会開設運動に狂奔したるの時に当り、早くも徒手空論の以て天下に為すあるに足らざるを悟り、先づ大に資財を作りて羽翼を後年に展ばすの得策なるに著眼したりしは、是れ其の抱負の凡流に卓越したる所にして、当時実に自由民権論者の夢想する能はざる所なりき。斯くて氏は炭坑業に成功し、十数年にして巨万の富を致したれば、氏は福岡玄洋社の社長となりて政治生涯に復帰し、尋で二十七年衆議院に入り、爾来幾回の改選に一たびも議席を失ひたることなく、而して平浩の名は遂に議院の内外に喧伝せらるゝに至れり。<br />
<br />
　氏は智識能力の以て政治界に一頭地を抜くものあらず。而も自由党が分裂して立憲革新党起るや、氏は実に之れが領袖の一人たりき。二十九年政府反対の六派相結びて進歩党を組織するや、氏は亦選まれて総務委員の伍伴に加へられたりき。其後自由進歩両党合同して憲政党となるに当り、氏の位地は益々重要なるものとなり、憲政党内閣成立の際の如きは、氏の発言は内閣の役割を動かすほどの貫目を生ずるに至りたりき。而も氏に多とする所は、氏が当時内閣員たるを望まずして内閣製造者たるを以て自ら居りたること是れなり。氏は之れを以て竊に誇りと為したりしが、此の内閣は僅々三個月にして瓦解し、是れと共に憲政党も両分して、進歩分子は憲政本党と称し、自由分子は憲政党の看板を襲用することゝなりたれば、氏は憲政本党に留まりて政務委員の任に就き、依然党事に鞅掌したりき。<br />
<br />
　氏の政治生涯中最も得意なりしは、実に憲政党内閣成立の時なりき。氏が如何に得意満々たりしかは、其の人に逢ふ毎に、今の内閣は乃公の製造したるものなりと口癖せに揚言したるにても明かに察せらるべく、而して内閣成立後は、氏は恰も内閣の監督者らしき口吻を以て到る処気焔を吐き居たるを聞きたりき。氏は雑駁なる政治的頭脳を有したるに拘らず、尚ほ能く彼れが如く政治界に重要なる位地を得たりしは他なし。氏は政治界に最も缺乏したる財力を有効に使用したればなり。政治運動は強ちに財力を必要とせず。智識能力の優秀なるものは、無資無産の人物にても志を遂ぐるに難からずと雖も、財力之れに加ふれば、更に其の成功を大ならしむるが故に、其の之れあるは之れなきに勝ること固より論を竢たず。氏が富を作りたるは富豪たらむとするの目的に非ずして、主として政治運動に資せむが為なりき。故に氏は一旦政治界に出づるに及で、惜気もなく金銭を散じて政友間を周旋し、以て智勇弁力の及ばざる所を助け、頗る政友の信頼を博したりき。平浩の名政治界に重むぜられたるは、恐らくは氏の財力の作用に由来するもの少しとせざるべし。<br />
<br />
　桂内閣組織せらるゝや、氏は其の閣員の比較的少壮者なる故を以て、多少の同情を表したるものゝ如く、特に外交政策に付ては、桂内閣に向て万一の希望を属し、之れを督励して満洲問題を解決せしめむと期したりしは疑ひなき事実なりしに似たり。是れより先、氏は神鞭知常氏等と対露同志会を興し、盛んに主戦論を唱道したりしが、世間往々此の会盟を目して桂内閣の機関となすものあり、憲政本党中にも亦其の行動を疑ふもの出でゝ、終に氏等の脱党問題を惹き起すに至りたりき。蓋し憲政本党の外交論は、大體に於て対露同志会の意見と其の帰趣を同うしたりと雖も、憲政本党は絶対的に桂内閣を信任せざるに反して、対露同志会は稍々之れに接近したる跡ありしのみ。平岡氏は政友会を嫌ふこと最も太甚しかりしを以て、寧ろ憲政本党をして桂内閣の味方たらしめむとの底意ありしやも知るべからず。氏は憲政本党が政友会と提携して議会の進退を倶にするを以て、結局政友会の為めに売らるゝに過ぎずと認めたるものゝ如く、此の点に於ける氏の判断は実に精確にして誤らざりき。<br />
<br />
　要するに平岡氏の政治運動は、政治家たるの用意に於てせずして、有志家たるの精神に於てせりき。氏の眼中には大臣宰相なく、常に宰相以上の意気を以て政治界に立てり。其の剛語放談動もすれば人を罵り倒し、時に思ひ切つたる大言を吐きて相手を煙に巻き、以て自ら快としたる如きは、却つて其の無邪気の愛すべきを見るのみ。氏の晩年は漸く振はざりしと雖も、未だ必ずしも老衰の境に臨みたりといふべからざりしが、前にしては佐々友房翁を失ひ、今や復た福岡の名物男平浩氏を政治界に見るべからずなりぬ。惜むべし。（三十九年十二月）]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3391</comments>
 <pubDate>Sun, 10 Sep 2006 17:07:37 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[文学博士三宅雄二郎著『偉人の跡』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3390</link>
<description><![CDATA[<b>文学博士三宅雄二郎著『偉人の跡』</b><br />
<br />
奥付：著者三宅雄二郎、発行所丙午出版社（東京市小石川区原町六番地）、明治四十三年三月九日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>平岡浩太郎氏</b>（財力ある政治家）<br />
近く死去せし平岡氏は、財力よりいふも、政治的技倆よりいふも、大に称揚すべきに非ず、称揚すべきは他の方面に存せしも、兎に角財力ある政治家の資格を帯ぶと見做されぬ。晩年頗る振はざりしかど、本年より余財の生ずべき筈とかにて、今幾年か存命し掉尾の大運動を為し得ざりしの惜まる。就て憶ひ起すは当世の財力ある政治家なり、単に材（財の誤り）力よりせば其の人に乏しからず、単に政治的技倆よりするも亦た其の人に乏しからざるも、独り之を兼ぬるは寥々として少く、偶々之れある、則ち多く労せずして重きを政界に占むと考へらる。平岡氏が曾て政党を操縦し内閣を活殺するやに見えしは、種々の事情に由来し、決して一二人の力に帰すべからざれど、氏が政客不相応に運動費を投ぜしの少からざる効果ありたること疑ふべくもなし。而して久からずして忘れられたる如くなりしも、畢竟するに運動費の不足せしに過ぎず。<br />
<br />
政治家は必ずしも財力を要せず、人物次第にて赤手能く群衆を支配し得んも、財力あれば謂ゆる鬼に金棒なること特に言ふを俟たず。大隈伯が進歩党員間に不平あるに拘はらず、之が総理として一方に雄視するは才識及び精力の尋常ならざる為めなるも、又た大臣以上の外見を崩さゞるに由らずとせず。若し伯にして更に運動費に豊かならんには、統率する所の党派は今日の有様に止まらず、場合に依り内閣組織を辞するとも之を余儀なくせらるべし。伊藤侯は自ら富まざるの却て人望あるらしけれど、井上伯と共にするを以て財力に窮せず、若し一層制限せられざりしならば、韓国統監を幸とするが如きに至らざりしならん。西園寺侯も己れ自ら富まざれど、融通の方法に苦まず、政友会総裁として首相職に居るは、勢に恵まれしにせよ、財に窮せざる所確かに一の強点たり。<br />
<br />
西園寺侯は名あり実あるの総裁なるも、原氏が殆んど副総裁にして参謀長たるは争ふべからず。氏が多く旧自由党に縁故なくして斯かる枢要の位置を占むるは、固有の材幹にも依り、政党の変遷にも依るべきが、絶えず或る金穴を控ゆること与かりて力なしとせず。氏一身の事は明かならざれど、今日に在りて一の財力ある政治家たるを失はずと見ゆ、犬養大石等数氏は材幹に於て此に劣らざらんも、財を動かすこと之れに若かず、其の容易に順境を見ざるは、さまざまの原因あるが中にも、近因の主なるは知るべきのみ。近頃坂本氏が主動者と為りて一と運動するやに噂せらるゝが、其の自ら財源を有し、而も守銭奴の陋態なきは、何等か目覚ましき事を敢てすべしと待ち設けらるゝ所以なり。政治的技倆も強がち侮り難たき由なれば、新たに財力ある政治家と認むべきの此辺に在らんも図られず。之を外にして指目すべき者一にして足らざれど、概ね財力に長ずれば政治に遠ざかり、政治に熟すれば財力を缺くの状あり。<br />
<br />
財力ある政治家たらんと欲せば、二三十歳若くは三四十歳頃に財を積み、然る後ち一意専心政治に努力すべし。世に政治といふ職業なく、或る有利の事業に従事しつゝ政治に関係すべしとの説あるも、是れ群小政客を戒むるの言にして、苟も有為の政治家たるには是非共政治に一心なるを要す。何国にも片手間に政治に与かりて大政治家と為れるはあらず、四五十歳にして政治に専なるを得ざれば、巨万の富を積むとも最早や政界に雄飛すること能はずと諦むべし。グラッドストーンは父の遺産にて一生を政治に委ね、以て彼の如きを得たり。チエムバレン氏は少壮にして貨殖を事とし、三十八歳より全力を市政及び国政に致たし、以て彼の如きを得たり。ルーズヴエルト氏の今日ある、家計の豊かにして後顧の憂へなく、思ふ存分に活躍し来れるに外ならず。財力ある政治家は一の原動力として進退し得るに相違なきも、或る年限にて営利を断念し政治に専一ならざる以上、二兎を逐て一兎を獲ざる結果に終らざらんこと難たし。（明治三十九年十月廿八日）]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3390</comments>
 <pubDate>Sun, 10 Sep 2006 16:05:45 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[山崎謙編『衆議院議員列伝』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3389</link>
<description><![CDATA[<b>山崎謙編『衆議院議員列伝』</b><br />
<br />
奥付：編輯兼発行者山崎謙、発行所衆議院議員列伝発行所（東京市日本橋区浜町三丁目一番地）、明治三十四年三月廿七日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>平岡浩太郎君</b><br />
君は福岡県の人嘉永四年六月廿三日を以つて福岡地行に生る、家鉱業に従事す、君幼時藩黌修猷舘に学ぶ<br />
<br />
明治戊辰の役起るや君　王師に従ひ総房奥羽の間に転戦して軍功あり賞典禄を賜ふ、乱平定後藩の壮丁を選んで就義隊を編成し以つて緩急事に応ぜんとす、廃藩置県の後戍衣を解いて東京に遊び、爾来永く力を公私の事に須ゆ<br />
<br />
明治六年征韓の論、廟堂に破れ、磅礴の幽憤終に佐賀に爆れてより已来四方に奔走し、陰に志士と謀り郷党を集めて以つて不虞に備ふ、偶々明治十年西南の役起るや、兵を挙げて遙かに西郷等に応ず、戦利あらず同志の士或は戦死し、或は戮せらる、乃ち単身奔つて薩軍に投じ豊後日向の本営に在つて謀議に参与す、兵敗れ事平ぐの後坐して東京の獄に繋がる、後十二年放免されて郷に帰り熟々時勢に鑑み、茲に一政社を起して玄洋社と名づく、君衆の推す所となりて之が社長となる、此時に当り君二区十五郡四十万人民の連署を以つて国会開設の議を建白し、次で同年冬檄を四方に飛ばして志士を大阪に会し大いに天下の輿論を敢吹し以つて全国時を同ふし、声を一にして憲政の樹立を唱ふるの策を□し、国会開設期成同盟会を作りて益々前議の遂行に力めり<br />
<br />
明治十四年十月大詔炳として下り帝国議会開設の事を告ぐ、君が前半の志望茲に達して当に後半の目的に向ふて直往すべきの秋なりと、乃ち政界を脱して身を鉱業に委ね、以つて徐々他日の計をなす、二十七年東洋の風雲日に急にして日清の和平将に破れんとす、君乃ち慨然として県下第三区より選ばれて中央の政機に参与す。是より三十年冬衆議院の解散に至るまで或は満州の山野を縦横して戦況を視、傍ら地理民情を察し、或は松方大隈両伯の間を斡旋して聯合内閣の素地を作れり<br />
<br />
三十一年県下第一区より衆議院議員に当選す、幾くもなく第十二議会解散の厄あり、是に於て多額の資を抛ち力を自進の合同に致し、進んで内閣の組織に向つて革新を試み、終に政党内閣の濫觴を開く、而して其の憲政党の成るや初めて政党に入る、従来不徧不党以つて自ら居り行動常に之に依りたるを以つて、同年八月再度の臨時総選挙又第一区より当選せり、幾許ならず憲政党の分裂するや、君籍を憲政本党に置き現に其職にあり]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3389</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Sep 2006 20:50:11 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[嬌溢生著『名士奇聞録』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3388</link>
<description><![CDATA[<b>嬌溢生著『名士奇聞録』</b><br />
<br />
奥付：著作者嬌溢生、発行所実業之日本社（東京市京橋区南紺屋町十二番地）、明治四十四年十一月七日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>平岡浩太郎北京城内の大気焔</b><br />
九州の炭礦家故平岡浩太郎嘗て北京に遊び、毎日出づるに馬車を駆り意気頗る昂然たり、邦人の訪ふ者あれば壮んに清国の経綸を説き、日本の対清政策を論ず、宛然四百余州を呑吐するの慨あり、大抵は吹き飛ばされて帰る、蓋し法螺もロハにては利目薄く、従て運動費を要すること少なからず、況（ま）して骨董を買込むより金策に窮して知人の力を借ること屡々なり、而かも猶道具屋を呼び寄せ、清国古来の珍品をアサるに汲々たり、道具屋連汗を流して諸方より珍品を集め来る、平岡一見して「何んだ、百円や二百円の安物を持つて来てドウする」と、其勢ひ当るばからず、道具屋亦煙に捲かれて退き下がる、而して平浩（ひらこう）の懐中を問へば何ぞ図らん僅に十金を有するのみ。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た平岡浩太郎</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3388</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Sep 2006 19:40:49 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[怪庵編『文士政客風聞録』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3387</link>
<description><![CDATA[<b>怪庵編『文士政客風聞録』</b><br />
　　　　　※　怪庵は『日本人』主幹香川悦次（～一九二四）の号。<br />
<br />
奥付：編輯者怪庵、発兌元大学舘（東京神田区竪大工町五番地）、明治三十三年一月九日発行。<br />
<br />
◎頭山満氏の名を聞かば、人をして啼児も中止せしむるの感あらしむ、然かも一度び其の人に接せんか、躯幹長大、温容にして寛宏、者（ママ）春風坐に満ち、徐ろに親昵して、其の柔しき談話を聞くを得べく、往々好謔を弄し他をして笑倒せしむることあり、初め其の名を聞て畏るべきが如くにあらずして、真個に親むべき温良の士人。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3387</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Sep 2006 19:39:10 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[明治文学界の今昔（２）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3386</link>
<description><![CDATA[<b>『日本及日本人』第四百五十号</b>から<br />
<br />
<b>紅袍生「明治文学界の今昔」</b>（『日本及日本人』第四百五十号、政教社、明治四十年一月一日発行。）<br />
<br />
<br />
　　<b>小説界</b><br />
　十年は一と昔とか云ふ、其一と昔を通り超す事更に三年前、日清戦争の終り懸けたる二十八年頃の、我国文壇の詩人文人を並べ来り、今年頃の文壇に比べて見れば、人に於て、一般の事実にあつて、変遷の甚しきものあるは、今更乍ら我れも人も、驚くべきもの尠なからず、或は世を隔つる思ひなきにしもあらぬ也、先づ当年現在の小説作家より数へて見んに、<br />
<br />
<b>　　坪内逍遙　　森鴎外　　饗庭篁村　　森田思軒　　高橋太華<br />
　　依田学海　　福地桜痴　　前田香雲　　塚原蓼洲　　宮崎三昧<br />
　　幸田露伴　　二葉亭還</b>【四迷の誤植であろう】<b>　　山田美妙　正直正太夫　　嵯峨のやおろ</b>【お室＝おむろが正しい】<b><br />
　　幸堂得知　　南新二　　村井弦斎　　原抱一庵　　石橋忍月<br />
　　川上眉山　　大橋乙羽　　江見水陰</b>【蔭が正しい】<b>　　石橋思案　　中村花痩<br />
　　広津柳浪　　内田不知庵　　遅塚麗水　　条野採菊　　茅渟の浦浪六<br />
　　黒岩涙香　　西村天囚　　渡辺霞亭　　岡野半牧　　武田仰天子<br />
　　宇田川文海　　末広鉄腸　　末松青萍　　織田純一郎　　井上勤<br />
　　二宮孤松　　若松賤子　　三宅花圃　　樋口一葉　　藤本藤蔭<br />
　　三品藺渓　　根本凌波　　榎本破笠　　松居松葉　　半井桃水<br />
　　柳塢亭寅彦　　伊藤橋塘　　広岡柳香　　若葉蝴蝶　　岡田千紫楼<br />
　　小宮山即真　　小金井君子　　尾崎紅葉　　巌谷漣</b>【小波とも】<b>　　矢野龍溪</b><br />
<br />
　多士済々たる六十有一士、先づ大抵は網羅されたるに庶幾し。抑も今日に当りて、日本文学の将来などゝ、大議論を吐く新卒業の学士先生も多けれど、先づ以上列挙したる作家の悉くと、作物の悉くを知るものあるやは疑はしきなり。織田純一郎の「いさ子」、井上勤の「亜剌比亜夜物語」、末広鉄腸の「雪中梅」、矢野龍溪の「浮城物語」など、最早事は古りたる也。此の中、故人となりしものには、紅葉、思軒、桜痴、正太夫、新二、抱一庵、乙羽、花痩、採菊、鉄腸、賤子、一葉の十二作家あり、太華の「小国民」時代は夢にして、今や美術院に其の影を潜め、嵯峨の屋は語学に教鞭を採り、忍月は折獄<span class="footnote"><a href="#3386-1" title="　裁判のこと。石橋忍月は弁護士でもあった。">*1</a><a name="3386-1f"></a></span>の務めに忙はしく、天囚は史跡の探討に熱心し、学海は漢詩漢文に感興を寓し、青萍は半ば政治家、半ば英文家たるのみ、井上勤の名は昨年の英語教員検定予備試験合格者の中に見出されたるに驚き、藤陰【ママ】は根岸に隠居して、「藤の一本」末枯れたり、寅彦は俳優熱に浮かされて、得意の三面の才筆さへ見る事稀れに、喜美子【君子に等しいか】は家庭に隠れ、龍溪は「出鱈目の記」を編むに労し、漣は御伽話に小国民の御機嫌取りに力むるのみ。斯くて今日の文壇に猶ほ嚢日の声名を保つものは、僅かに鴎外、逍遙、四迷位ゐに止まり、次は蓼洲、露伴、眉山、水陰、柳浪、不知庵、麗水等、昇らず、降らずの地位に留まるに過ぎず、若夫れ篁村、美妙、得知、弦斎、思案、浪六、仰天子、文海、破笠、桃水、南翆など云ふ面々に至つては、漸く人の記臆より抜け去つて、長く忘却の淵に沈められんとし、藺渓、凌波、柳香、千紫楼、三昧なんどの連中は、何処にどうしてあるやらさへ分らぬなり。紅顔よく幾時ぞ、花の盛りの一と時は、独り美人の怨みのみにはあらで、作家にも適用さるべき恨事なりき。「都の花」、「新著百種」は渠等の晴れの舞台なりしも今は已んぬ、脚本会も、旧根岸派も散り散りとなれり、旧の早稲田派も今の早稲田派ならねば、千駄木派も鴎外以外に影がなく、纔かに硯友社が歪みなりに立ち居る丈けの事、変れば変るものとはよく云つたものかな。<br />
<br />
　更に今日の主なる小説家はと数へて見れば、<br />
<br />
<b>　　徳田秋声　　柳川春葉　　小栗風葉　　泉鏡花　　島村抱月<br />
　　伊原青々園　　生田葵山　　夏目漱石　　佐藤紅緑　宮崎湖処子<br />
　　島崎藤村　　藤本夕颷　　泉斜汀　　山岸荷葉　　徳富蘆花<br />
　　田口掬汀　　草村北星　　水谷不倒　　大塚楠緒子　　米光関月<br />
　　後藤宙外　　国木田独歩　　正宗白鳥　　菊池幽芳　　中村春雨<br />
　　小山内八千代　　永井荷風　　田村松魚　　田山花袋　　小杉天外</b><br />
　<br />
など云つたものにて之れに前掲の<br />
　　鴎外、篁村、蓼洲、露伴、四迷、弦斎、眉山、水蔭、柳浪、不知庵、麗水、浪六、涙香、霞亭、松葉、桃水<br />
を加へたるが、即ち今年以後の文壇の容量なり。実際今日の作家を一言にして掩へば、大抵は青年作家と云ふべく、先づ大半以上は四十に手が届かず、何れも修養次第にては随分とプロミツスのある人々なり、之を十三年前の大半が、平均三十歳以上まで、之れから下り坂となるとも上り坂に向ふは少しとされたる当時に比すれば、白と黒ほどの違ひならずや。即ち数は少くとも、質に於いて埋め合せが充分に付くべし、去れど時の進みは人を待たず、今の文壇は素養のある人が我勝ちの様になつて来て、学才のある青年が、争つて此の門に入らんと焦燥りつゝある時代なり、若し今日の作家先生方が、何時も何時も惰けてのみあらんには、其の後輩に追越さるゝ度は、十三年前の老大家が後の雁に追越されたるに比べて、一層速かなるものあるべし、何事も修養が専一、々々。<ul class="footnote"><a name="3386-1"></a><li><a href="#3386-1f">注1</a>　裁判のこと。石橋忍月は弁護士でもあった。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・文学史の落穂拾い</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3386</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Sep 2006 15:43:25 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[明治文学界の今昔（１）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3385</link>
<description><![CDATA[<b>『日本及日本人』第四百五十号</b>から<br />
<br />
<b>紅袍生「明治文学界の今昔」</b>（『日本及日本人』第四百五十号、政教社、明治四十年一月一日発行。）<br />
<br />
<br />
　明治も四十年となりて、愈よ男一匹の而立の年に達したるは、先づ以て芽出たき次第と云ふべし、戦後の活動は経済界を始めとして、文界なども御多分に洩れぬ方と思はれるらしく、沈静の中にどこやら元気のよき処は、譬令ば元旦の朝暾が、東天に上らんとして未だ雲を破らず、先づ幾重の横雲が其光りを受けて、ほんのりと薄紅指したるにも似つかはしきか、鶏が鳴くも之れからなり、下界の活気が蘇へるも之れからなり、誠とに頼母しき景気と云ふべし。<br />
<br />
　思へば文壇も変つたものなり、新陳代謝は何所の方面にも免れねど、政治界や、経済界、宗教界などに比べて、変遷の一層速きは、どうしても文壇なるべし。政治界や、経済界の人物は、短きも十年の寿命は持つなり、渋沢、園田、中橋は依然として実業界の雄と呼ばれ居り、大倉は御用商人として、依然として魔力を振ひ居るではなきや、犬養も大石も、松田も、矢張夫れ夫れの政党に頑張りて党の重きを為し、侯伊藤、伯大隈、伯井上等は矢張り元老として、押しも押されもせぬ地位に居るなり、夫れに比べれば、文人の盛りの短かさは自體比べものにはならぬなり、今の東京市長尾崎氏かと覚ゆ、日本の文人に傑作が出来ぬは、食物の疎悪より出で来れる、體格と心理の関係によると云ふ様なる事を喝破し玉ひしと存ぜらるが、今の日本文人は、今の尾崎氏が当時の貧乏政治家でなき如く、矢張り夫れ頃よりは生活の程度も上等になりたり。たとへば欧米程ではなくとも、夫れ程疎食してるとも覚えざるに、大家の地位に就くや否な、丁度尾崎氏其人の様に、最早や脳が空しくなれりとか、無能なりとか至りて八釜しく叫び立てられるはどうしたものか、何ぼう口惜しい事の限りにて、何とか仕様はなきものにや。]]></description>
 <category>資料・文学史の落穂拾い</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3385</comments>
 <pubDate>Thu, 7 Sep 2006 22:27:57 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[「人物評　頭山満」]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3384</link>
<description><![CDATA[<b>『日本及日本人』第四百五十号</b>から<br />
<br />
<b>古一念「人物評　頭山満」</b>（『日本及日本人』第四百五十号、政教社、明治四十年一月一日発行。）<br />
　　　　　※　古一念は古島一雄（一八六五～一九五二）の号。<br />
<br />
　　人物評<br />
　　<b>頭山満</b>　　　　古一念<br />
<br />
<br />
○政治界に於て頭山満と言へば敵も味方も身慄ひする爆裂弾の製造元、壮士の親分、志士の問屋、啼く児も声をとゞむと言ふ大怪物と解せられ、狭斜の巷に「トウサン」と言へば雛妓も狎るゝ駄々羅大尽、酒も飲まずに唱ひ出す朗々一曲の追分節、「間夫があるなら逢せてやらう」とはコイツ案外の粋様なり、或時は豪傑の如く或時は大尽の如く、或時は政治家の如く或時は大山師の如し、必竟彼れ何する者ぞ。<br />
<br />
○試みに彼れの家を訪はん乎。ヲーと答へて出て来る玄関番は、肩を怒らしたる壮士もあれば角帽金釦の学生もあり、支那服着たる日本人もあれば、日本服着たる朝鮮人もあり、天鵞絨の小町下駄は兵隊靴の間に雑じり、南部表の東下駄は朴木歯の肴板に伍す、応接間とも見ゆる一室には当世の時務に口角沫を飛ばす政客あれば礦山の見取図を拡げつゝ炭質の良否を評する山師あり、広くもあらぬ庭園には土豚を築きて力を角する壮年が流汗淋漓輸羸を争ふよと見れば階上には天下の名手が今や一局の枰上に神算妙略を闘すあり、折しも奥の一間より洩れ来たる一曲の筑前琵琶誰が奏するかは知らねども小督局の想夫恋、□【口＋曹】々切々私語の如く急雨の如く大珠小珠玉盤に落つる時、主人は只だ羆熊の皮に箕踞しながら時々微笑を洩すのみ、嗚呼彼れ果して何者ぞ。<br />
<br />
○西郷品川等国民協会を起さんとするや、先づ頭山を羅致せんと欲す、一日西郷人をして彼れを招かしむ、彼れ偶酒楼に在り諾と称して到らず。次日西郷又た彼を招く、彼又た諾と称して趨かず。西郷即ち人をして言はしめて曰く、我等公を待つ事久矣、思ふに呉姫越嬪の為めに忙殺せらるゝ莫からんや、僕自ら趨きて盛宴に侍するを得ん乎と。彼れ曰く三顧豈に廬を出でざる可けんやと、即ち西郷の邸に至る、松方樺山品川皆な在り、彼れ謝して曰く世に為さんと欲して為さゞるものあり、為して為し得ざる者あり、為さずして為さゞるものあり、為して為さゞらんより我れは為さずして為さゞるを取る、公等今や国家の為めに為さんと欲す、僕謹で其為す処を見んのみと。四人唖然として再び強ゆる能はず、後ち西郷人に語りて曰く我れ如今頭山に慙づと。<br />
<br />
○対外同志会の成るや彼れ挙げられて外務大臣訪問委員となる、時の外相は青木周蔵なり、彼れ卒然として曰く我れ昨夜閻魔の庁に到る、群鬼後を護し大王前に在り、四辺を顧みれば鉄壁十丈高くして踰ゆ可からず、即ち身を挺して奮然閻魔の横面を撲ては何ぞ図らん瓦片錯落として響あり、覚め来れば是れ一場の夢のみ、世事往々此の如し足下以て如何と為すと、青木子答ふる所以を知らず。<br />
<br />
○松方内閣の成るや伯頭山を招き縷々千万言財政困難の状を説き且つ当今の急務を問ふ、彼れ言下に応じて曰く乃公に金儲けを為さしむ、是れ方今第一の急務なりと、松方慙色あり。<br />
<br />
○愛国社再興の議熟して板垣退助等大阪に会するや退助逡巡決せず、彼れ卒然股間の一物を把て退助の面を撃つ勢ひ閃電の如し、一坐色を失ひ議即ち決す。<br />
<br />
○来島恒喜は彼れの門下なり、霞関爆弾の変あるや政府彼れを大阪の客舎に捕ふ、情を鞠すれども答へず、留置所の一房日夜放歌高吟するのみ、即ち携ふる所の鞄中を検すれば、阿嬌の艶書にあらずんば悉く是れ春宵秘戯の図のみ、刑吏已むを得ず之を放つ。<br />
<br />
○条約改正の当時彼れ旗亭浜の舎に在り、日夕紅を評し翠を品し馬食獅眠を貪る。政府人をして常に彼の挙動を窺はしむ。偵吏亦た浜の舎に居ること二年、後ち悔て彼れに語て曰く我れ秘命を奉じて日夕公の動静を探る、有志家来るにあらず、秘書到るにあらず、二年の日月公に就いて一の獲る所なし、羸す所のもの只だ借金と梅毒とのみ。<br />
<br />
○彼れ初じめ北里に遊びて新柳の情趣を知らず、一日理髪店に到る、傍らに一美人あり麗質玉の如し、彼れ一見恍惚久之、忽ち主人に問ふて曰く彼れ何物ぞ。曰く芸妓なり。買へる乎。曰く地獄の沙汰も金次第なりと。即ち袖裏を探り数十金を主人に投じて曰く今より伴ふて行けと。主人驚いて曰く公何ぞ太だ急なる、奴や日間職ある公の見るが如し、希くは今夕を待て、奴必ず公の為めに東道の主人たらんと。其夕相携へて行き、日間見る所の美人を聘す。彼れ具さに狭斜の情偽を問ひ且つ教坊第一の旗亭を問ふ。妓答ふるに花屋、長谷川、浜の舎を以てす。彼れ次日先づ長谷川に至り驀地楼上に入る。女将固より知らず、姐婢又た一人の彼れを知るものなし、私かに之れを見れば鳶肩豺目箕踞動かざる山の如し、楼中見て以て壮士となし錯愕為す所を知らず。偶ま後藤象二郎隣席に在り、其頭山たる事を諭して僅に安んず。次日花屋に到る。同亭も亦た常に貴紳に慣るゝもの、他が浪人的態度を見て太だ喜ばず。即ち去て浜の舎に行く女将元も矜気あり、他が風丰を見て私かに姐婢に語りて曰く他は是れ浪人の親分にあらずんば必ずや緑林の豪客たらん、姑く他が做すまゝに任せよと、婢姐意を受けて款待太だ努む、八珍前に連なり国色左右に侍す、粉囲香陣彼れ太だ得色あり、次日又此の如く、三日又た此の如く、四日五日又た此の如く彼れ只だ狂蜂痴蝶の態を学びて還へるを知らず、踰へて一週に至り、女将乞ふに酒食の値を以てす、彼れ徐ろに筆を援き大書して曰く三千円と、女将他が尋常鱗介の匹儔にあらざるを知り、款待益々加はる、是より彼れ遂に家に還へらず、居る事二年、「トウサン」の名花柳の間に重し。<br />
<br />
○彼れ曾て旅亭信濃屋に在り、当時負債山を為す、一日債鬼大挙して迫る、時方さに盛夏、彼れ赤裸々一物を蔽はず、突如群鬼の前に立ち曰く如今一物なしと睥睨久之、債鬼等蒲伏して曰く「時期只だ公の命のまゝなり」と。<br />
<br />
○某年晦日窮寒骨に徹す、友人某急を訴へて金を乞ふ、彼れ着る処の衣服を示して曰く已むなくんば只だ是のみと脱して之を与へ蒲団の中に埋まること数日。<br />
<br />
○炭山買収の当時、人あり県下の小吏に贈賄の要を説く、彼れ偶ま国に帰へる小吏某を招きて一物を与へて曰く是れ江戸土産なりと、某帰へりて之を見れば金剛石の懐中時計光彩燦爛たり、某且つ驚き且つ恐れ、直に趨て彼れの門に至て曰く恩賜敢て当らず、謹で返還せんと、彼れ声を励して曰く「取つて置け」。<br />
<br />
○栗野慎一郎、金子堅太郎同郷の官吏なり、故に郷人彼を介して仕官を求むるものあり、栗野金堅一旦諾して動もすれば周旋を怠る事あり、彼れ怒吼毫も仮借せず、愼堅の徒之を憚る虎の如し。<br />
<br />
○近時北海の炭山を売りて数十万金を獲るや、先づ負債を清償して余羸を故旧に頒ち、其誼故骨に及ぶ、安川敬一郎之を聞いて嘆じて曰く是れ頭山の頭山たる所以なりと。<br />
<br />
○彼れが言行の一端を挙ぐれば概ね此の如し、若し一斑を見て全豹を窺ふを得ると為さば、彼れの評価も略ぼ定まるを得ん乎、彼れは到底尋常の人にあらず、只だ彼れは果して幼よりシカク人に異なりし乎、試に彼れが歴史の前半頁を見よ。<br />
<br />
○彼れ少時頑童を以て名あり、外に出ては友と闘ひ内に入りては長兄と争ひ、母も之を制する能はず、嫂の如きは其凌辱に堪へずして屡々離別を訴ふるに至る。年甫めて十四、無比の頑童は一変して至孝の人となる、是より老成の風あり。家固と貧、襤褸を衣とし、縄を帯とし、山に入りては三日三夜食を絶して廃寺に坐禅し、野に出ては一週の久しき観音の堂に眠むる、書に対しては昏々として睡るが如く、人に接しては黙々として語らず、仙乎仙に似て仙に非ず、僧乎僧に似て僧に非ず、人其激変に驚く。初じめ亀井道斎に学び後ち人参畑の門に遊ぶ、道斎の学は高山彦九郎の系統にして人参畑の先生は道斎門下四天王の一人たり、彼れが師に代つて時に靖献遺言を講ぜしを見れば、彼れが学問に依て涵養せし思想は問はずして略ぼ之を察するに難からず。<br />
<br />
○当時廃藩置県の後を受けて一藩の士風漸く頽廃に赴く彼れ弱冠痛く之れを慨し箱田越智の先輩と謀りて士気の鼓舞に力む、越智一派は開墾に従事して遙かに鹿児島と気脈を通じ、箱田頭山等は強志社<span class="footnote"><a href="#3384-1" title="堅志社が正しい。">*1</a><a name="3384-1f"></a></span>を興して私かに声息を長の前原に通ず、是れ彼れが公生涯の首途なり。既にして佐賀の乱あり秋月の変あり、神風連熊本に起り、前原長州に起つや海内淘然たり、政府夙に之を察し前原の起つや先づ嫌疑の名を以つて箱田、頭山、進藤等十余人を捕ふ。次で西南の乱起るに及び脱獄の恐あるを以て移して長州に拘囚す、幽囚三年西南乱平ぐの後始めて釈さる。彼れは公生涯の首途に入らんとして先づ人生の数奇を嘗む、而して胆気益々加はる。<br />
<br />
○明治十年獄を出づるや博多湾頭海の中道白沙青松の地を卜して私塾を建て向陽義塾と称し専ら青年子弟を養ふ、大原義剛来島恒喜等皆な当時の門下生なり。既にして島田一郎等大久保を暗殺するの報至るや、彼れ蹶然起ちて土佐に向ふ、蓋し板垣を説いて西郷の遺志を成さしめんと欲せるなり。靖献遺言的の頭脳中豈に始めより自由民権なるものあらんや。居る事数月、ルーソーの民約論、一たび彼れが政府反抗の心頭に触るゝや、彼曰く善し矣、旗色は鮮明を貴ぶ、自由民権只だ四字足る矣、と板垣を勧めて天下呼号の策を建て一方には愛国社を再興せしめ自ら退いて玄洋社を組織す。<br />
<br />
○民権自由の論漸く天下を風靡せんとするや彼以為らく大事を成す先づ人材を天下に求めざる可らずと、単身漫遊の途に上る。山陽を経て石川に入り、新発田を経て東北に至る、福島に河野広中を得、会津に広沢安任を得て還へる、次で九州大会となり、各県の国会請願となり東京に於ける国会期成同盟会となるや、世運漸く言論時代となりて彼れが得意の高手的手段施すに処なく、世は自由改進両党の全盛となるや、彼等は土佐の専横を憤ると共に熊本の反覆を慨し、殊に改進党一派のハイカラ臭味を見ては其素心と異なるを嘆じ、退いて屯田の策を講ず、曰く大に成さんと欲すれば大に蓄へざる可らずと、玄洋社をして開墾の事業に従はしめ傍はら盛に筑豊の野に炭田を求む、是れ彼れが生活一変の端緒なり。<br />
<br />
○明治廿二年条約改正の事あるや、彼れ再び猛然として起つ、即ち先づ九州を打して一丸と為し広島大阪を徇へて東京に入る、霞関爆弾の声に天下を聳動せしめたるは実に此時なり。既にして国会の開設となり山県を経て松方内閣を組織するや、彼以為らく民意固より容れざる可らずと雖も議院清浄ならざる可らずと、安場保和と謀り密かに松方品川等を説きて解散を断行せしむ。既にして選挙干渉の声起りて輿論漸く動かんとするや、松方先づ逡巡の色あり、彼れ屡々激励すれども松方遂に断せず、彼れ怒吼松方を罵りて曰く鈍漢大事を共にするに足らずと、是より志を政界に絶ち国家的問題にあらずんば又た動かず。<br />
<br />
○彼の歴史は此の如く一見甚だ単純なるが如し、而かも実は甚だ複雑なり、彼れが歴史の大部分は秘録に属するもの多く、蓋棺の後にあらずんば言ひ易からざるものあり、是れ彼れが舞台の人にあらずして実は幕中の人たればなり。故に人は只だ彼れが胆大を知て却て其細心を知らず、其剛勇を知て却て其機智を知らず。加ふるに彼れが韜晦の術に長ずる殆んど天分に出づ、茫々乎として知らざるが如く、漠々焉として関せざるが如く、猶ほ巧妙なる画伯が一抹の淡雲遠山を蔵するが如く、有るが如く無きが如く、人をして佇立去る能はざらしむ。之を以て或者は見て以て大山師となし或者は見て以て喰せ物と為す。若し当代智を以て彼れに較すれば犬養木堂ならん乎、只だ木堂は才気煥発光彩陸離、譬ば錐の嚢中に在るが如く頴脱せずんば已まず、触るゝ処傷かざるなし、木堂の事を処する明快敏速節々刀を迎へて断つ、頭山に至ては然らず、深く其智を晦まし深く其機略を蔵す、珠蔵るれば山自ら媚ぶるが如く、外に英気の煥発するものなしと雖も、内に蘊蓄の妙味を存す。木堂の一語は匕首直に人の咽喉を刺し、頭山の一諾は千金より重んぜらる。木堂は嘲罵に長じ、頭山は諷喩に長ず、而かも敏警其揆を一にするもの、其智相同じからざるを得んや。彼の郷友平岡浩太郎も亦た一世の快男子燥り、事業の迹よりすれば彼は頭山を駕するに似たり、平岡の人に接するや風骨稜々盛に天下の経綸を説く、勝算歴々掌中に在るが如く、意気咄々人に逼まる、譬へば駿馬の今しも競馬場中に躍り来て振鬣一番長風に嘶くが如く英姿颯爽人をして覚へず快を呼ばしむ。而かも二たび彼れに接すれば漸く其痴気を感じ、三たびするに及んでは遂に其の矜気を憐まんずあらず。頭山は之に異なる、初めて相逢ふ時は愚なるが如く、二たびすれば茫なるが如く、三たびすれば大なるが如く、四たび五たびするに及んで黒雲の中時に片鱗を露し来る。平岡は沸騰散を呑むが如く、頭山は蔗を喰ふが如し。平岡の事を成さんとするや、勇往直前馬車馬の如く、只だ一気に奔到し来る、必ずしも前路の障碍を問はざるなり、否な始めより障害あるを知らざるなり、故に一たび躓けば必ず仆るゝも、仆るまでは猪突狼奔其止まる処を知らず。頭山は人生の機微を知る、故に其帆を揚げんとするや、先づ海図を瞑想し暗礁を数へ潮流を考へ内には炭量を算し外には風位を測る、之を以て彼れ容易に錨を抜く能はず。平岡は少壮なる航海手が風に乗じて無二無三に奔馳するが如し、幸にして危灘駭浪を免るゝを得るも時としては目的地点を誤りて意外の港湾に到着する事あり。平岡は能く蜚ひ能く鳴く者なり、其鳴くや必ずしも人を驚かすに足らずと雖も、其鳴かんとして遂に鳴かざる者に比すれば彼れの鳴くや又た多とするに足るものあり。頭山は容易に蜚はず容易に鳴かずと雖も、其鳴かざるもの既に十年又た久しからずと云ふ可らず、彼れ曾て曰く為して為さゞらんより為さずして為さゞるに如かずと、嗚呼彼れ遂に為さゞる乎。曾て九州御巡幸に際し鳳輦を奪て旗を九州の一角に挙げんとせし彼れが得意の高手的手段知らず如今何の地に之を用ゐんとする乎。<ul class="footnote"><a name="3384-1"></a><li><a href="#3384-1f">注1</a>堅志社が正しい。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3384</comments>
 <pubDate>Wed, 6 Sep 2006 19:40:45 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』　（５）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3383</link>
<description><![CDATA[<b>少年時代</b><br />
<br />
　（三）<b>頭山満の母家相続</b><br />
<br />
　満は十九歳の時、母の生家を相続して、茲に頭山姓を冒した、頭山家は五人扶持に、十八石の武家であつた、満が頭山家に入ると間もなく、世は帰農帰商の時代となつた、即ち百姓になるか、商売人になるか、各人が将来の方針を一定せねばならぬのだ、満は不性で怠惰者であるから、芋掘や銭取等は真平御免、跣足で逃出すと云ふ、箸にも棒にもかゝらない御客さま、或日のこと満の母は、世間の手前もあるからと、親戚一同を集めて満さんに、商売を覚へさせようと、額を鳩めて協議した、そこで母親は満を呼び、百方なだめ賺した上、「満さん如何だい、汝に商売をさせようと思ふが」と云ふと、満さん「己にやいかん」、他は無言、家族一同一方ならず心配したが、当人に駄目ぢや嫌ぢやと云はれて見ればそれまでのこと、もう夜も段々と更け渡るから、明日にしようと皆床に就いた、すると満さん、一同が寝静まつたと思ふ頃、矢庭に床から飛出し、頓狂な糠味噌の腐るやうな声で、「芋や芋、芋は宜しう宜しう」と、座敷中を歩き廻つた、これを聞いた母親、「満さん気でも違ひはせぬか」と云ふと、「なに己は芋の切り売りでもしやうと思ふから、声を出す稽古をして居るのだ」。<br />
<br />
　満は、翌年即ち彼れが二十歳の時、商売見習のため、近所の下駄屋へ同居をさせられた、店の主人は鷹取と云ふて、頭山の親戚である、親爺は気軽な剽軽者で、或日のこと、問屋に下駄の仕入れに行くからと、満に店番を頼んだ、<br />
　　親爺「おい満さん、一寸店番を頼むぜ」<br />
　　満「おー」と、間の抜けた返辞、<br />
　　「それぢや行つて来るよ」<br />
と親爺は出てしまつた、満さん同居の苦しさ忘れかね、「店番も糞もない、鬼の居ない留守に洗濯ぢや」と、店をから空きにして、近所の寺へ遊びに行き、そこでぐつすり寝込んでしまつた、其間に下駄屋へ盗人が入つて、品物を持つて逃出す所を、運悪く巡査に捕まつた、所が店番が居なかつた、が不図店番が近所の寺に居ると云ふことを、風の便りに聞き付けたから、早速満の所へ盗人を連れて、満に引渡すと、満さん「己りや知らん」、「逃がしてやれ」、其後鷹取親爺、之れにも懲りずに、又満に店番を頼むと、満は「よし」、今度はよからうと、親爺は又出て往つてしまつた、満さん考へた、店をから空きにして、寺へ遊びに行くのもいけまいと、店の中央に尻端折で睾丸火鉢、車夫の客待然たる態度、すると間もなく一人の御客が入つて来た、<br />
　　客「やう満さん、店番かい」<br />
　　満「うむ」<br />
　　客「下駄を買ひに来たよ」<br />
　　満「来たか」<br />
　　客「何か恰好のよい流行の下駄を見立てゝ呉れないか」、<br />
　　満「うむ、己にや分らぬ、どれでもよいのを持つて行け」、<br />
とつけもない店番である、三千世界を探しても、こんな人は又と二人あるものぢやない、<br />
　　客「どれを持つて行くにしても、価を云ふてくれんけりや困る、一體此下駄は何程だい」、<br />
　　満「一銭だ」<br />
　　客「馬鹿に安いな、片つぽかい」<br />
　　満「なに一足だ」<br />
　　客「時に此表附は」<br />
　　満「一銭だ」<br />
　　客「それぢや此畳附きは」<br />
　　満「やはり一銭ぢや」<br />
　　客「やー」、<br />
当時二十銭も出せば、飛切上等な下駄が買へたものだが、一銭とは見切物より猶安い、此御客中々隅に置けぬ代物、それぢや折角来たのでもあるし、又入用な品であるから、十足頂いて参りましようと、売手よりは買手の方が余程お利巧者、一足買ふ筈で来た奴が、店番に頭を下げて十足の下駄を両手に提げて、店を出ると近所へ触れ廻つた、今此通り下駄を買入れた所だ、あの鷹取の店へ行くと、親爺は留守で、満さんが店番をして居つた、其安いことゝ云つたら、己はおつたまげた、間がよけりや、満さん唯売るぜ、そこは欲の世の中とて、では親爺の店へ戻らない内に買ふて置かうと、我も我もと下駄屋へ押掛け、店は俄に大繁昌、何でもかんでも店中の下駄、一銭均一だから売れるは売れるは、品物は瞬く間に売切りの好況を呈し、店はから空きとなつた、その中に親爺が帰つて来た、所が満さん真面目に店の火鉢にあたりながら、店番をして居るのを見て、親爺大に嬉しがり、<br />
　　親爺「下駄は皆売れたのかい」<br />
　　満「今日は大分繁昌ぢやつた」<br />
　　親爺「うむ満さん、汝へは実に商売上手だね、日外店番頼んだ時は、寺へ遊びに行つておしまいだつたそうだが、汝へが真面目に店に居つてさへくれゝば、こんなに売れるのだからね」と、一人でニコニコして居つた、満さん腹の中で茶を沸かして居る、<br />
　　親爺「時に売高は〆て何程だね」<br />
　　満「知らん」<br />
　　親爺「そりや困つたね、金は何処にあるね」、<br />
　　満「そこらへ客が置いた筈ぢや」、<br />
親爺あたりを見廻し、「たつた之れだけかい」<br />
　　満「うむ」<br />
　　親爺「満さん下駄の直段は分つたかい」<br />
　　満「分らん」、<br />
　　親爺「一體いくらに売れたのだい」<br />
　　満「どれもこれも一銭に売れたよ」、<br />
ひやーと親爺はおつたまげ、朝の喜びは夕の悲しみとなつて、親爺は年甲斐もなく、場所も有らうに泣き出したとは、さもあること、これには流石の親爺も、呆れ返つてそれつきり、満さんに店番を頼まなくなつた、満さん大喜び、我計画図に方つたりと許り、籠より離れし鳥の如く、毎日毎日諸所を彷つた、家もとより貧しかつたから、縄を帯とし、襤褸を衣とし、尻端折に草履穿きで、諸所を彷つた、それに満さん、昔からシヤツやモモヒキ大嫌ひ、当時は犢鼻褌をしなかつたから、実に見られた態ではない、偶ま人が、満さん不體裁ぢやないかと注意すると、「着物がひつかゝつて邪魔ぢやから、尻捲りだい」、それ故近所の子守娘達は、口々に「皆さん皆さん満さんの姿は、あれや何ぢやいな」といふ俗謡を作つた位である、然し満さんは、其んなことには少しも気を留めなかつた。<br />
<br />
　一世の怪傑頭山満が、青年時代に愚人を装つたのは、有名な話であるが、それから一寸福岡の平尾山に入り、乞食の姿に身を窶し、山番の家に居つた、離欲寂静無念無想の禅者を気取り、富貴栄耀を浮雲の如く看做し、仇に報ゆるに徳を以てすると云ふ、寛仁大度の心を養ひ、花と語り、鳥と笑ひ、谷に答へて己れが心を清浄無垢にした、山に入りては、三日三夜食を断ちて、荒れ朽ちたる寺に坐禅し、野に出でては、一週の久しき間、廃れ果てたお堂に眠つて、心胆を錬磨した、時には谷に下りて手づから水を汲んだり、山に入り薪を取り、自ら担ふて博多の町へ売りに行つたことがある、又柔剱術にて、己れが體力を養成し、後ち己の體が、どれだけ寒さに堪へるかを試めして見ようと、師走の寒天に真裸體で、橋の上に一夜を明かした、朝になると四面は雪を欺く霜であつた、然し先生平気なものであつたとは、如何に身體が強壮であつたかゞ分る。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3383</comments>
 <pubDate>Wed, 30 Aug 2006 21:49:02 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年４月１１日～２０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3382</link>
<description><![CDATA[<b>四月十一日</b><br />
○曇天。午后次第に雨模様となる。<br />
○本日は恩給採りの為め、午前八時三十分前家を出て、八時四十分郵便局に着く。五、六人列をなせり。跡より列に入り、間もなく四一八円の恩給を受取り、住友銀行の定期貯金を書替の手続し、松屋に行きて高野山の展覧会を見物し、夫より六階の展望台より入港中の軍艦・博覧会を見、帰途、柳原郵便局に四一五円を貯金に入れたり。<br />
○北村は、跡は来二十日に講を盛るから、其節二月分の残りを入るゝ筈。<br />
　瀬戸は明后日入るゝ筈。<br />
<br />
<b>四月十二日</b><br />
○夜半雨。本日は相当の雨量あり。終日止まず。<br />
○和田、三円持参し、今月末一ヶ月分入るゝ筈。而して、今后は毎月十六日迄に三円入れ、月末に十二円入るゝことに堅く申入れたり。<br />
<br />
<b>四月十三日</b><br />
○快晴となる。愈陽春の気候となれり。桜も、山桜・吉野そろそろ咲き初めたり。<br />
○瀬戸、恩給支給上の関係により、寄留届の判取りに来る。<br />
○東公園に集金に行く。<br />
　桧室は、持参するから四、五日待つて呉れとの頼み。<br />
　平山は留守なるが、不景気で金なき模様。<br />
　長谷川は誰も居ない。<br />
○帰途、東長寺に記念祭に参拝せり。丁度本日は大般若経転読と護摩供の奉修中なりしが、参拝者は至つて少かりし。是は時代の趨向ならんが、篤と考ふ可き事柄なりと感ぜらる<span class="footnote"><a href="#3382-1" title="　東長寺は真言宗の寺院。護摩供は密教の秘法。豊吉の実家石井坊は近世には天台宗の修験となるが、中世は真言宗であった。そうした縁を意識しての感想か。">*1</a><a name="3382-1f"></a></span>。<br />
○郵便貯金より畳屋払の為め二十円引出す。<br />
○久原鉄太郎、三帆醤油<span class="footnote"><a href="#3382-2" title="　福岡市柳橋にあった。">*2</a><a name="3382-2f"></a></span>の為めに世話するとて、仲介者を連れて、浜田の田地を見に連れて行く。<br />
　価格は一五〇歩を別くるとして歩当り一五・五〇銭と示せり。<br />
○永野が後藤の話しに来りたるも、山田四郎が十五日迄処分する約束になつて居るから、夫れを待つことに返事し、尚ほ其后の状況に依りては、宜しく頼むの意味を話したり。<br />
<br />
<b>四月十四日</b><br />
○快晴の上天気。但し、今朝は水霜位の程度。<br />
○鉄太郎に、半分十五円五十銭売りは損の上塗となるから、三百五坪を十五円に売るか、半分の百五十坪を二十二円に売るかの二案に依て交渉することを、書面にて出す。<br />
○米村正に、二十二日・二十八日の両日何れにても差支なきが、博多着の日時を知らすることを照会。<br />
○慶子へ書面を出す。<br />
<br />
<b>四月十五日</b><br />
○午前晴。午後曇天、后雨模様にて暖気となる。<br />
○午前、永野来り云ふ。後藤は西新町に今明日に転居しますと。而して琴を買ふて呉れとて言ひに来が断りました。米も一斗あるから売ると云ふて居たとの事。<br />
○正午頃山田四郎来り、本日晩迄には後藤移転しますと告げに来た。<br />
○松本隆次<span class="footnote"><a href="#3382-3" title="　石瀧作成「玄洋社員名簿」に名前が見える。">*3</a><a name="3382-3f"></a></span>の処に入歯修繕に行つたが、組合に行つたとて留守であつたから、明日晩方に来ると告て置けり。<br />
○末田の家内を昨今両日傭ひ、洗濯・ガラス拭。<br />
○後藤本日退去。運転手の話に依れば、行先は姪ノ浜と云ふ。<br />
○郵便局より、尚一の月謝送りの為め六十円引出し、五十円本為替を組み、書留にて送る。<br />
○後藤の処に、一ヶ月前より、表の階下六畳に七円にて間借りせる赤坂に貸せとの永野の話しにより、貸すことに定む。<br />
<br />
<b>四月十六日</b><br />
○時々晴れと云ふ天候。<br />
○山田四郎来れり。十五円の手数料一ヶ月分渡す。<br />
○松本歯科へ金台の擬歯修理を依頼す。明日午后三時出来の約束。<br />
<br />
<b>四月十七日</b><br />
○快晴。風なく暖気。愈花日和となる。<br />
○午後操同伴、水上公園<span class="footnote"><a href="#3382-4" title="　西中洲の突端に位置する。">*4</a><a name="3382-4f"></a></span>より西公園の桜花を見、夫より海岸に出で、港埋立地を廻り、下ノ橋<span class="footnote"><a href="#3382-5" title="　福岡城の堀にかかる。">*5</a><a name="3382-5f"></a></span>に出でたり。<br />
　吉野は満開には少し早い位にて見頃。山桜は少し早き方。八重は早きは咲けるも、一般は無論早し。<br />
○下橋にて操に分かれ、春吉に行き、松本歯科医より入歯を受取れり。<br />
<br />
<b>四月十八日</b><br />
○曇天。南風甚だ強く、吹き荒れたり。今頃の風としては意外に強かりし。夜に入り雨となる。<br />
○午后、小森方にて長時間話をなせり。<br />
○今夜、永野話に来る。<br />
<br />
<b>四月十九日</b><br />
○昨夜来の雨全く晴れて、花日和の上天気となる。<br />
○髪摘屋に行けるも、日曜日とて、已に朝早くより人の詰め掛け居るにより、明日に延ばし、夫より神吉氏見舞の菓子箱買の為め、松屋に出掛けたり。<br />
○午後、菓子箱を持ちて神吉励氏の病気見舞をなす。<br />
○夫より花・大根を持ちて八田氏を訪問せり。<br />
<br />
<b>四月二十日</b><br />
○快晴。本日は急速に暖気となる。<br />
○光雲神社<span class="footnote"><a href="#3382-6" title="　「てるも」と読む。黒田如水・長政父子を祭神として祀る。廃藩置県前は福岡城本丸にあった。">*6</a><a name="3382-6f"></a></span>祭典にて、報古会総会あり。午前九時半家を出て十時頃着けり。已に評議員連中は受附を開始せり。弁当は八百人分用意せりとの事なるも、割合に人出少く、二ヶづゝ土産として弁当を貰ひ受、帰宅せり。<br />
　但し、帰途理髪をなし、帰宅せしは四時半頃なり。<br />
○夜に入り赤坂氏来り、契約書及四月半ヶ分の家賃を持参し来れり。<br />
○山田四郎へ、後藤政村の移転先知らせ。<br />
○三浦勝三郎へ台束注文。<ul class="footnote"><a name="3382-1"></a><li><a href="#3382-1f">注1</a>　東長寺は真言宗の寺院。護摩供は密教の秘法。豊吉の実家石井坊は近世には天台宗の修験となるが、中世は真言宗であった。そうした縁を意識しての感想か。</li><a name="3382-2"></a><li><a href="#3382-2f">注2</a>　福岡市柳橋にあった。</li><a name="3382-3"></a><li><a href="#3382-3f">注3</a>　石瀧作成「玄洋社員名簿」に名前が見える。</li><a name="3382-4"></a><li><a href="#3382-4f">注4</a>　西中洲の突端に位置する。</li><a name="3382-5"></a><li><a href="#3382-5f">注5</a>　福岡城の堀にかかる。</li><a name="3382-6"></a><li><a href="#3382-6f">注6</a>　「てるも」と読む。黒田如水・長政父子を祭神として祀る。廃藩置県前は福岡城本丸にあった。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3382</comments>
 <pubDate>Wed, 30 Aug 2006 20:29:31 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年４月１日～１０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3381</link>
<description><![CDATA[<b>四月一日</b><br />
○曇天。暖気。無風。<br />
○尚一、津屋崎武谷を訪問するとて、朋友と共に午前より出掛けたり。<br />
○尚一四月分学資及旅費として、郵便貯金より六十円引出せり。<br />
○静江〔枝〕の河野病院入院見舞として、赤坂門饅頭桜餅三十銭を携帯し行けり。<br />
○廣田弘毅氏総理就任祝賀和歌一首に二十銭を添へ、村上氏方に持参せり。<br />
○尚一、午后八時半の博多駅発汽車にて出発、帰校。慶子、自働車にて送る。四月分の学資三五円・書籍代十五円・旅費五円、都合五五円持参せり。<br />
<br />
<b>四月二日</b><br />
○小雨。<br />
○若杉兄貴<span class="footnote"><a href="#3381-1" title="　豊吉の兄石井環。">*1</a><a name="3381-1f"></a></span>、兵営<span class="footnote"><a href="#3381-2" title="　福岡城にあった、福岡第二十四聯隊の兵営。">*2</a><a name="3381-2f"></a></span>に来た帰りだとて来り、昼飯を取りて去る。南京豆紫種・普通種の種子、及雪割草・西洋ワサビを分与せり。<br />
○郵便貯金より二十円引出せり。<br />
<br />
<b>四月三日</b><br />
○本朝来小雨の処、風は昨夜来引続強く、午后より霰も時々降り、風は一時中々西に北も加り、荒れ狂ふ有様にて、天候甚だ不良。<br />
○操と慶子は、人ノ道に余興ありとて、午前より出掛け、午后四時頃帰宅。<br />
○永野氏方は初節句とて、小鯛二尾祝したりし処、本日馳走の案内を受けたるも、断りし処、酒を添へて、二ノ膳附けて料理を送り来れり。又前以て菱の餅を貰ふ。<br />
<br />
<b>四月四日</b><br />
○昨日来の風は、昨夜より或分和げるも、本日は未だかなりの風あり。但し、曇りたり晴れたりの天候。<br />
○午後、玉屋に、成田不動尊の出開帳に参詣す。<br />
○権藤紙店にて久原鉄太郎<span class="footnote"><a href="#3381-3" title="　久原の河辺鉄太郎。親族。">*3</a><a name="3381-3f"></a></span>に遭遇す。<br />
○郵便貯金より小遣の為め十円引出す。<br />
<br />
<b>四月五日</b><br />
○快晴の春日和、風なく、暖気なるも、未だ桜には早し。<br />
○午前十一時の自働車にて、慶子を連れ須恵行。菓子箱とカマボコを土産とせり。又、静江の好みもあれば、七重草二株を送る。<br />
○須恵にて二度食事をなし、午后五時の須恵発自働車にて帰宅。<br />
○静江の娘の、栗本に貰はれたるが、須恵より自働車に同車せるが、千代町の終点には、母なる人が迎へに来て居た。<br />
<br />
<b>四月六日</b><br />
○曇天。雨模様。<br />
　昨夜来暖気。蚊出づ。<br />
○葉書出す。<br />
　　　博覧会案内。<br />
　　　　青木トシ<span class="footnote"><a href="#3381-4" title="　登志。操の母。最初の夫・賀来権九郎の死後、米村家に再嫁した。熊本市子飼の細川男爵家に奉公していたこともあり、現在、子飼から熊本城三ノ丸に移築されている旧細川刑部邸に飾られていた集合写真に、青木登志の顔も写っていた。">*4</a><a name="3381-4f"></a></span>・米村正連名。<br />
　　　　本谷・沢田連名。<br />
　　　村上駿助、古稀を賀せる俳句の礼状。<br />
　　　長谷川健助へ家賃催促。<br />
　　　恩田鉄弥氏へ所感。<br />
○山田四郎、後藤家明け渡しの現在進行状況問ひ合せ。<br />
<br />
<b>四月七日</b><br />
○曇天。小雨。暖気。<br />
○中村公達氏方より柚の穂を貰ひ来て、接木をなす。<br />
○戸数割所得申告書は、九日迄に浦野町総代の処に届くる筈に付、調査せり。<br />
○本日貸家紹介所より聞いたとて、十一円五十銭の家を尋ね来た。すつかり忘れて居たから、二月廿四日附御願した家は、本日永野潔との間に約束出来た旨通知せり。<br />
<br />
<b>四月八日</b><br />
○細雨、終日降り頻る。而して暖気なり。<br />
○戸数割所得申告書を町総代の手元に出す。<br />
○十日午前七時、廿四聯隊、営所出発に付、見送りす可く、町総代より触れたり。<br />
<br />
<b>四月九日</b><br />
○昨日来引続雨。昨夜は大分の雨量あり。但し久振りの雨量。<br />
○十七銀行<span class="footnote"><a href="#3381-5" title="　初め第十七国立銀行と言った。福岡銀行の前身の一つ。">*5</a><a name="3381-5f"></a></span>より、利子引下げに付、十一日期限の分、利下期日前に書替の申入あり。依て、本日一ヶ年据置にて書替。尤も十一日の期日迄は手形にて借入れとし、利子は証書の利子より支払ひたり。（端下六十九より、借りの利子三十九銭差引、残り二十八銭は現金にて受取りたり。）<br />
○山田四郎来り、後藤は天気に成り次第退去す可く有が、十五日頃迄と見て呉れとの事。<br />
<br />
<b>四月十日</b><br />
○天気快晴なるも、北風強くて甚だ寒さを感ず。<br />
○本日は福岡聯隊が満洲に、午前博多港より乗船・出発。歓送にて市内中々の賑ひを呈せり。操、人ノ道の朝参りの帰途、大名町にて出発を見送りたり。<ul class="footnote"><a name="3381-1"></a><li><a href="#3381-1f">注1</a>　豊吉の兄石井環。</li><a name="3381-2"></a><li><a href="#3381-2f">注2</a>　福岡城にあった、福岡第二十四聯隊の兵営。</li><a name="3381-3"></a><li><a href="#3381-3f">注3</a>　久原の河辺鉄太郎。親族。</li><a name="3381-4"></a><li><a href="#3381-4f">注4</a>　登志。操の母。最初の夫・賀来権九郎の死後、米村家に再嫁した。熊本市子飼の細川男爵家に奉公していたこともあり、現在、子飼から熊本城三ノ丸に移築されている旧細川刑部邸に飾られていた集合写真に、青木登志の顔も写っていた。</li><a name="3381-5"></a><li><a href="#3381-5f">注5</a>　初め第十七国立銀行と言った。福岡銀行の前身の一つ。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3381</comments>
 <pubDate>Mon, 28 Aug 2006 19:18:36 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年３月２１日～３１日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3380</link>
<description><![CDATA[<b>三月二十一日</b><br />
○昨日来の雨晴れ、快晴。暖気。愈春の彼岸日和となる。<br />
○若杉へ彼岸参りをなす。饅頭とカマボコを持ちて、午前十一時十八分発にて行き、午后六時十八分にて帰宅。<br />
○本年は寒気強く、且つ長く続きし為め、若杉にては二月頃が梅花の盛りなるも、本年は只今が梅の満開なりし。<br />
<br />
<b>三月二十二日</b><br />
○今朝大霜。寒し。快晴。午後は暖気となる。<br />
○午後、慶子肩掛買の為め、新道に出掛く。<br />
○蜂屋、柿の接穂。<br />
<br />
<b>三月二十三日</b><br />
○快晴。暖く、愈春日和となる。<br />
○雅互会にて藤野氏宅へ出席。会するもの、<br />
　　　平野・菊池・木村・多々野・石井・藤野<br />
　田村・巴・弱法師の三番を謡ひ、晩餐の馳走を受け、午后六時頃退散せり。<br />
○帰途、八田氏へ送る可き法事の菓子を買へり。<br />
○本日は井浦義久氏の細君の告別式に□し、早かりしも雅互会出席前に臨席せり。而〔して〕告別式の時間は、午后四時より六時迄となれるも、出席せるは午后二時迄なりし。<br />
<br />
<b>三月二十四日</b><br />
○曇天。暖気となる。霜も差して見へず。<br />
○北山善臣氏へ廣田首相就任<span class="footnote"><a href="#3380-1" title="　三月九日、広田内閣成立。広田弘毅は福岡市出身で玄洋社員でもあった。">*1</a><a name="3380-1f"></a></span>祝賀の歌を送る。<br />
<br />
<b>三月二十五日</b><br />
○曇天にして、北風稍強く、雪ちらつき寒くなる。<br />
○慶子の卒業式<span class="footnote"><a href="#3380-2" title="　福岡県立福岡高等女学校。現・県立福岡中央高等学校。">*2</a><a name="3380-2f"></a></span>にて、操も出席せり。<br />
○尚一は、友人が来て活動に行くとて、十二時前より出掛けたり。<br />
○山田四郎へ、家明け渡し方に付、来車方請求。<br />
<br />
<b>三月二十六日</b><br />
○今朝大霜にて氷結せしが、快晴にて暖かく風なく、上天気となる。<br />
○苗床に野菜類・花卉類の播種をなす。<br />
○山田四郎、後藤、家明け渡しの交渉を始む。<br />
○豆腐屋のバアサンが、後藤は嫁入りしたから安心と云ふから、山田四郎の処に行つて打合せし処、話が怪しいから、依然山田に、明け渡しのことは継続依頼し置けり。<br />
<br />
<b>三月二十七日</b><br />
○曇天。風稍強く、午后小雨あり。<br />
○操同伴、午后二時より愛宕様参詣、四時帰宅。<br />
○神代柳の種子を拾はんとせしも、時期既に晩く、一粒も見当らず。目下開花中。<br />
○本日、尚一、博覧会に出掛けしが、未だ準備出来て居らず<span class="footnote"><a href="#3380-3" title="　二月七日の注でふれた通り、博覧会の会期は三月二十五日からだったのだが……。">*3</a><a name="3380-3f"></a></span>との事。<br />
<br />
<b>三月二十八日</b><br />
○本朝かなりの霜なるも、左迄遠からず。快晴・暖気となり、愈春日和となる。<br />
○操、河野病院へ須恵岡<span class="footnote"><a href="#3380-4" title="　糟屋郡須恵村（現・須恵町）の岡家。四月一日の日記から、入院しているのは岡静枝であることがわかる。岡家は豊吉の先妻の実家。静枝は姪に当たる。">*4</a><a name="3380-4f"></a></span>の入院見舞に行く。一円の松屋饅頭贈り。<br />
○北村は四月十日迄に一ヶ月入れる筈。<br />
<br />
<b>三月二十九日</b><br />
○晴天時々曇り。風強きも暖気。愈春らしくなる。<br />
○植物も急に芽ぐみ来れり。<br />
<br />
<b>三月三十日</b><br />
○快晴となる。昨夜は風強く荒れたりしが、朝には凪ぎたり。<br />
○松村康熊より実母死去の知らせあり。弔電を発す。<br />
○慶子、須恵の病院入院患者の処に、鶏肉の御飯を贈りに行く。<br />
○本日は天気上等に付、竹□〔籬〕の整理、梅・樟の枝卸をなす。<br />
<br />
<b>三月三十一日</b><br />
○天気快晴なるも、稍膚寒し。<br />
○公園・地行・和田は、来月十二日、増金迄入るゝ約束。<br />
○公園の下水を浚ゆ。<ul class="footnote"><a name="3380-1"></a><li><a href="#3380-1f">注1</a>　三月九日、広田内閣成立。広田弘毅は福岡市出身で玄洋社員でもあった。</li><a name="3380-2"></a><li><a href="#3380-2f">注2</a>　福岡県立福岡高等女学校。現・県立福岡中央高等学校。</li><a name="3380-3"></a><li><a href="#3380-3f">注3</a>　二月七日の注でふれた通り、博覧会の会期は三月二十五日からだったのだが……。</li><a name="3380-4"></a><li><a href="#3380-4f">注4</a>　糟屋郡須恵村（現・須恵町）の岡家。四月一日の日記から、入院しているのは岡静枝であることがわかる。岡家は豊吉の先妻の実家。静枝は姪に当たる。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3380</comments>
 <pubDate>Sun, 27 Aug 2006 18:46:04 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』　（４）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3379</link>
<description><![CDATA[<b>幼年時代</b><br />
<br />
　（二）<b>頭山満の勉学</b><br />
<br />
　八郎さん、家に在つては軍談物を読み聞きして楽んで居つたが、十二歳の時、折衷派の瀧田紫城に師事して、手習ひの稽古をした、この塾からは、仏蘭西の公使をした、栗野慎一郎等の秀才を出して居る、八郎さん塾へ入つたが、寺小屋式の御手習ひは大禁物、為朝ならぬ八郎は、乱暴組の旗頭、怠惰者の大統領、薄ボンヤリした間の抜けた顔附をして、種々な悪戯をしては、人の困るのを見てニヤニヤ笑つて居る、八郎は元来模範的の蛮カラ書生、他の塾輩がキザな上にハイカラ臭いのが、癪に障つて堪らない、或日のこと八郎さん、塾の便所へ行かうとすると、手洗鉢に水がない、根が不性な八郎、便所へ入るを面倒臭い、水がないこそ勿怪の幸と、鉢へジヤブジヤブ小便を垂れ込んで、頭山一流の知らぬ顔で済まして居た、知らぬが仏の他の塾生、ヤー何時の間にか水が入つたなと、皆手を洗ひ出した、八郎さんホクホク者で、一人笑壺に入つて居る、黙つて居れば、障らぬ神に祟りなしだが、正直者の八郎さん、「ヤア皆手を洗つたか、そりや己の小便ぢや」、其言葉が終るや否や、塾輩は、「ヤー八郎、不届千万、此分では捨て置かん、半殺にしてしまうぞ」と、一同赫と息巻いた、然し八郎は平気の平左衛門、さて半殺の方法は、当時流行の蒲団巻、腕力で八郎を蒲団にて巻き、其上から蹴るやら殴るやら、半死半生の憂目を見せるのだ、で其蒲団巻は、愈其日の消灯後、八郎の就寝を待つて実行しようと、衆議茲に一決した、所が如才ない八郎、直ぐと朋輩の素振りを見て取り、「はゝア奴等何か企んだな、大概相場は蒲団巻ぢやろう、いざ鎮西八郎為朝の腕前を見せて遣らう」と、消灯は午後の十時、其前に寝る者は、塾長に申出る規定だが、彼も癪に障るから無届で八時半頃、護身用の短刀を懐中し、床入りの時に鞘を払つて、白刃を蒲団の下に忍ばせ、今にも手出しをする奴があれば、一刀の下に斬付けやうと云ふ、凄まじき意気組、此の八郎は、唯の鼠ぢやごわせんと、云はぬ許りに大の字形に、フン反り返つての高鼾、流石の塾生も、此大胆なやり方には気を呑まれ、聊か薄気味が悪くなり、消灯後合図の刻限が来ても、誰一人手向ふ者がなかつた、それで結局蒲団巻は、其儘お流れになつて終つた、然し朝起きて見ると、八郎さん驚いた、彼れの蒲団は鮮血淋漓、足からは血が迸り、周囲は紅に染まつて居る、それもその筈、白刃と抱合ひで床に入り、其儘ぐつすり、寝込んだのだから堪らない、つまり我と我手で、足を斬つたのであつた、とんだ所で小便の罰が当つた。<br />
<br />
　塾を辞して、亀井雍洲の門に遊び、漢学の稽古をした、先生は有名なる道斎の孫である。（道斎は徂徠派の名儒であつて、高山彦九郎の系統に当る）<br />
<br />
　八郎は不図眼を病んだ、そこで婦人眼科医高場乱<span class="footnote"><a href="#3379-1" title="　乱を「おさむ」と読む。">*1</a><a name="3379-1f"></a></span>の治療を受けに往つた、この医者は気品の高い婦人であつた、これには八郎さん、一方ならず惚れ込んだ、幸ひ彼女が、青年子弟を集めて、漢籍の講義をして居つたから、塾を去つて高場の門に馳せた、乱は婦人医でこそあれ、豪気な人物で、維新の当時彼の有名なる、長州の快漢高杉晋作を愛護して、国事に奔走せしめたる野村望東尼等と交を結べる、愛国の女丈夫であつた、家塾は福岡県筑紫郡―今の那珂郡人参畑と云ふ所に在る、人参畑の先生と云へば、誰一人知らぬ者はなかつた、先生は亀井道斎門下四天王の一人であつた、幼にして怜悧、好んで漢籍を繙いた、十六歳の時、或人の媒介によつて某を迎へたが、夫の意気地なしに呆れ返つて、自ら離婚した位の変り者、爾来貞女は両夫に見えずと云ふので、日夜読書三昧に耽り、孤閨を守つて居つた、そこで女史の父母は、大に心配して、種々となだめ賺して、彼女に再婚を勧めたが、一度決心したる女史の執念、堅きこと金鉄の如しで、百方其勧告を斥けた、紅白粉に浮身を窶す妙齢を、あたら己は男装して、髪を断ち、袴を著け、高下駄を履いて往来を闊歩し、肩を怒らす壮士連と交遊して、彼等と共に国事を談ずるのを、最上の快事とした、眼科医を業として家計を立てゝ居た傍ら、青年子弟を引立てゝ居つたから、当時少しく気骨のあつた者は、我も我もと、先を争ふて彼女の門に走つた、箱田六輔、進藤喜平太、松浦愚等の玄洋社の老人株は、皆此塾から出て居る、八郎が豪傑肌のある所へ、高場が変り者であるから、所謂意気が投合した訳である。<br />
<br />
　此高場塾に於ける彼れの修養が、後年天下に謳はるゝ怪手腕の基礎を造つたもので、頭山の今日を成したるは、彼れが家庭の感化以外に、女史の薫陶与つて力があるのである、嗚呼福岡の女丈夫として、其名九州に轟きし高場乱は、○○歳<span class="footnote"><a href="#3379-2" title="　享年六十一歳。満年齢では五十九歳。">*2</a><a name="3379-2f"></a></span>にして彼の世の人となり、其英魂は、福岡市の二大伽藍の一たる、崇福寺（黒田家歴代の菩提所）の片辺りに埋められてある、其墓には常に香花の絶えたことがなく、士人の礼拝する者引きも切らざる有様である、如何に女史が、後世の人に迄尊敬せられて居るかゞ判る。<br />
<br />
　十四歳の時八郎は、太宰府の天満宮に参詣した、不図社前に「天満宮」の額を見た所が、「満」の一字が大変お気に召した、そこで早速「八郎」を「満」と改称した、所が友達に一法師があつて、八郎が名を「満」と改めたと聞くより早く、八郎の許に来り、「汝は名を換へたそうぢやが『満』は凶である、『満招<small><sub>レ</sub></small>損』と云ふぢやないか、満つれば缺くる世の習ひぢやから、元の八郎の方がよからう」、すると満さん、元来漢学の素養深い男だから、法師の云ふことぐらいは、百も合点二百も承知と云はぬ許りに、落着き払つて、「己は性来人に屈せぬ奴ぢやから、名負け等する男ぢやない、己が選んだ『満』の一字が、果して凶なれば、早く禍に罹つて死ぬ方が己が好きぢや」と云ふて聞き入れない、これには流石評判の坊さんも、張合抜けがしたと見えて、何れかへ消え失せた。<br />
<br />
　「満」と改称して以来、無比の頑童八郎は、父兄には孝養を尽し、朋友には信義を致すといふ、立派な人物となつた。<ul class="footnote"><a name="3379-1"></a><li><a href="#3379-1f">注1</a>　乱を「おさむ」と読む。</li><a name="3379-2"></a><li><a href="#3379-2f">注2</a>　享年六十一歳。満年齢では五十九歳。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3379</comments>
 <pubDate>Sun, 27 Aug 2006 10:43:19 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』　（３）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3378</link>
<description><![CDATA[<b>幼年時代</b><br />
<br />
　（一）<b>頭山満の生立</b><br />
<br />
　頭山満君は、九州福岡の産、早良郡西新町に為人つた、福岡の西町から橋を一つ渡ると、西新町と云ふ所がある、そこに土地で名高い紅葉八幡の御宮がある、これは頭山の氏神様である、それから更に浜手の方へ出ると、一段高い丘の如な所があり、其上に、皆の目を惹く二葉の樟がある、此木は頭山が十一歳の時、手づから植たもので、始めは箸程の大きさもなかつたが、今ではもう四十五年以上も経つて居るから、かなり大きくなつて居る、其樟の根方に、軒は傾き、壁は崩れ、見る影もない一軒の茅屋がある、此家こそは即ち、我が怪傑頭山満の産声を挙げた所である、茅屋は宮殿よりも遙かに偉人を産み出すと云ふが、頭山は此譬に漏れない、天は実に此困苦の揺籃中に、彼れを生育したのである、彼れの生れは、安政二年四月十二日、幼名を乙次郎と呼ばれた、父は筒井亀策と云ふて、黒田侯御馬廻りの侍で、禄百石を頂いて居つた、至つて正直な、悟りの早い、諦めのよい人であつた、母は頭山左平の娘いそと云うて、自分の身姿り等は念頭に措かず、只管家庭の整理に心を砕き、小供の行末のみを案じ暮した賢婦人であつた、頭山は話しが、彼れの幼年時代に及ぶ度毎に、父母の性格をいたく慕はしく思うて居る、乙次郎には、二人の兄と、一人の姉があつた、長兄は亀来と云うて、乙次郎より五つ年上、長ずるに及んで、箱崎の神職をして渡世した、次兄は正次郎と云うて、乙次郎と三つ違ひ、後には台湾へ行つて、建築事業の請負をして居つた、共に善良な正直な人であつた、姉はさき子と云ふて、中々負けぬ気の男勝りの婦人であつた、乙次郎は武家に生れたものゝ、幼時の境遇は実に憫れなもので、家は所謂赤貧洗ふが如き有様であつた、亀来正次郎の両兄は、家政の補足にと、竹細工を内職として、細い烟を立てゝ居つたが、乙次郎ばかりは、一文二文の銭取には目をくれないで、常に大言壮語して居つた。<br />
<br />
　年甫めて七歳、乙次郎は父兄に伴はれて、某所に桜田水士伝を聞きに行つた、即ち水戸の浪士が桜田門外に、井伊掃部頭に斬付けたる勇壮な話である、可憐の小児の乙ちやんは、熱心に其伝に耳を傾け、殆んど倦む所を知らなかつた、偶ま家に帰ると、乙次郎は、直ちに家族を集めて、伝を衆人の前に講じた、身振り口真似、見たこと聞いたことを、其儘そつくり演り遂げたのには、皆舌を巻き、異口同音に、乙ちやん出来した出来したと、博覧強記を歎賞した、それもその筈、連れの者は、何を見てきたのやら聞かされたのやら、無我夢中、烟に捲かれて居つたのだから、全く笑止千万である。<br />
<br />
　乙次郎さん十歳の頃は腕白者の旗頭、夫れは夫れは手に負えない代物であつた、お負けに諷喩的に、人の悪口を云ふのが巧みであつた、宛も近所に油屋があつた、店の主人は天然痘に罹つたと見えて、顔一ぱいのあばた面、乙次郎さんは彼の面つきが一風変つて居るから、一番からかつてやらうと、油屋の前へ行つて、大声挙げて「ジヤンコンチエー」、「ジヤンコンチエー」と幾度となく繰返へした、声を聞きつけた主人、あばた面を真赤にして外へ出ると、例の乙次郎である、<br />
　　主人「何故俺れの悪口を言ふのだ」<br />
　　乙次郎「悪口ぢやないよ、僕は「ジヤンコンチエー」と月琴の譜を唄ふて居つたのだよ」<br />
　　主人「馬鹿にするのも程がある、生憎俺はアバタだ、アバタの親爺に「ジヤンコンチエー」は気に喰はん、これから二度と再び恁ふ云ふことすると捨て置かんぞ」<br />
　　乙次郎「うむ」<br />
　其場はそれで一先づ済んだ、その後乙次郎さん、遊び掛けに油屋の前を通ると、オツカナ吃驚で「ジヤンコンチエージヤンジヤホスイスイジヤスイヂヤホージヤンジヤコスイスイジヤスイジヤホー」<br />
<br />
　それから乙次郎は、家に在るの日は、軍談物を読んだり、又人から話されるのを無上の楽しみとした、十一二歳の時には、仮名交りの三国誌、水滸伝、漢楚軍談、絵本太閤記等を熟読し、十五六歳には既に、論語靖献遺言等を精読した、乙次郎は猶種々な書籍を繙く間に、尾張の一匹夫より身を起して、遂に国家を併呑したる豊臣秀吉、さては楠公父子の忠節等、古今の美談から少なからぬ感化を受けて、願くば国家社会に貢献する身となり、所謂生れ甲斐のある人物になりたいと云ふ心が附いて、知らず知らずの間に「殺<small><sub>レ</sub></small>身成<small><sub>レ</sub></small>仁」と云ふ精神気慨が、自らにして養成せられた、十一歳の時、鎮西八郎為朝の伝を読んだ、所が乙次郎いたく為朝の為人に惚れ込んで、親の附けた乙次郎は嫌ぢやと、自分勝手に八郎と改称した、為朝の再来ならぬ八郎さん、当時の乱暴さ加減と云つたらない、外に出でては友と争ひ、内に入りては兄と闘ふ有様、母も八郎を制止することが出来ない、召使の如きは、八郎様の御傍には居られませんと、幾度となく御暇を申出た、八郎さん手の附けられない代物であつたが、読書は大好き、兄等に盛んに教へたものだ、八郎さん生れつき力が強く、同年輩のものは云ふに及ばず、二つ三つの年上の者も、彼れの相手にならなかつた、性来負けぬ気の上に、強情我慢人に屈せぬ気象であつた、八郎さん十一歳の時に、二つ年上の平野富三郎と、川塩<span class="footnote"><a href="#3378-1" title="　「川庄」の誤り。聞き間違えたのであろう。">*1</a><a name="3378-1f"></a></span>金六の二人を、近隣の金龍寺川へ泳ぎに連れて行つた、八郎は泳ぎは達者だが、富三郎と金六は少しも泳げない、すると八郎は、二人泳がしてやるから川へ入れと叫んだ、富ちやんは怖いから嫌ぢやとベソを掻きながら顫へ上つた、然し金ちやんは、八郎に手を引かれて、一所に川へ入つた、それ迄はよかつたが、二人はいつしか深みに入つた、八郎は泳げるからさしたる事もなかつたが、金六はあはやぶくぶく土左衛門になりかゝつた、八郎は吃驚、命あつての物種ぢやと、一人岩へ泳ぎ着いた、然し後年一世の怪傑とも仰がるゝ八郎、幼な心にも考へた、抑も金六を川へ誘ひしは誰なるか、蓋し乃公ぢや、若し不幸にして川塩が溺れたならば、我のみ一人生き長らへて、をめをめ家へ帰れるものではないと、直ちに立派な覚悟を定めて、大喝一声、「死なば諸共」と、再び川へ飛込んで、金六の側へ泳ぎ着いた、すると金六は、いきなり八郎の頸に囓り着いた、大力無双の八郎さん、川塩の手を放し、彼れを小脇に抱へて、一生懸命に泳いだ、すると一寸八郎の足に砂が附いたかと思ふと、浅い所へ出て、茲に金六は溺死を免れた、岸へ着くと金六は、八郎に抱附いて喜んだのも、尤もな話である。<ul class="footnote"><a name="3378-1"></a><li><a href="#3378-1f">注1</a>　「川庄」の誤り。聞き間違えたのであろう。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3378</comments>
 <pubDate>Sat, 26 Aug 2006 14:09:07 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』　（２）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3377</link>
<description><![CDATA[<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20060826-kaiketutoyama.jpg" width="146" height="236" alt="『天下之怪傑　頭山満』" title="『天下之怪傑　頭山満』" /><br />
<br />
　　<b>緒論</b><br />
<br />
　　　頭山満は何者？<br />
<br />
　方今天下広けれど、九州生れの頭山と謂へば、誰も名を知る大怪物である、花柳の巷に「頭さん」と謂へば、雛妓の惚れる当代の紀文、浜の舎（彼れが風流豪奢の宿陣）御前と謳はれて、金を左右に撒き散らし、芝居の由良さん気取込み、着たは芸妓の長襦袢、酒も飲まずに歌ひ出す、洗髪のおつま仕込の二上り新内、「わる止めせずともそこ放せ……」美音を高く張り上げて、黒人<span class="footnote"><a href="#3377-1" title="　「くろうと」。">*1</a><a name="3377-1f"></a></span>も及ばぬ節廻し、並み居る芸妓の胆を抜く、『あら「頭さま」旨いはねー』、先生素敵な通人である。<br />
<br />
　然も世人動もすれば、君を単に壮士の親分となし、或は石炭掘の親方となす、何ぞ其愚の甚だしきや、人物月旦の泰斗某曰く、「夫れ頭山の天職は、鉱山の見取図を拡げて以て炭質の良否を検定し、売買の才取と謀りて、一掴万金の策を講ずるに在り」と、是れ故なきにあらずと雖も、君が行為たるや、実に非凡である、見よ、彼れ近時北海の炭山を売りて、数十万金を獲るや、先づ己れが負債を清償す、彼れ一日独語すらく、「不<small><sub>下</sub></small>為<small><sub>二</sub></small>児孫<small><sub>一</sub></small>買<small><sub>中</sub></small>美田<small><sub>上</sub></small>」と、余贏を故旧に頒ち、其誼故骨に及ぶ、是れ頭山の頭山たる所以であつて、万人の摸倣する能はざる所である。<br />
<br />
　頭山満は、東洋豪傑肌の人、所謂古武士の典型にして、独り我国にのみ存在する人物である、而も恐らく君が歿後に於て、蓋し此種模型の人物は、到底出現し能はざるべしと思惟せらる、而して彼れが存在は、常に人物崇拝の一標本である、宜なり、君の人に接するや、多く語らずとは云へ、面に和煕の色を帯び、一種名状すべからざる嬌美を包み、何となく人を引附くるの磁気がある、彼れは時として、軽微的黙笑と諷喩的警句を発するのみである、偶ま風流韻事を解するも、群心と献酬するの社交術に巧みならざるが如くである、否寧ろ敢て好まないのである、然れども一度人の彼れに接するや、皆坐ろに欽慕の念を起し、低廻其所を去る能はざるものがある、是れ実に彼れの善行美徳に外ならない。<br />
<br />
　君は福岡の産、身を貧家に起し、刻苦勉励、書を読みて精神を修養し、野に臥し山に寝ねて心胆を錬磨し、柔剱術に由て體力を養成し、世運に乗じて、遂に明治の怪傑と仰がるゝに至つた、由来福岡人士の性格は、内柔外剛、権門に屈せず、貴人に佞らず、弱きを扶けて強きを挫くの、武士的気概に富んで居る、頭山は此性格を代表して余す所がない、情は深く、義は重く、名利に焦せらず、富貴に淫せず、一度貧しき者の憐みを乞ふあれば、彼れ飢ゆるも猶ほ己れが財を抛ちて、彼等を扶助するの気象がある、蓋し任侠的の行為は、彼れの大に得意とする所である。君弱冠にして、四方を周遊し、同志と謀りて、遂に玄洋社を組織した、君が盛時に当りては、其門に集まりたる者、一万有余の多きに達したと云ふに至つては、君の性行人格の、如何に偉大なりしかを推知するに難くはない、時の外相大隈伯爵の、条約改正を断行せんとするに当りて、彼れ大に其の国體を侵害せんとするの傾あるを慨し、松方正義を説いて大に反対した、大隈伯を霞ヶ関に要撃し、遂に偉人をして隻脚たらしめ、辛ふじて生命を全ふせしめたる、彼の志士来島恒喜は、玄洋社の出身であつて、頭山満の門下生であつた、爾来政府、頭山を怖るゝ虎の如くである。<br />
<br />
　要するに頭山は、国家的問題でなくては、決して動かないとは云へ、君が其主義を断行するに於ては、恰も獅子の咆哮して、百獣をして辟易たらしむるの概がある、然れども君が平生を窺ふに、温厚篤実、人を容るゝの器自ら備はれる君子人であつて、人物中の異彩たるを失はぬ、世人曰く、「頭山満の世に処する、私人としても、公人としても、具體的に何の成功したるものはなく、持続的に何の経営したるものはなく、其行動には定まりたる軌道なし」と、是れ真に頭山を知るものゝ言ではない、君嘗て曰く、「世に為さんと欲して為さざるものあり、為して為し得ざるものあり、為さずして為さざるものあり」と、彼れが主義たるや、「為して為さざらんよりは、彼れは為さずして為さるゝを取る」に在る、彼れ又能く己れを知るものと謂ふべきである、朝に風雲に乗じて、九州の炭鉱王となり、夕に無冠の大宰相となる、是れ世人の頭山を怪傑と称する所以である。<br />
<br />
　著者をして頭山を、玄海灘の鯨に譬へしめよ、平日波静かなる時は、千里の海底に住み、有事の場合に当りては、突如己れが配下の魚類を召集し、怒濤澎湃、彼等をして舟を転覆せしめ、人を嚥下し、岸を打つの命を発する、明治聖代、怪鯨（頭山）の為めには、死を辞せずと誓つた魚類（乾分）、三百有余の多きに達したと云ふに至つては、怪鯨亦大に意気を強ふするに足る、頭山満、由来爵位を好まず、高禄を欲せず、市井に韜晦して、天下の大浪人を以て自ら安んじ、窃かに在野無冠大宰相を期して居る、若し君少ふして、純然官途に就き、政界に得意の怪腕を振ふたならば、藤公隈伯の諸星を凌駕したかも知れぬ、然れども君素より欲せないのである、著者の頭山を、風骨稜々一世に高き、隠れたる大政治家なりと評する、決して溢美ではないのである、嗚呼、頭山満、昔しは諸国を流浪して、到る所に奇行を演じ、今は赤阪の邸に、恰も眠れる獅子の如く、優々として起臥して居る、然れども、国事多端なるに及んでは、彼蹶然として起ち、其行動は往々敵の意表に出で、敵の肝胆を寒からしめる、是れ世人の頭山を怪傑と称する所以である。<ul class="footnote"><a name="3377-1"></a><li><a href="#3377-1f">注1</a>　「くろうと」。</li></ul>]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3377</comments>
 <pubDate>Sat, 26 Aug 2006 01:13:53 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年３月１１日～２０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3376</link>
<description><![CDATA[<b>三月十一日</b><br />
○久振り晴れ。日中暖く、漸く時節相当の気候に恢復せるものと認めらる。但し、今朝は雪の如き大霜にて、寒冷なりし。<br />
○日中暖気なりし為め、除草をなす。<br />
○中村公達氏、曾つて井上元県庁の建築技術員がダン竹<span class="footnote"><a href="#3376-1" title="　葮竹（だんちく）。イネ科の植物。豊吉は稲の研究が専門だったらしい。現役を退いてからも、大きなポットで稲を栽培していたという。葮竹もそうして栽培した内の一つだったのだろうか。私の子供の頃、祖父はすでに亡くなっていたが、庭に温室があったのは覚えている。">*1</a><a name="3376-1f"></a></span>貰ひし礼とて、竹の墨絵を持参せり。<br />
<br />
<b>三月十二日</b><br />
○昨夜来雨。暖気。風稍強し。<br />
○午前、東公園集金。<br />
　一、桧室は、階下の五畳半に障子を立てゝ通路を作れり。総費用一一・六〇銭。之を半分出しとして、出て行く時は家に残すことにして、承諾して半分出すこととせり。但し、家賃に差引き、六円二十銭は二、三日中に持参の約束。<br />
　二、長谷川は、来る二十六日に、一ヶ月半丈け作ることを言明。<br />
　三、平山は二、三日中に幾分入金の約束。<br />
　四、和田は入れ越しの筈の処、十一円丈けしか入れず。依て不足の一円と、幾分入れ越しの分は、其内に行くから用意して置く様に言へり。<br />
○小森、拙木の依頼に来る。<br />
○瀬戸は、田舎にても金策は出来ず、来る四月十一日の恩給受取り、皆納することを申出でたるが、目下相談中の金策が出来れば、出来る丈けは出来次第入ることを誓へり。止むを得ず承諾を与ふ。<br />
<br />
<b>三月十三日</b><br />
○昨夜雨の処、本日次第に晴れ、午后より日射あり暖し。春らしく成る。<br />
○午前、報古会々費徴収分、浜町別邸<span class="footnote"><a href="#3376-2" title="　黒田家の別邸。二月八日の注に同じ。">*2</a><a name="3376-2f"></a></span>係りへ納入。<br />
○郵便局より小遣として二十円引出す。<br />
○佃康年に、土取場の家、保険に附する旨を照会。<br />
○午后三時、赤間新太郎君の善導寺<span class="footnote"><a href="#3376-3" title="　浄土宗鎮西派。福岡市博多区中呉服町。">*3</a><a name="3376-3f"></a></span>の葬式に参列。<br />
<br />
<b>三月十四日</b><br />
○晴。暖気となる。<br />
○土取場二階家、東京火災へ保険附け居りし処、期日に至るも何等の音信もなし。依て、昨日佃氏に葉書を出せし処、本日佃氏来り、八百円の保険を附けたり。<br />
○小森方の、桜と枇杷の接木をなす。<br />
○赤間富太郎立寄る。<br />
<br />
<b>三月十五日</b><br />
○曇天。昨夜は西の風吹き荒れたるが、本日次第に凪ぎたるが、又寒くなる。<br />
○熊本の佐々綏之<span class="footnote"><a href="#3376-4" title="　佐々干城の三男、友房の甥。操の従兄弟になる。">*4</a><a name="3376-4f"></a></span>氏、佐賀に昨夜泊り、本日八田氏へ立寄り来るとて来れり。酒を飲み、暫くして帰途に就く。<br />
<br />
<b>三月十六日</b><br />
○本日は久振りに快晴の春日和。併し霜朝にて、午前は寒く、午後は稍暖だつた。<br />
○午前は髪摘みに行きしが、帰りしは午后一時頃なりし。<br />
○午後四時より、永野宅の下水浚の肥土を、南瓜・ツクネの植用として運搬。<br />
○操は、今朝八田氏方を訪ねたり。<br />
○郵便貯金より小遣用として二十円を引出せり。<br />
○後藤に、出来る丈け他に転宅することを再交渉せり。<br />
<br />
<b>三月十七日</b><br />
○曇天。雨模様なりしも、降雨に至らず持てたり。<br />
○小森氏方の柿の接木、椿の嫁接をなし〔空白ママ〕<br />
○時無大根・牛蒡の播種をなす。<br />
<br />
<b>三月十八日</b><br />
○曇天。但し暖気となる。<br />
○今朝、尚一帰宅。<br />
○里川本蔵へ返事。転居知らせに対し。<br />
○午後、裏の畠の野菜に□肥を施用。<br />
○昨日小森氏の椿の嫁接をなしたるが、本日又一鉢、椿の嫁接をなす。<br />
○本日は彼岸入りにて、安国寺<span class="footnote"><a href="#3376-5" title="　曹洞宗・太湖山安国寺。福岡市中央区天神三丁目。石井家の菩提寺。">*5</a><a name="3376-5f"></a></span>より御斎の案内あり。操、五十銭の御斎半料を包みて、椿・黄梅の花を持ち、寺参りをなし、夫より人ノ道の花生けの方に廻る。<br />
<br />
<b>三月十九日</b><br />
○天気晴朗なるも、北風ありて寒し。<br />
○法文学部<span class="footnote"><a href="#3376-6" title="　九州帝国大学法文学部。">*6</a><a name="3376-6f"></a></span>に宮崎高農の入学試験せりとて、午前七時半より尚一出掛け、午后六時頃帰宅せり。<br />
○鳥飼八田氏の処に忌中見舞に行けり。花を持参して。<br />
○林哲夫氏に、飛行機の墜落災難の見舞状。<br />
<br />
<b>三月二十日</b><br />
○今朝来小雨。午前は寒かりしが、午後は稍暖気となる。<br />
○午後東公園に行き、千代町に立寄る。<br />
○平山は、廿五日に都合致す可く申出。<br />
○和田には、廿五日に来るから、二月に十一円出て居るが、入れ増しが出来ざれば、不足の一円なりと入るゝ様に云へり。又三月分は、末日に来るから、一ヶ月分と入れ増しを命じ置けり。<br />
○おことと、明日は若杉<span class="footnote"><a href="#3376-7" title="　現・篠栗町大字若杉。豊吉の実家石井坊があり、裏手に墓地があった。">*7</a><a name="3376-7f"></a></span>へ彼岸の墓参することを約束。<br />
○尚一は、本日も法〔文〕学部に宮崎高農の入学試験の加勢に行けり。小早川氏は直ぐ帰校せる由し。<ul class="footnote"><a name="3376-1"></a><li><a href="#3376-1f">注1</a>　葮竹（だんちく）。イネ科の植物。豊吉は稲の研究が専門だったらしい。現役を退いてからも、大きなポットで稲を栽培していたという。葮竹もそうして栽培した内の一つだったのだろうか。私の子供の頃、祖父はすでに亡くなっていたが、庭に温室があったのは覚えている。</li><a name="3376-2"></a><li><a href="#3376-2f">注2</a>　黒田家の別邸。二月八日の注に同じ。</li><a name="3376-3"></a><li><a href="#3376-3f">注3</a>　浄土宗鎮西派。福岡市博多区中呉服町。</li><a name="3376-4"></a><li><a href="#3376-4f">注4</a>　佐々干城の三男、友房の甥。操の従兄弟になる。</li><a name="3376-5"></a><li><a href="#3376-5f">注5</a>　曹洞宗・太湖山安国寺。福岡市中央区天神三丁目。石井家の菩提寺。</li><a name="3376-6"></a><li><a href="#3376-6f">注6</a>　九州帝国大学法文学部。</li><a name="3376-7"></a><li><a href="#3376-7f">注7</a>　現・篠栗町大字若杉。豊吉の実家石井坊があり、裏手に墓地があった。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3376</comments>
 <pubDate>Tue, 22 Aug 2006 22:53:59 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』　（１）]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3375</link>
<description><![CDATA[<b>吉田俊男著『天下之怪傑　頭山満』</b><br />
<br />
奥付：著者吉田俊男、発行所成功雑誌社（東京市本郷区弓町壱丁目十一番地）、明治四十五年六月十八日発行<br />
<br />
　　　　目　　次<br />
<br />
　　<b>緒論</b><br />
　　　頭山満は何者？<br />
<b>幼年時代</b><br />
　（一）<b>頭山満の生立</b><br />
　　　生家並に誕生<br />
　　　父母の性格<br />
　　　七歳桜田水士伝を講ず<br />
　　　頭山満諷諭的の悪口<br />
　　　頭山満と軍談物<br />
　　　幼時の性格<br />
　　　十一歳溺死せんとする友を助く<br />
　（二）<b>頭山満の勉学</b><br />
　　　瀧田塾手習のお稽古<br />
　　　亀井塾漢学の研究<br />
　　　怪傑頭山満と女丈夫高場乱<br />
　　　頭山満と天満宮<br />
　　　性格の一変<br />
<b>少年時代</b><br />
　（三）<b>頭山満母家の相続</b><br />
　　　深夜離床「芋売り」の真似<br />
　　　頭山満下駄屋の店番<br />
　　　頭山満の変装<br />
　　　頭山満の仙人気取り<br />
　　　心胆練磨体力養成<br />
<b>青年時代</b><br />
　（四）<b>頭山満の公生涯</b><br />
　　　頭山満の鬼征伐<br />
　　　抂志社の設立<br />
　　　入獄<br />
　　　放免<br />
　　　向陽義塾の設立<br />
　　　頭山満と自由民権<br />
　　　玄洋社の組織<br />
　　　諸国漫遊<br />
　　　頭山満遊女屋を素見す<br />
　　　カステーラ食べて茶代十両<br />
　　　頭山満と西郷南洲<br />
　　　頭山満と洗心洞剳記<br />
<b>中年時代</b><br />
　（五）<b>頭山満生活一変</b><br />
　　　頭山満と安場保和<br />
　　　頭山満の鉱山買収<br />
　　　頭山満と西郷兄弟<br />
　　　西郷隆盛と大塩平八郎<br />
　　　頭山満の西郷従道性格論<br />
　　　西郷従道の台湾征伐<br />
　　　西郷従道と大隈重信<br />
　　　従道侯と樺山大将<br />
　　　頭山満と虎列拉病<br />
　　　医官の見損ひ<br />
　（六）<b>頭山満の東上</b><br />
　　　頭山満と条約改正<br />
　　　頭山満と人相観<br />
　　　頭山満の貧乏世帯<br />
　　　頭山満と赤羽四郎<br />
　　　頭山満の道楽始め<br />
　　　頭山満と芸妓遊び<br />
　　　頭山満待合に嫌がらる<br />
　（七）<b>頭山満の待合籠城</b><br />
　　　頭山満と豪奢の宿陣浜の家<br />
　　　浜の家女将の経歴<br />
　　　頭山満の茶代政略<br />
　　　頭山満女将に借金<br />
　　　頭山満の行衛不明<br />
　　　頭山満の再現<br />
　　　勿驚一年半の籠城費一万五千両<br />
　　　自由党壮士と松方内閣<br />
　　　頭山満と松方総理の会見<br />
　　　玄洋社壮士の東上<br />
　　　頭山満条約改正の不利を松方正義に説く<br />
　（八）<b>大隈伯霞ヶ関爆弾事件</b><br />
　　　大隈重信と一怪漢<br />
　　　怪漢大隈伯を要撃す<br />
　　　怪漢の自刃志士の標本<br />
　（九）<b>怪漢来島恒喜の性行経歴</b><br />
　　　金玉均の来島人物評<br />
　（十）<b>頭山満と来島恒喜</b><br />
　　　頭山満部下の危難を救ふ<br />
　　　井上馨と来島恒喜<br />
　（十一）<b>頭山満と霞ヶ関大騒動</b><br />
　　　頭山満大阪に捕へらる<br />
　　　警部刑事の家宅捜索<br />
　　　頭山満大切の手提鞄<br />
　　　警部の尋問頭山の答解<br />
　　　頭山満の奇略警部を驚かす<br />
　　　艶書と春画で無罪放免<br />
　　　密偵頭山の動静を窺ふ<br />
　（十二）<b>頭山満恋物語</b><br />
　　　吉原の花魁名は「かるも」<br />
　　　頭山満と茶屋女将の賭事<br />
　　　深夜新造の泣声<br />
　　　初会の新造に三十両<br />
　　　頭山満花魁の寝物語<br />
　　　頭山満身受けの相談<br />
　　　頭山満賭事の大勝<br />
　　　頭山満かるもの夫婦気取り<br />
　　　花魁かるもの焦れ死<br />
　　　頭山満の回向供養<br />
　（十三）<b>頭山満と国会開設</b><br />
　　　松方正義の選挙干渉内閣<br />
　　　頭山満松方侯爵を訪ふ<br />
　（十四）<b>頭山満と国民協会</b><br />
　（十五）<b>頭山満夕張炭山の買収</b><br />
　　　頭山満と金子元三郎<br />
　（十六）<b>怪傑頭山満対洗髪おつま恋物語</b><br />
　　　おつまの履歴<br />
　　　おつまの自白「頭さま」は大切の大切の旦那様<br />
　　　伊藤の御前のお焼餅<br />
　　　おつま羽左エ門の情事<br />
　　　「頭さま」はハツと一声髪の毛をプツツリ<br />
　　　頭山満は毛虫よりも間男が嫌ひぢや<br />
　（十七）<b>頭山満の信濃屋生活</b><br />
　　　頭山満の奇計高利貸を走らす<br />
　　　着物を与へて真裸体<br />
　　　頭山満と副島種臣<br />
　（十八）<b>怪傑頭山満対亡命客金玉均</b><br />
　　　頭山満金に五百両を恵む<br />
　　　金玉均悪魔に導かれて上海に誘出せらる<br />
　　　頭山の忠言金の耳に逆ふ<br />
　　　頭山満金玉均最後の訣別<br />
　　　頭山満夢に金玉均の霊と語る　　　　　　　　　<br />
　（十九）<b>頭山満と日清戦争</b><br />
　　　頭山満と快男子荒尾精<br />
　　　頭山満壮士十七名を義軍に投ず<br />
　（二十）<b>頭山満と在野党大連合内閣</b><br />
　　　頭山満と大隈伯の会見<br />
　　　頭山満大隈伯を歎賞す<br />
　（廿一）<b>頭山満と政友内閣</b><br />
　　　頭山満と星亨<br />
　　　星亨と大井憲太郎<br />
　（廿二）<b>頭山満と青木周蔵</b><br />
　　　頭山満の夢物語<br />
　（廿三）<b>頭山満と伊藤博文公</b><br />
　（廿四）<b>頭山満夕張炭山の譲渡</b><br />
　（廿五）<b>頭山満と対露同志会</b><br />
　（廿六）<b>頭山満相場に失敗す</b><br />
　　　平岡浩太郎の頭山人物評<br />
　（廿七）<b>著者の頭山満人物評</b><br />
　　　吁頭山満は戦国的人物か<br />
　　　酔覚めの水下戸知らず<br />
　（廿八）<b>頭山満病床に臥す</b><br />
　　　怪傑の現代青年訓<br />
　　　著者の神願怪傑の平癒<br />
　（廿九）<b>頭山満の風流</b><br />
　（三十）<b>頭山満と囲碁</b><br />
　　　見物初段<br />
　　　頭山対著者の碁譜<br />
　　　頭山満の天狗征伐<br />
　　　頭山満の好敵手<br />
　　　頭山満の赤羽四郎にわざまけをなす<br />
　　　頭山満百円束を碁盤屋に投ぐ<br />
　（三十一）<b>頭山満の嗜好</b><br />
　　　甘党の旗頭<br />
　　　頭山満の断食療法<br />
　（三十二）<b>頭山の気立て</b><br />
　　　金を与へて金魚を助く<br />
　（三十三）<b>頭山満の家庭</b><br />
　　　住居の変転<br />
　　　頭山満応対振り<br />
　　　頭山満の家族―愛猫玉ちやん<br />
　　　頭山夫人の性格<br />
　　　頭山満雲右衛門を困らす<br />
　（三十四）<b>怪傑頭山満と九州炭鉱王平岡浩太郎</b><br />
　　　頭山平岡人物対較評<br />
　（三十五）<b>頭山満と浪人会</b><br />
　　　東京市補欠選挙と理想候補者<br />
　　　頭山満古島一雄を候補に推薦す<br />
　　　無名の老翁十円束を選挙事務所に投ぐ<br />
　　　理想候補大多数にて当選す<br />
<b>老年時代</b><br />
　（三十六）<b>頭山満と中清革命</b>（其一）<br />
　　　頭山満の渡清<br />
　　　頭山満の消息並に革命談<br />
　（三十七）<b>頭山満と中清革命</b>（其二）<br />
　　　頭山満渡清の目的<br />
　　　孫逸仙黄興の怪傑訪問<br />
　　　頭山満犬養毅寺尾享の会合<br />
　　　頭山満孫逸仙の弱点を看破す<br />
　　　頭山寺尾の黎元洪慰問<br />
　　　寺尾副島両博士の顧問の辞職<br />
　　　頭山満の朝鮮行―李大王に謁見<br />
　　　浪人渡清の影響<br />
　（三十八）<b>頭山満福岡帰省</b><br />
　　　頭山満と総選挙<br />
　　　頭山満の帰京]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3375</comments>
 <pubDate>Mon, 21 Aug 2006 00:24:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年３月１日～１０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3374</link>
<description><![CDATA[<b>三月一日</b><br />
○曇天。時々降雪あり。北西の風強く、甚だ寒し。<br />
○岩田〔屋〕、集金に来れり。明日か明後日、持参す可く話せり。<br />
<br />
<b>三月二日</b><br />
○曇天。朝来雪降り。昨夜来引続非常に寒し。<br />
　　　昨夜の温度は〇・六度。<br />
○郵便貯金より六十円引出し、岩田屋へ四二・〇七銭、公園借地料十六円払。<br />
○上村金次郎長男死去の通知あり。一円の小為替封入、悔状を出す。普通にて。<br />
○中村・小森氏、夜分、博覧会協賛会寄附金の件に関し、話しに来る。<br />
<br />
<b>三月三日</b><br />
○曇天にして寒し。併し、午后よりは幾分日照もあり、幾分寒気も緩和せり。<br />
○次の葉書を出す。<br />
　一、佐々木正太氏へ、迎春梅とジヤジヤ植附の注意の件。<br />
　二、貸家紹介所へ、永野潔に貸借の契約が出来た件。<br />
　三、吉松徳兵衛に台束運搬の件。<br />
○中村公達氏・宗像氏と、浦野氏と協賛会寄附金の件に就き交渉の模様を話す為めに、小森君方に来る様に告げに来る。<br />
<br />
<b>三月四日</b><br />
○曇天。時々降雪あり。甚だ寒し。<br />
○午前東公園行。平山弥四郎は、三、四日中に他より入る金ありと云ふから、其内に来ると云ふ約束。<br />
○長谷川は留守だから、間借りの者へ言附けせり。<br />
○和田には、十二日に来るから間違なき様に、せいに申含む。<br />
○桧室は留守だから、和田に、来たことを言附、依頼。<br />
○赤間富太郎来りたれば、黒瀬信太郎より返事し来れる、当分中止の旨の葉書を示したり。<br />
○八田氏より、寸志として松屋の商品券（砂糖七斤）を贈り来れり。依て、操、松屋に行き、赤砂糖八斤を求め帰れり。<br />
<br />
<b>三月五日</b><br />
○今朝より午前は相変らず寒かりしが、午後よりは晴れて、陽光照り出て、余程緩和せり。<br />
○昨夜、赤間新太郎氏の負傷の事を聞きたれば、溝口病院へ見舞に行き、新太郎の細君や新太郎の姉に逢へり。<br />
○山田四郎の処に行き、浜崎の家賃取立を頼まんとせしも、留守の為め、柳原に来ることを話したり。<br />
○本日、六本松豆腐屋のババさん来り、後藤に早く家を空くる様に話し行けり。<br />
○藤巻雪生<span class="footnote"><a href="#3374-1" title="　『現代農業』の前身『農政研究』（大日本農政学会の機関誌）に執筆しているところから見て、同じく農事・農政関係を歩んできた豊吉の同僚もしくは同窓であろうか。">*1</a><a name="3374-1f"></a></span>の歓迎会には、出席せざる旨回答せり。<br />
○瀬戸が病気の為め、金借りに行けずに居たから、本日尋ねし処、昨日行つ〔た〕まゝ未だ帰らずと返事せり。<br />
<br />
<b>三月六日</b><br />
○午前曇天にて甚だ寒かりしが、午後は日も射し、余程暖気となれり。<br />
○山田、午前来る。依て浜崎の七十一円の家賃未納を、借用証書に認めたる分を渡し、取立を依頼せり。尚ほ、彼が居所に就ては、話しもし、則書類にも認めて渡したり。<br />
○長谷川に、三日の約束を実行せざりしことを責め、折返へし支払期日を請求し、且つ三月末日迄の事を、約束を実行する様に照会せり。<br />
<br />
<b>三月七日</b><br />
○曇天なるが、本日は稍暖し。<br />
○上杉直幹より葉書あり。報古会の会費五人分の集金せり。<br />
○瀬戸の家内に、家賃従来の如く入れざるに於ては、断るの外なしと云へり。然る処、今晩帰り遅くば、明朝主人を御宅に上げ申す可くとの話。<br />
<br />
<b>三月八日</b><br />
○曇天なるが、本日は余程寒気が緩和せり。<br />
○午後、平野・美和の会費集金に行けり。<br />
○帰途、久永氏方に立寄りたりしに、佐々倉来て居たから、上つて暫く話したり。<br />
<br />
<b>三月九日</b><br />
○曇天。時々降雪あり。しかも北風昨夜来稍強く、寒し。<br />
○赤間新太郎を、苹果〔りんご〕と蜜柑一籠（九十七銭）を持ちて、本日二回目の見舞に行きしに、已に昨夜午前二時死去せる由しにて、多数の朋友等来て居て、春日原の自宅に引き上げの準備中なり。細君と姉君に悔みを述べ、果実は姉子に渡し、直ぐに引返したり。<br />
○瀬戸は、昨日より金策の為め唐津地方に行きし由しにて、今明日には晩くとも帰宅す可しとの事なれば、明日中に話しを決定す可く、細君に話し置きて〔ママ〕たり。<br />
○北村には、出来る丈けにても入るゝ様に、留守の細君に話したり。<br />
<br />
<b>三月十日</b><br />
○曇天。時々晴れ。寒かりしが、今日は稍凌ぎ易き方なり。<br />
○午後南天を東側に植へ、実の成りたるものを南側に植へ換へたり。<ul class="footnote"><a name="3374-1"></a><li><a href="#3374-1f">注1</a>　『現代農業』の前身『農政研究』（大日本農政学会の機関誌）に執筆しているところから見て、同じく農事・農政関係を歩んできた豊吉の同僚もしくは同窓であろうか。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3374</comments>
 <pubDate>Sun, 20 Aug 2006 16:59:02 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年２月２１日～２９日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3373</link>
<description><![CDATA[◆二・二六事件が起きる。日記は「非常ボツ発」と書くだけで、何事もなかったかのように、たんたんと日常が綴られる。豊吉は現役時、高等官三等（奏任官）―武官で言えば大佐に相当するという―であり、決して無関心ではいられなかったはずだ。ただ、日記に書き留めなかったというだけなのであろう。<br />
　　　★　　　　　　　　　★<br />
<br />
<b>二月二十一日</b><br />
○久振りに快晴の上天気。<br />
○本日は八田正造氏の葬儀に付、午前九時半頃より鳥飼に行、受附の役をなし、午后四時の真福寺の葬儀を終へて、午后五時半帰宅。<br />
<br />
<b>二月二十二日</b><br />
○曇天。午後雨となる。<br />
○鶴崎穏に、二円の香典を書留にて送る。<br />
○座敷の便所を汲取り、野菜・果樹・土当帰・牡丹等に人糞を施す。<br />
○黒瀬信太郎、安川氏の葬式に来たとて、一寸晩方尋ね来れり。<br />
○長谷川は二十日家賃支払の約束なるも、本日も持参せず。<br />
○ブリツキ屋、金取りに来るも、屋根張りの仕訳けをすることを命じ置くと同時に、吉塚の仕事を見て、自分が金を持ち行き、支払ふ可く話したり。<br />
<br />
<b>二月二十三日</b><br />
○昨夜来降雪、白く積もる。朝来少し風も出で、漸次雪は解くる。<br />
○赤間富次郎へ、廿六日は差支なく、御出でを待つ旨返事。<br />
○東公園へ集金。長谷川は本月三日に十円、三月末に一ヶ月半入金の約束。<br />
　平山は二月末に入金出来る筈。和田には、月末に行くから留守に分かる様に、而して一ヶ月分以上入れ越しの事を申含めたり。<br />
○子裙<span class="footnote"><a href="#3373-1" title="　正しくは小褄（こつま）。八田正造の妻。">*1</a><a name="3373-1f"></a></span>氏外、お栄さん其他、御揃にて礼に見へたり。<br />
<br />
<b>二月二十四日</b><br />
○昨夜来雨。<br />
○貸家紹介所へ、前の平家、紹介方依頼状を出す。<br />
○午後、前平家の床板の直しと、壁の塗り直しをなす。<br />
○後藤へ、二月分の家賃を一ヶ月入るゝか、然らざれば家を空くる様に話せり。何れにか致す可しと返事せり。<br />
○本日、瀬戸と北村にも家賃の催促せり。<br />
<br />
<b>二月二十五日</b><br />
○曇天。寒し。<br />
○八田氏方より、正造氏の一七日の法事に付、御斎を致し上ぐとの案内あり。依て饅頭百ヶを送らしめ、本日午前十時頃より、操と慶子を自分が代りに遣はしたり。<br />
<br />
<b>二月二十六日</b><br />
○昨夜より本日に掛け降雪あり。但し、正午には已に解け、時に小雨を見る。<br />
○赤間富太郎氏来り、第四女の縁辺の事に就き依頼あり。<br />
○赤間の娘の事に付き、黒瀬新太郎へ照会。見合して、可否を至急に自分迄返事する様に。<br />
○本日午前五時、東京に非常ボツ発。<br />
<br />
<b>二月二十七日</b><br />
○本日は半晴なるも、暖気なり。久振りに春らしく感ぜらる。<br />
○旧冬より中々の寒さ続きの為め、外の仕事出来ず。雑草の生へるに任すの状なりしが、本日は本年初めての春らしくなりたれば、畑仕事や、菊の用土の落葉の積み換へをなす。<br />
<br />
<b>二月二十八日</b><br />
○昨夜より雨。本日は概ね曇天。<br />
○郵便局より六十五円引出、尚一へ四十五円送金。二十円は小遣として手元へ。<br />
○明日久原にて、東助氏の取上げと、姉の一周忌法事するに付、饅頭五ツ掛け二十円注文し、一円を渡す。<br />
○門前の平家は、東邦電力会社<span class="footnote"><a href="#3373-2" title="　現・九州電力の前身の一つ。路面電車も営業しており、こちらは西日本鉄道に引き継がれた。">*2</a><a name="3373-2f"></a></span>運転手永野なるものに、明日入込の筈にて約束。<br />
　　　家賃十円　前家賃・廿五日支払<br />
　　　ポンプの故障は先方持<br />
　　　証人は田鍋弁護士の伯母と松田<br />
<br />
<b>二月二十九日</b><br />
○寒く、北風あり。雪散らつく。<br />
○久原東介兄の七日七日の取上げと、姉の一周忌法事を兼ねて、御斎の案内あり。午前十時過家を出て、十二時前久原着。仏前に饅頭五ヶ掛二十ヶ（一円）を進呈、法事に列し、午后三時半和尚<span class="footnote"><a href="#3373-3" title="　正興山勝立寺。福岡市中央区天神四丁目。">*3</a><a name="3373-3f"></a></span>送り自働車に便乗し、県庁<span class="footnote"><a href="#3373-4" title="　東公園に移転する前で、現在のアクロス福岡と天神中央公園の位置にあった。">*4</a><a name="3373-4f"></a></span>前にて下りて、自宅に帰りしは四時過なりし。土産として持参せるは、引附の茶器・生菓子一箱・饅頭・料理等、一提の荷物なりし。<br />
○本日、電車の運転士永野氏、門前の平家に引越す。<ul class="footnote"><a name="3373-1"></a><li><a href="#3373-1f">注1</a>　正しくは小褄（こつま）。八田正造の妻。</li><a name="3373-2"></a><li><a href="#3373-2f">注2</a>　現・九州電力の前身の一つ。路面電車も営業しており、こちらは西日本鉄道に引き継がれた。</li><a name="3373-3"></a><li><a href="#3373-3f">注3</a>　正興山勝立寺。福岡市中央区天神四丁目。</li><a name="3373-4"></a><li><a href="#3373-4f">注4</a>　東公園に移転する前で、現在のアクロス福岡と天神中央公園の位置にあった。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3373</comments>
 <pubDate>Sat, 19 Aug 2006 14:49:42 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[木村義治編著『現代偉人の言行』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3372</link>
<description><![CDATA[<b>木村義治編著『現代偉人の言行』</b><br />
<br />
奥付：著作兼発行者木村義治、発行所普光社（東京市神田区小川町一番地）、明治四十二年十月十七日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>（廿九）頭山氏の紐環恵与</b><br />
　頭山満氏と云へば、直ちに彼の福岡の玄洋社を聯想する、玄洋社を知るものは又必ず当年の健児を聯想するであらう、世人は頭山氏を以て一個東洋流の豪傑となし、頭脳粗笨で、思慮雑駁で、現世紀には無用の観を持つであらうが、其れは大だ思はざるの極である。凡て豪傑とか偉人とか云はるゝものは、事あるの日も事なきの時も一様に立働いて、赫々の光明を放つといふものでなく、寧ろ平日は死灰の如く鋒鋩を収めて居ても、サテ一朝事ある日には、蹶然として起つのである。二十年前はいざ知らず、今日に於ては玄洋社なる称呼は、既に世人の記憶より取り去られて、風馬牛視さるゝの観あれど、日清戦争より北清事件、殊に日露の役に於ける、該社健児の直接間接に国家に尽せる功績は、如何なりしぞ。世人は金勲（注　金鵄勲章）の燦然たるものゝみを見るも、其無官の健児団が、燃ゆるが如き愛国の至情を発揮して、一般軍隊にも遜らぬ勲績を立てたるを解せぬものが多い様だ。而して此健児団は、多く玄洋社の出身に係るのである、此の如き隠れたる愛国の一雄団を統率するは何人であらうか。茲に至りて頭山満氏の名は事実の上から喚起されるのである。若し斯る一種の崇敬すべき国士的団体を統率して、国家のために人知れぬ苦心を尽しつゝある偉物を捉へて、単に東洋流の豪傑と一笑し去るならば、吾人は甘んじて東洋流の豪傑を歓迎するのである。<br />
<br />
　頭山氏の後進に対する世話の親切なることは、一般に隠れもない事実である、が彼は一擲万金殆んど弊履を棄つるが如き寛闊の量ある代りに、時としては一金の微も其嚢底に宿らぬこともある。肥馬軽裘にあたりを払ふて、食膳侍妾に贅を尽すものと雖、後進を世話して成業に至らしむるものは容易にあらぬ。見よ汚らはしき醜婦の空涙に財嚢を絞る痴漢は多し、而かも秀才を養ふて国家他日の用材たらしむるものは寂として暁星の観あるを免れざるにあらずや。是れ吾人頭山氏が紐環恵与の一美談を説く所以である。<br />
<br />
　何時の頃であつたか、年月は記臆せねど、氏の玄関に蓬髪弊袴の一青年来りて刺を通じた、青年は氏と同県人ではあるが、此時までは半面の識も無つた。普通のものなら、縁故もなく、紹介も有たぬものに会見せぬものが多い、然し氏は取次をして快く居間に通らしめた。青年は極めて真率の性であつたものと見え憶する色もなく、<br />
<br />
「僕は福岡県何郡の何某でありますが、当月は学校の月謝二円を得るに途なく、納附の期限は切迫して困りました、で誠に相済まぬが、一時御貸し下されぬか」<br />
<br />
と、来訪の理由を明晰に陳べて依頼に及んだ。スルト氏は「ソーか好し」と云いしまゝ、別に何事も問はず、茶菓出して饗応し、書生は気慨が無ければならぬ、又教化は総て精神的でなければならぬなど語り聞かせて、金銭のことには一語も渉らなかつた、軈て青年の辞し去らうとした時、徐ろに自己の着せる羽織紐を環のまゝ取つて青年に与へ、「之れで間に合せよ」と唯一言云ふたのみで、何事も他に云はなかつた、で青年もサテは先生も、一寸金が無つたものと頷いて、帰りて其品を神田区今川小路の某所に典物とした。漸（や）つと弐円位は借（ママ）すであらうと思ひの外、別に金額も云はないに八円貸して呉れた、青年もサテは金環に値打があつたのかと合点し、其内から弐円だけ引去り、残金六円を懐にして、直ちに氏に其事情を告げた、スルト氏は莞爾として<br />
<br />
「僅かに弐円の金も実は今朝手元に無かつたのである、幸ひ余計に出来たら其れは学資の中に加へて置け、俺は別に要らぬ、帰りに牛でも食べて元気を付くるも宜からう」<br />
<br />
と云ふたばかり、其儘呉れてしまつたそうだ。僅々八円、金額としては何でもない、然し一金も無かつた時の彼としては、百金にも勝るではないか、其呉れた工合からすれば、若し癖（僻）んだ眼から見ると、恩を着せて豪（えら）さを衒ふた処置だと云ふかも知らんが、却々彼れにはソンナ陋劣な念は微塵もあらぬ。氏を知る者より解せば青年の真率を看破して、其窮を憐むだと云ふに違いない、之れを或る子爵の新華族が貸与した学費を卒業後に計算せしめて、漸く新家庭を作り創めた妻君を泣かしめたに比して如何であらうか。南北満洲は勿論のこと、西比利亜の内地、蒙古の要処、或は雑貨商に、或は苦力頭に、薬種の行商、牧畜の牧師、其姿こそ異れ、其業こそ別なれ、一種の炯眼を放つて、時に言外の妙ある報を齎らせるもの、果して如何なる団体の下に属するものであらうか、<br />
<br />
氏は又平素人に対して<br />
「如何なる人間でも長所あれば必ず之れに伴ふ短所もある、玲瓏透明の珠玉も、仔細に検覈すれば、必ず何れかに些の瑕を留めぬはあるまい、些少の瑕のために珠玉を捨つるは愚の極だ、或一部の欠点のために人間一個を捨つる如きは、人を容るゝの道でない、寛容の量ありて、始めて大に為すのである、併し雅量のある偉物は段々と亡くなる、世の中の行末は想ひやられる」<br />
<br />
と、憤慨してるさうだ。此一話に依りても、彼れの素地を解し得らるゝでないか、平浩（注　平岡浩太郎）の後には平浩なく、頭山の後にも又頭山あるやなきやを恐れる。天台道士（注　杉浦重剛）の有する、故氷川老伯（注　勝海舟）の題した不言帖には、満氏の淋漓たる墨痕を其一頁に留めてある、語を寄す玄洋社の統領、無声の傑物、永遠に夫れ健全なれ。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3372</comments>
 <pubDate>Fri, 18 Aug 2006 17:02:02 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[有耶無耶山人著『近代人物側面観』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3371</link>
<description><![CDATA[<b>有耶無耶山人著『近代人物側面観』</b><br />
<br />
奥付：編輯兼発行者新美益知、発行所読売新聞日就社（東京市京橋区銀座一丁目一番地）、明治四十一年四月一日発行。<br />
<br />
<br />
「佐々克堂」の内、<br />
<br />
　　　　<b>◎佐々の頭山評、頭山の佐々評</b><br />
●彼の座談は却々（なかなか）旨いものであつた、彼の猫撫声には誰も一旦惹懸（ひっか）かる、けれども程なく嫌気がさす、是といふも余りに彼が万事に重きを置くが為に、天真を埋却し去るからである、詰り克堂が長所の短所は何かと言へば、思慮周密、万事に行渡り過て、鷹揚を欠いたのである。<br />
<br />
●克堂ある時頭山立雲に対（むこ）うて、僕は敵を殺さねばならない場合には、必ずや死に切る所を見届けなければ反顧（ふりむか）ないが、君は一ト太刀浴せ掛けたばかりで、敵が死なうが死ぬまいが、其麼（そんな）ことには頓着なく反顧くから困ると大（おおい）に呟いたさうぢやが、この一言は慥に彼が性格を自白して居る。<br />
<br />
●頭山立雲疎髯を撫て謂ふ、刀剣に喩へて見ると、佐々は在銘ぢやが、俺は無銘ぢやと、恁麼（いか）にも其の通りぢや、佐々の切味は、その程度が世間に知れ渡つて居た、謂はゞ金看板の掲（あが）つてある道場の中に、塚原卜伝や宮本武蔵の姿を見る気遣は、先づ先づないのである、佐々何でも好いわいなと、飛び跳る虎の尾は、ちよつと捉（とら）まへて遣らうかと、物数奇な心も起るが、睡れる獅子の髭は、ちよつと牽くに牽き兼るやうだ。<br />
<br />
　　　　<b>◎紫溟会と玄洋社</b><br />
●事の序（ついで）に憶ひ出したが、佐々の紫溟会と頭山の玄洋社を結合（むすびつ）けたのは、平戸の浦敬一が渡清する前に献立てた置土産のやうに聞いて居る、浦は支那の何処で死んだやら、行衛は今以て不明ぢやが、浦が生て居て、克堂が事毎（ことごと）に藩閥の爪牙（そうが）と成つたやうな、形跡あるを見たならば、浦の怒髪天を衝たかも知れないのである、浦のやうな真の猛者は、今日一個（ひとり）も見当らない、尤も我輩が折節途上に見る猛者は、肩を聳かして天を看る、その眼が虚呂（きょろ）ついて、その脚底（あしもと）がひよろひよろ、第一その気が飢て居るやうだ、是といふも道義の観念が打込まれて無いからである、什麼（どう）だ諸君、有耶無耶は暗雲（やみくも）に悪口を叩くやうだが、今はこの頭を叩いて呉れる剛直な友達が幾（ほと）んど無いのである、人間焉（これ）より大なる不幸はない、善を責むる友の無いやうでは、人間も国家も先づ先づ下り坂、足を挫かぬ御用心が肝要で御座る。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3371</comments>
 <pubDate>Fri, 18 Aug 2006 14:43:16 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[中江篤介著『一年有半』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3370</link>
<description><![CDATA[<b>中江篤介著『一年有半』</b><br />
<br />
奥付： （著者なし）発兌元博文館（東京市日本橋区本町三丁目）、明治三十四年九月三日発行。<br />
<br />
<br />
　○頭山満君、大人長者の風有り、且つ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言はずして而して知れり、蓋し機智を朴実に寓する者と謂ふ可し、]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3370</comments>
 <pubDate>Fri, 18 Aug 2006 13:13:21 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[東台隠士著『名士の交際術』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3369</link>
<description><![CDATA[<b>東台隠士著『名士の交際術』</b><br />
<br />
<img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20060909-toyama2.jpg" width="250" height="415" alt="「頭山満と其邸宅」" title="「頭山満と其邸宅」" /><br />
<br />
奥付：著作者東台隠士、発兌元大学館（東京市神田区鍛冶町十七番地）、明治三十五年三月廿三日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>◎頭山満</b><br />
　孰れの世、孰れの時代に於ても、大物の野に隠くるあるは、史上に散見する所なり。頭山満の如き、亦野に隠れたる大物にあらずや。彼れ平生自から持する、愚人の如く、人情免かれざる喜怒哀楽の如き、絶へて其の脳裏になきものゝ如く、其の沈着にして鷹揚なる態度は、不動山の如く、真とに泰然として、山岳の前に崩るゝも知らざるの風あり。而かも胸中天下を籠蓋するの智略度量ありて存す。大賢は愚に似たりとは、夫れ満の如きを謂ふ乎。宜なる哉。頭山一呼すれば三千の子弟翕然として□の如くに嚮応するをや。頭山は九州福岡の人。夙とに天下に其の名を知らるゝも、未だ曾て□仕せしことあるなく、曾ては玄洋社の社長となりて弟子を撫育し、或は東京に出でゝ門を閉ぢて閑臥す。一たび福岡に帰省するや、老弱（若）男女先きを争ふて之を歓迎して、只後れざらんことを畏る。頭山なる者、何の魔術ありて声望如斯に夫れ盛なるや。徳なる哉、徳なる哉。彼は天才の徳ある大物たり。<br />
<div style="text-align: center">＊　　＊　　＊　　＊</div><br />
　筑前には名物少なからず。中にも頭山満は筑前の名物中の名物と云ふのであらう。否な頭山ほどの男を筑前一国の名物と云ふは少し気の毒であらうか。併し頭山の生国は筑前であるから、筑前名物の一つに加へるも別に異論はあるまい。今でこそ頭山と云へば天下有数の人物に加へらるゝのであるが、小さい時は福岡の町で蜻蛉を捕つたり、竹馬に乗つたりして、悪戯を演じた腕白小僧であつたのだ。<br />
<br />
　誰もと同じことに、腕白小僧であつた頭山と云ふ男が、今では頭山と云ふ名を聞ては啼く児も止めると云ふやうになつたのは不思議である。其の頭山とはどんな人であらうか。此の豪傑の応接間を叙する前に、一寸其の平生の行ひから人と為りを詮索して見るも、亦一興ではあるまいか。<br />
<br />
　ズツト遡りて十年程前には、福岡の玄洋社の社長をして居つて、傍ら実業でもなければ虚業でもないと云ふ風で、何と云ふ事はなしに澄然（とうぜん）として構へ込んで居つた。玄洋社と云へば読書算術を教へる私塾の様にも聞へるが、ソンナものではない。唯多くの血気盛んな九州男児が寄りて談話（はなし）をやり、時には撃剣などをやる、一種の倶楽部のやうな仕組であつたので、其処の社長であるから、頭山は別に書物を教へるでもなければ、又書物を子弟に講釈して聞かす様なケチナ頭山ではない。云はゞ其処に集まつて来る若者の頭分とでも云ふのであらう。タツタ夫れだけであるのに、妙に頭山の感化力と云ふものは恐ろしいもので、其の若者の中には頭山の為めなら命の二ツヤ三ツを投げ出す者は幾人居るか知れないとは、実に不思議の話しである。門下の書生、即ち部下の乾児（こぶん）に、親方の為に命をほうり出して少しも惜まぬと云ふ連中が居るから溜らない。東京に出て来ても、頭山の勢力と云ふものは又非常なものである。政党仲間に在りて、伊庭想太郎に脇腹を刺された故星亨は、其の存生中は随分沢山の乾児があつて、政治上に於ては其の勢力はたいしたもので、亨の思ふ所殆んど何事でもならざるなしと云ふ程で、人の知る如く、随分思ひ切てやり通したが、惜しいかな、彼には人の徳と云ふものが微塵もなかつたので、終に白昼公然東京市会の議事堂で無惨の最後を遂げた。頭山が若し星と同様に政治上に野心のある男であつて、彼れが獅子奮迅の勢で乗り出したなら、恐らく星亨と雖も駭奔したであらうと思はれるが、其処は流石に頭山は大智だ。折角ヤラウとすればヤレル丈けの腕を持ちながら、星の様な人物が勝手な為（まね）をなすを平気で見て澄まし込んで居る処が、頭山の頭山たる本領でもあらうか。然らば頭山たるもの、平生何をして居るのであらうかと思ふ人があるであらう。誠に此の疑問は無理はないので、頭山は我れ我れの見た所では何事をもして居らぬから面白い。さうして其の人物の茫漠たる如くに、其の家も馬鹿に大きくて、屋敷中は草茫々として生へるにまかし、庭の樹木も自然のまゝにしてある。家（うち）に居つて客でもあれば何時（いつ）までゞも話して、少しも俗事に頭を入れて居る様に思はれぬ。マアー一寸大悟徹底した禅僧と云ふ格である。夫かと思ふと、家に居ない時は年が年中大抵待合に入浸りである。待合に入り浸りと聞かば、酒に喰（くら）ひ酔つて芸者の膝を枕に都々逸でも呻つて居るかの如く想像せられるが、決してそうでない。酒は一滴も飲まない。頭山とも謂はるゝ豪的が、酒一滴飲まぬとは如何にも調和せぬやうに思はれるが、実際一滴も口にせぬから不思議じや。然らば待合に入る必要もないじやないか。待合は芸者でも招いで大（おおい）に飲むべく備へられたる機関ではあるまいか、酒も飲み得ぬ者が待合通ひとは平仄の合はぬ話しぢやないかと云ふ者もあるであらう。ナル程凡人は待合と聞かば、直に酒を聯想し、芸者を聯想するのが通例であらう。頭山はそんな凡人の考とはおのづから別にして居る。燕雀何ぞ鴻鵠の志を知らんやとは此処の事だらう。大物（だいぶつ）は大物で別に流儀があるから面白い。頭山は家に居ると種々（いろいろ）の奴がヤツテ来て愚にも附かぬことを饒舌（しゃべ）り散して、夫を聴聞（きか）せられるのが何より苦しいので、其の奴等を避ける為に待合に逃げて行くのであるそうな。モ一ツは大層牡丹餅が好きなので、待合の女将が拵らへて呉れる牡丹餅が如何にも味（うま）いので、夫を喰ひに出掛けるのじやげナ。待合で独りツクネンとして牡丹餅との睨み競（くらべ）も興がないと云ふので、芸者を招んで四方八方（よもやま）の雑談をヤツテ遊んで居るのである。聞て見れば不思議でも何でもない。酒と牡丹餅との差があるだけの事じや。<br />
<br />
　夫から頭山の態度はドーカと云ふに躯幹長大で、今は綺麗に剪（そ）り落して居るが、以前は上下共に立派な鬚髯（ひげ）を蓄へて居つた。顔はドツチかと云へば、長方形とでも謂（いお）うか。動作は如何にも沈着で、鷹揚で、悪（に）くらしいほど落ち附き払つて、ドツカリと坐つたら最後、矢でも鉄炮でも微駭（びく）ともせず、動かざること山の如しと云ふ有様で、喜怒もなければ哀楽もなく、泰山前に崩れ来やうが、怒濤後ろに翻つて来やうが、従容自若として声色を動かさずと云ふ趣向（おもむき）がある。夫で何も言はぬかと思へば、時々奇警で趣味のあることを吐き出すのであるが、概して口は重苦しい方で沈黙の方である。若し頭山を訪ねる者が話し上手で先方の口を開かず、術に巧みなるか、或（あるい）は種々の質問でも試みれば、決して答へぬと云ふことはないが、余り懇意でもなく、又先方の口を開かず、方便に拙なる者が頭山を訪ねたら夫れこそ可笑しい。恐らく一時間でも二時間でも、沈黙の睨み競で、調子が抜けて頗る手持無沙汰で当惑するであらう。併かし人を軽視して談話を交へぬと云ふやうな悪意は毛頭ないのだから、何となく座は白けない。一陣の春風が満ちて居るかの如くに感ぜられるのである。然らば頭山は何にも知らぬ人かと云ふに、決してそうでない。人情には深く通じ、何でも知て知て知り抜いて居つて、それで知らぬ顔をして居るのであるから、頭山を訪ねんと思ふ者は先づ談話の材料を持て行くが善い。左もないと飛んだヘマを演ずることがあるのである。<br />
<br />
　それのみならず、極めて懇意な間柄でも識つた風に自慢らしく喋々と饒舌（しゃべ）り散らすと、大いにポカされることがある。平岡浩太郎が阿米利加から帰つて来て、取り敢へず頭山を訪ねて、文明国の有様を盛に談（はな）しかけた。初のほどはフンフンで聞て居つたが、平岡余り図に乗つて話すから溜らない。先生黙つて一向に返事がない、返事のなきも道理なれ、白河夜船でスヤスヤ眠つて居つた。是には流石の平岡も鼻を折られて、今までの談弁何処へやら、這々の體で駆け出したと云ふことである。<br />
<br />
　頭山を訪ねてスグ目に着くは、玄関に狼藉たる書生下駄の多きことである。云ふまでもなく、門下の書生の物たるを知るべく、案内を請へば、武骨なる綿衣短袴の書生が傲然として出て来る。刺を通じて間もなく案内せられたる一室は、西南に開かれた十畳の座敷である。見ると一間（けん）の床には、黄色の袋に納めたる一口（ひとふり）の刀剣と三冊ばかりの和本があるのみにて、軸もなければ花瓶もない。床の前に極めて粗末な机が一脚あつて、其の上に硯箱と三本ばかり入りたる筆立てが置かれてある。主人は其の机の前に片臂を衝いて横になつて居つたが、今やヤオラ起き上りて客の顔をじろじろ眺めて居る。何となく薄気味が悪いが、何処やらニコニコした所があるやうにも思はれる。談しの緒言（いとぐち）がナイので、室の入り口の上に懸つて居る油画の額があるので、あれは誰れですかと聞くと、金玉均じやと答へたばかりで、アトは何にも語らないので、何だか調子が抜けたので、暫く黙つて煙草を喫んで居る。十分経つても黙（だん）まり、二十分経つても黙まり。仕方がないから、煙草を喫んで居ると煙りが座敷に満ちたので、先生ヌツクと立つて南の障子をサラリと開けた。見ると驚いた。庭の樹木に網を張つて大に干してある。其の干してあるものは何んであるかは、此処に書かずに置ふ。之は恐らく門下の諸豪傑の品であらう。主人は障子を開けて元の机の前にドツカと坐つたが、一向に何も語らぬから思ひ切て辞した。スルと先生、ノソリノソリ玄関まで見送つて来て。<br />
　「左様なら、又お出（い）で」<br />
<br />
※原文にない句読点を補った。また、段落初めの一字を下げ、明らかな誤植は正した。<br />
]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3369</comments>
 <pubDate>Fri, 18 Aug 2006 11:03:11 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[一寸法師編著『破顔一笑』から]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3368</link>
<description><![CDATA[<b>一寸法師編著『破顔一笑』</b><br />
<br />
奥付：発行兼著者野依秀一、発行所実業之世界社（東京市芝愛宕町三ノ一）、明治四十四年十二月廿九日発行。<br />
<br />
<br />
　　　　<b>▲朝吹英二、頭山満の屁に驚く</b><br />
　黒旋風頭山満君が、時として破天荒な痛快事を演ずる事あるのは、天下の等しく認むる所である。松方侯が大蔵大臣の時、アバタで有名な朝吹英二君が、一日侯を訪れると、応接間の長椅子に大の字に引繰りかへつて、銅鑼声を張り上げて牛の吼えるやうに義太夫をやつて居る男がある。「妙な奴だ」と朝吹氏は黙つて見て居ると、此男、義太夫の切れ目切れ目にブツブツと盛んに屁を放つて臭気一堂に満つる有様、所が其屁のヒリ方が頗る禅味を帯びて居て、少しも態（わざ）とらしくない。頓（やが）て義太夫を呻り終るとぽんぽん手を打つて給仕を呼んで「昼になつたから飯を持つて来い」と命じた。給仕は命じられたまゝに一人前の膳を運ぶと、其男は「馬鹿野郎、あそこにも一人居るぢやないか」と隅の方を頤でさす。其大胆不敵さ加減には、其昔福沢先生を刺しに行つた事のある朝吹氏も、暫時唖然として見てるより外はなかつた。其夜烏森の浜の家（や）に行つて、其事を語つて居る折柄、二階の段梯子から例の大男がノソリノソリと降りて来た。茲に始めて朝吹氏は、それが頭山満君なるを知つたといふことだ。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3368</comments>
 <pubDate>Thu, 17 Aug 2006 23:48:07 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[『石井豊吉日記』　昭和１１年２月１１日～２０日]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3367</link>
<description><![CDATA[<b>二月十一日</b><br />
○曇天にして寒し。前日来の雪、隅々にあるもの未だ消へず。<br />
○本日は紀元節にて、建国祭の式典各所に行はれ、頗る賑ふ。<br />
○岩田屋より反物持参。慶子の着物、二十三円五銭のものと、九円七十銭のもの、二枚を買ふ。<br />
○午後四時過より浜崎跡家の壁の張り紙を剥ぎ取り、壁塗りの準備をなす。<br />
<br />
<b>二月十二日</b><br />
○相変らず朝は氷結して寒いが、時々日照あり。稍善き方なり。<br />
○本日は忠之公<span class="footnote"><a href="#3367-1" title="　黒田忠之。第二代福岡藩主。">*1</a><a name="3367-1f"></a></span>の法事に付、午前十時前東長寺<span class="footnote"><a href="#3367-2" title="　福岡市博多区御供所町。">*2</a><a name="3367-2f"></a></span>に行く。已に大分の出席もありたるが、法要の初まりたるは十一時頃なりし。十二時前に終り、茶菓の接待あり。十二時過退去、公園<span class="footnote"><a href="#3367-3" title="　借家のある東公園であろう。">*3</a><a name="3367-3f"></a></span>に廻り、帰宅せるは一時過。<br />
○桧室は、二、三日中に家賃持参の旨申出づ。<br />
○操、生花の為め二時頃より出掛けたり。<br />
<br />
<b>二月十三日</b><br />
○曇天。時々日照を見、稍暖気なり。<br />
○佐々木正太氏方、大工町に悔みに行きたるも、七日の日已に味坂<span class="footnote"><a href="#3367-4" title="　現在、小郡市の内。">*4</a><a name="3367-4f"></a></span>に引き上げられたる跡なれば、空しく引返へす。<br />
○八田氏の紹介にて、太陽生命保険会社員千村なる人来る。<br />
○浜崎跡の壁の荒塗・修理をなす。<br />
<br />
<b>二月十四日</b><br />
○曇天時々日照あり。大分暖気となる。<br />
○門前の平家畳替に、平野より二人来り、三室十八枚取換へ。但し、座敷六畳二間は新規、二畳は古畳にて取換へ。<br />
○郵便貯金より小遣の為め二十円引出す。<br />
<br />
<b>二月十五日</b><br />
○久振りに本日は快晴の天気にて、且つ幾分暖気。但し、朝は大霜にて屋根は真白し。<br />
○門前の平家、壁の紙張り。<br />
○大沢幸六なるもの、小野の知らせとて家借りに来る。取引所に往来するものなり。家賃を十円に値切る。保証人は取らぬと云ふ。後日の話しに譲る。<br />
○簡易保険局員細川と云ふて、家借りに来たが、家賃を負けよと云へり。跡にて家内を見せにやると云ふて去る。<br />
<br />
<b>二月十六日</b><br />
○午前上□の晴れ。午後曇り、雨模様。<br />
○長谷川健助より便所汲取の請求あり。内田徳三へ通知。<br />
○長谷川は十五日、二ヶ月分支払の約束の処、本日来、廿一日に延期の申入せり。<br />
○門前の平家、壁の塗り方をなす。<br />
○同上の、襖の張り換をなさしむ。<br />
　一、襖両面は一枚に付五十銭。<br />
　二、片面のものは三十五銭。<br />
　三、袋戸棚のものは一枚に付十八銭。<br />
　四、縁無き片面のものは二枚にて五十銭。<br />
○保険局に出る寺崎とて家見に来る。家賃は十一円にて可なりと云へり。<br />
○操、午后三時頃より八田氏の病気見舞に行く。<br />
<br />
<b>二月十七日</b><br />
○本日朝小雨あり。后晴れ、暖気となる。<br />
○尾仲<span class="footnote"><a href="#3367-5" title="　現在、糟屋郡篠栗町の内。">*5</a><a name="3367-5f"></a></span>井上若太郎、□子、武夫の妻、の葬儀の為め、午后〇時三十八分の汽車にて出席。葬儀に出席、午后六時頃帰宅せり。但し香典一円を包めり。<br />
○慶子、八田正造氏の病気見舞に、学校の帰途行く。<br />
○平山は少しは出来る旨、家内の話。但し本人は留守。<br />
○桧室は二、三日中に帰るが、今は留守。<br />
○北村は入る金があるが、出来次第に入るゝとのこと。<br />
<br />
<b>二月十八日</b><br />
○曇天。暖気。<br />
○本日午前十時頃より、香典三円を包み、端間<span class="footnote"><a href="#3367-6" title="　「はたま」。当時は九州鉄道、現在、西鉄天神大牟田線の駅名。">*6</a><a name="3367-6f"></a></span>より下車、味坂村佐々木正太氏方へ悔みに行く。尚ほ序でに、水前寺□・ジ□ジヤ・迎春梅を贈りしに、先方よりムベ一株と千華蘭を貰ひ受け、四時前帰宅せり。<br />
○鶴崎穏氏より、よし死すとの電報に接せり。直ちに弔電を発す。宛所は慶山<span class="footnote"><a href="#3367-7" title="　「キョンサン」。現在、韓国の慶山市。大邱の東に位置する。">*7</a><a name="3367-7f"></a></span>と思ふも、大邱<span class="footnote"><a href="#3367-8" title="　「テグ」。現在、韓国の大邱広域市。かつては、慶尚北道の道都。">*8</a><a name="3367-8f"></a></span>の発信となり居るに付、大邱として返電せり。長く大邱に住せることなれば、分ることと察せらる。<br />
<br />
<b>二月十九日</b><br />
○快晴。久振り上天気。併し今朝は雪の如き多霜。<br />
○佐々木正太氏へ、痔の薬の名称知らせ。<br />
○午前十時頃、八田正造氏今朝五時頃死去の知らせあり。十一時頃、取り敢へず弔問に出掛けたりしに、已に人々集まり、葬式の日取・知らせ状の印刷仕事・役割等も出来、已に昼食中なりし。夫れより自分も昼食をなし、受持役に指定に依り、受附をなし、午后四時半退去。操を今夜通夜に遣はせり。<br />
○六本松の田地に埋立の模様に見へたれば、帰途立寄り見れば、難波氏が、裏の方に埋立する為め、内の田地を通路となせるものなれば、難詰して帰りしが、夜に入り、難波氏、前以て諒解を得ず通過せしは全く自分が不行届であつた。田面は元の如く直す可く、盛土の処は境界を出でし処もある可く、此点は石垣となす筈にて、其節は境界の通りとなす可くと申して諒解を得に来りたれば、心善く、差支なく他意なき旨を返答し置けり。<br />
<br />
<b>二月二十日</b><br />
○曇天。温暖。<br />
○本日は衆議院議員の選挙<span class="footnote"><a href="#3367-9" title="　第十九回総選挙。">*9</a><a name="3367-9f"></a></span>に付、午前九時頃出発。記念館にて中野正剛選挙<span class="footnote"><a href="#3367-10" title="　中野正剛に投票したという意味だろう。第一区は定数四で、中野正剛と松本治一郎が当選している。">*10</a><a name="3367-10f"></a></span>。<br />
○午前十時前、九時半頃八田氏方に行き、受附事務に従ふ。夜、内に帰宅せるは九時頃。<ul class="footnote"><a name="3367-1"></a><li><a href="#3367-1f">注1</a>　黒田忠之。第二代福岡藩主。</li><a name="3367-2"></a><li><a href="#3367-2f">注2</a>　福岡市博多区御供所町。</li><a name="3367-3"></a><li><a href="#3367-3f">注3</a>　借家のある東公園であろう。</li><a name="3367-4"></a><li><a href="#3367-4f">注4</a>　現在、小郡市の内。</li><a name="3367-5"></a><li><a href="#3367-5f">注5</a>　現在、糟屋郡篠栗町の内。</li><a name="3367-6"></a><li><a href="#3367-6f">注6</a>　「はたま」。当時は九州鉄道、現在、西鉄天神大牟田線の駅名。</li><a name="3367-7"></a><li><a href="#3367-7f">注7</a>　「キョンサン」。現在、韓国の慶山市。大邱の東に位置する。</li><a name="3367-8"></a><li><a href="#3367-8f">注8</a>　「テグ」。現在、韓国の大邱広域市。かつては、慶尚北道の道都。</li><a name="3367-9"></a><li><a href="#3367-9f">注9</a>　第十九回総選挙。</li><a name="3367-10"></a><li><a href="#3367-10f">注10</a>　中野正剛に投票したという意味だろう。第一区は定数四で、中野正剛と松本治一郎が当選している。</li></ul>]]></description>
 <category>昭和１１年</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3367</comments>
 <pubDate>Thu, 17 Aug 2006 16:53:58 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[「日本一怪物伝」]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3366</link>
<description><![CDATA[<b>『日本一』第二巻第十号</b>から<br />
<br />
<b>「日本一怪物伝」</b>（『日本一』第二巻第十号、南北社、大正五年十月一日発行。）<br />
<br />
<br />
　　<b><div style="text-align: center">日本一怪物伝</div></b><br />
<div style="text-align: center">―元亀天正の英雄を眼前に見るが如き、頭山満君―</div><br />
<br />
<div style="text-align: center"><img src="http://monokatari.jp/isitaki/media/32/20060816-toyama2.jpg" width="234" height="434" alt="天下の怪物頭山満君" title="天下の怪物頭山満君" /></div><br />
　　　　<b>一</b><br />
▲日本一怪物伝の主人公は、謂ふまでもなく頭山満君である。彼は、元亀天正年間に生るべかりしを、誤つて明治大正の御代に生れ落ちたのだ。怪光閃々として現代人の眼（まなこ）を射るのも無理はない。<br />
<br />
▲彼は、大の無精者で、言ふ事も無精なれば、動く事も無精、懐手の握睾丸で黙々として天井を眺めて居るが、それで居て、時の大臣宰相を畏縮せしめて居るから、真に、怪物の頭梁たるに愧ない。<br />
<br />
▲彼の、当路者に畏敬せらるゝ所以は、其乾児（こぶん）に、決死の青年を貯へて居るに因るが、而も、彼は、他の軽々たる小親分連の様に、乾児の養成に骨を折るやうな事はせぬ、来（きた）るものは拒まず、去るものは追はず、例の物臭（ものくさ）主義を発揮して居るが、一度（たび）、彼に親炙したものは、彼の為めに一命を鴻毛の軽（かろ）きに比して馬前の塵たるを辞せないから不思議である。<br />
<br />
　　　　<b>二</b><br />
▲彼の郷人（きょうじん）（…福岡…）は、彼を、谷ワクドと呼んで居る。ワクドとは、福岡辺の方言で蟇の事をいふのだ。谷ワクドとは、全く彼にふさはしい異名である。彼が、細い眼を半眼（はんがん）に開いて、黙々として、天地を睥睨して居る処は、薄暗い洞窟の中で、谷ワクド先生が氤氳（いんうん）たる妖気を吐いて居るのに酷似して居る。<br />
<br />
▲大隈の片足を奪取したのは来島恒喜であるが、恒喜をして、霞ヶ関に活躍せしめたのは、例の谷ワクドの妖気だ。<br />
<br />
▲日比谷の焼打事件に、桂をして、才槌頭をかゝへて遁竄せしめたのも、矢張り、此谷ワクドの妖術であつた、過般も、印度の志士なるものが、我当局に窘迫（きんぱく）せられて彼が家に逃れたが、刑事が門前に張番して居る間に、彼の妖術によつてヒユードロドロと消えて無くなつたなどは頗る痛快であつた。彼、一度一脈の妖気を吐き来れば、天下の志士は、恰も傀儡（かいらい）の如く彼の掌上に活躍する。此処（ここ）を以て、堂々政権を掌握して居る大臣宰相も、市井の一布衣（ほい）たる彼を畏怖する事夥しい。<br />
<br />
　　　　<b>三</b><br />
　近頃の様に、総花主義などといふ小悧巧な事が流行（はやり）出して、腹の飢（へ）つてる奴の口へ牡丹餅を押込んで、四の五の言はさず納めてしまう世の中になつては、彼が如き乱世の英雄の存在価値は、日に薄れゆくは致し方もないが、彼が如き人物は今後再び此世に出現しやうとも思はれぬ、国民は、此歴史的宝物に対して、多大の敬意を表さなくてはならぬ。<br />
<br />
　　　　<b>四</b><br />
▲彼の逸話は、既に坊間（ぼうかん）に汎（あまね）く流布して居るが、中に就いて、彼と洗髪（あらいがみ）お妻との艶話（えんわ）は、正に、天下の風流才子をして顔色（がんしょく）なからしむるに足るものがある。嬌名一世に高かりし、帝都第一の美妓お妻が、当時、飛ぶ鳥を落す勢のあつた伊藤公に肱鉄砲を呉れて、此龍の落子然たる谷ワクドに打込んだと聞いては、何人（びと）も、谷ワクドの妖術の怖るべきを感得せざるを得まい。<br />
<br />
▲お妻は其生前に、彼の為に一場の惚気談（のろけばなし）を試みた事がある。其時、お妻は、下の様な事を無遠慮に物語つた。<br />
<br />
▲満君が、浜の家（や）に陣取つて、越年的流連（いつづけ）を続けて、お妻との情交を具（つぶ）さに玩弄して居た時、日本一の好者（すきしゃ）を自任せる伊藤公は、食指頻りに動き、殊更に浜の家に陣を進めてお妻を伝呼した。酒三更、公の酔眼頻りにお妻の顔に注がるゝ頃、お妻は「鳥後（ちょっと）情夫（いろおとこ）の処へ行つて来ますから」と満君の室に入り、巫山（ふざん）の雲夢（うんむ）に入つた。後に残された伊藤は、焦心頻りに婢を呼びお妻を拉し来らん事を命ずる。婢は満君の室に至り、泣かん計りに懇請する事五度六度に及んで、お妻は漸く起つた。身には友禅の長襦袢一枚、雨中に手折りし海棠（かいどう）の、しつぽり濡れたは情の露と、浮世草子から抜け出したやうな姿で乗り込んだのには、流石斯界の豪の者伊藤公も、イヤ、お主（ぬし）は……といつた切り口が塞がらなかつたさうだ。<br />
<br />
　　　　<b>五</b><br />
▲さはれ、これは英雄の情的一面、彼が国家に捧げた功労に至つては、メタル屋の看板然と大きな勲章をブラ下げて喜んで居る連中の到底及ぶ処でない。世人やゝもすれば彼を以て浪人の親分とのみ目して居るが、そは、彼の一面観に過ぎぬ。<br />
<br />
▲日本が、今日の盛大を致したのは、日清日露両役のお蔭であるが、此両役の為めに尽した彼の隠れたる功労には、国民は十分感謝しなくてはならぬ。金玉均を上海に暗殺した支那官憲は、其屍體の所置について、また、日本を無視したる横暴を極めた。頭山は、泪を揮うて其横暴を鳴らし、時の陸相川上操六を訪ふて支那討つべしと説いたが、首相伊藤公は、優柔不断、断乎たる所置に出づる事が出来なんだ。正面より動かす事の不能なるを見て取つた川上は、彼に耳語して曰く、「火付けの役をするものがあれば、火消しは当方（こっち）から出す」と、此一言に、彼は莞爾として去つたが、後幾何（いくばく）もなくして、東学党の蜂起となり、日清国交の破裂となり、日本の国威を東洋に伸張する事が出来た。日清戦争といふ大火事の放火犯人は誰々ぞ、天を指して天佑侠と叫ぶは誰々ぞ、点呼し来れば、一人（いちにん）として彼頭山の門下たらざるはない。]]></description>
 <category>資料・同時代が見た頭山満</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3366</comments>
 <pubDate>Wed, 16 Aug 2006 23:06:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[文筆成金評判記]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3365</link>
<description><![CDATA[<b>『日本一』第四巻第二号</b>から<br />
<br />
<b>高橋孤川「文筆成金評判記」</b>（『日本一』第四巻第二号、南北社、大正七年二月一日発行。）<br />
<br />
<br />
　　<div style="text-align: center">現代百生活・文筆成金評判記</div><br />
<div style="text-align: center">―現代文士の収入調査、成金と言つても知れたもの―</div><br />
<div style="text-align: center">高橋孤川</div><br />
<br />
　<b>月収十五円の秋田雨雀君</b><br />
　文筆成金を語る前に、少しばかり、文学者の生活状態を話すのも興があらう。全くの原稿生活をコツコツとやつてゐる人では、<b>秋田雨雀</b>君の如き、定収入と言つては、僅かに、月収拾五円平均位だ等と言つてゐる有様だが、これなどは例外と見なければならぬ。<b>小川未明</b>君が、月、九拾円の原稿料を得ないと生活が出来ないのに、これを取るのは、容易で無いと言つたことがある。尤も未明君等は、随分切りつめた生活をしてゐる上に、こんな中でも、毎月五円宛、国元の母親へ送金してゐるなどゝいふ美談すらもある。けれども、概して、文学者は、贅沢な真似のしたい、人一倍うまいものを喰ひたがり、人一倍美装したがるもので、その他、眼耳口を楽しませることに病的な連中であるから、たとひ、定収入があつて、その上に原稿稼ぎをする人々でも、内容は実に貧弱で、田舎にゐて、青年が憬（あこ）がれる文学者の盛名は、来て見て驚くばかりの、貧乏生活を伴つてゐる。<br />
<br />
　<b>親の財産で幸福な連中</b><br />
　けれ共、二三年来小説家として、大分雑誌屋の註文に忙殺されてゐるやうな、例へば、<b>里見弴</b>、<b>芥川龍之介</b>、<b>中條百合子</b>、<b>志賀直哉</b>、<b>有島武郎</b>の諸君の如きは、父祖の財産で、悠々自適してゐられるといふ話だから、境遇上からは、極めて安楽さうに見える人々も無いではない。<br />
【写真】村井弦斎君……略<br />
<br />
　<b>十万円の遺産を貰つた小栗風葉君</b><br />
　が、筆一本で生きてゐる人々は、所謂大家と言はれる、<b>田山花袋</b>、<b>島崎藤村</b>、<b>岩野泡鳴</b>、<b>谷崎潤一郎</b>、<b>徳田秋声</b>、<b>馬場孤蝶</b>の諸君の如き、決して成金どころではない。<b>小栗風葉</b>君が、十万円の遺産を承けたと聞いても、或ひは、<b>蒲原有明</b>、<b>千葉掬香</b>、<b>正宗白鳥</b>、<b>山本露葉</b>、<b>三井甲之</b>、<b>永井荷風</b>、<b>水上瀧太郎</b>、<b>岡鬼太郎</b>の諸君が、数万乃至数十万の財産家に生れたといふ話には、人々の羨望の声を挙げるところなのだから、その貧乏さ加減は大抵想像もつくことであらう。<br />
<br />
　<b>問題になつた生田長江君の電話</b><br />
　遊蕩派を以て呼び為されてゐる、<b>長田幹彦</b>、<b>久保田万太郎</b>、<b>吉井勇</b>の諸君や、人道派と呼ばれる「白樺」の公達連は、概して、食ふに困らないどころか、相当の資産家に生れてゐる。然し、<b>生田長江</b>君が、自宅に電話を架設した位の些事が、喧しく伝へられ、腕者（うできき）の如くに言はれる文壇であるから、大金持のゐないところであることは、狭いだけに一目瞭然なのである。<br />
<br />
　<b>今日の原稿相場</b><br />
　ところで、一體、原稿料といふものは、一枚幾ら位のものか、又、著書の印税は何割税のものかそれを調べて見たい。物価は暴騰しても、原稿料は中々上らない。紙の高いのに頭痛鉢巻の本屋や雑誌屋が、どうして原稿料の値上げなどは断行しやう筈がない。とは言へ、昔日よりは、その率は大分高くなつて来てはゐる。硯友社時代の流行児と今の流行児とを比較して、どの位高くなつてゐるかといふ事になると、頗る怪しいものだけれ共、概して、高くはなつてゐると言ひ得る。当今、小説は、まあ、一枚一円以下といふことは無いやうだし、書く方でも一円以下の原稿料では、おいそれと応じない。が、二円以上の原稿料を、誰にも払ふといふことは無いにきまつてゐる。<b>島崎藤村</b>君が、洋行前に、二円五十銭から、時に、三円も取つたといふ話を聞いてゐる。<b>谷崎潤一郎</b>君でも昨年の半（なかば）頃から、「中央公論」で二円に値上げしたので、その前は一円五十銭であつたと聞く。それに、一流の作家にでも一円二三十銭から五六十銭、二円迄の原稿料を払ふのは、全く、四五の大雑誌に限られてゐる。それから評論や随筆、感想の類ひは、一枚がよくつて、七八十銭、一円以上といふことは、殆んど無いし、同時に五十銭以下といふのも極めて珍らしい。短歌は一首十銭から十五銭、二十銭どまりであるから、俳句や長詩の原稿料も推測が出来よう。一と頃飜訳の盛んであつた時代には、一枚五十銭が普通とされてゐたやうである。以上一枚といふのは、四百字詰の原稿紙を言つたものである。<br />
【写真】巌谷小波君、長田幹彦君……略<br />
<br />
　<b>印税の相場</b><br />
　さて、印税となると、色々であるが、小説集、評論集、脚本集、歌集、句集の如き大抵、二度の勤めではあるが、定価の一割といふことになつてゐる。でも、八分若くは七分五厘などゝいふのもあるから、その著者と著作によつてわからない。例外では、一割二分乃至五分とか或ひは二割などといふのもある。文士の収入は、原稿料と印税と脚本料と位より外には、殆んど数ふるに足りないものばかりだと知つてゐて差支ないわけである。<br />
<br />
　<b>古い処では村井弦斎君</b><br />
　大分、前置きが長くなつたが、愈々本題成金物語に這入ることゝする。成金とは言つて見ても、どの道、世間の眼から見れば、ごくごく、小さな成金であることは予め断つて置く必要があると思ふ。と共に、文筆生活者の成金物語は、語る方でも、ちと、二の足を踏む題目であることをも、添加して置きたい。古いところで、<b>村井弦斎</b>君などといふ人は、成金と言つてよからう。本業は「日の出島」以来、小説書きなのだが、「婦人世界」の方は、雑誌の発行高に対す何割といふ印税でやつて居るから、大変な収入である。彼は毎月小石川の東京銀行へ実業の日本振出の小切手を預入れに行くが、其額は一千五百円の処なさうだ。<br />
<br />
　<b>小波のおぢさんも小成金</b><br />
　同じやうな小成金では<b>巌谷小波</b>君がある。それは、かのお馴染のお伽噺の小父さんとして、博文館の「少年世界」やお伽話の著述から出る印税の外に、三越の顧問だとか、文部省の嘱托だとか、お伽講演だとか、いろいろな方面に関係して居るので、莫大の収入になる。博文館では、改革以前は月給五百円であつたが、改革後も、略々（ほぼ）これと同じ収入を得て居るさうである。高輪に堂々たる邸宅を構へて（自分のもの）文筆業者を羨しがらせて居る。この人なども、文筆の別方面で成した小成金と言つてもよからう。<br />
<br />
　<b>家作持ちの岡本綺堂君</b><br />
　<b>坪内逍遙</b>博士、<b>森鴎外</b>博士なども成金とまでは言へないかも知れないが、又、定収入と位置があつて、文筆に携つてゐた人達ではあるが、相当に貯つてゐることは推察する事が出来る。<b>岡本綺堂</b>君の如きも、家作を持つ位は貯つてゐるやうだ。尤もこの人は、父祖の産がある上に、普通（なみ）ならぬ稼手（かせぎて）であるから、脚本、通俗小説の両刀使ひを、精々（せっせ）とやりつゝある。殊に脚本料が可成りの収入を為してゐると見なければなるまい。<br />
【写真】田山花袋君……略<br />
<br />
　<b>精力家の渡辺霞亭君</b><br />
　通俗小説を書く人では、<b>渡辺霞亭</b>君などは、立派な文筆成金である。よく、自転車で、数軒の妾宅廻りをやるとか、別荘をどこに建てるとかいふ噂を耳にしてゐる程で、書く事もよく書くし、従つて、手の廻らぬところから、大きな声では言へないが、代作もずゐ分出てゐるらしい。何と言つても、日に六ツ位の続物（つづきもの）が平気だといふから、その量の点で、第一人者に推さずばなるまい。霞亭以外に、碧瑠璃園、黒法師等と数多の雅号を持つてゐることや、新聞小説、歴史小説等、何でも書きなぐることは、世間周知の事実である。<br />
【写真】井上十吉君……略<br />
<br />
　<b>通俗物で当てた幹彦君</b><br />
　霞亭君と並び称される人に、若手で、<b>長田幹彦</b>君がある。幹彦君も、世間で徒らに驚いてゐるほどの多作家ではないが、それでも、一時に、新聞小説を三個所も引受けて、別に雑誌に三つ平均位は書いてゐられる男だから、まづ霞亭君と綺堂君との間に坐るべき達者な人と言はれよう。新聞の続物は、一回分の原稿料が五円から七円迄、時に十円のこともあるから、この三者の収入は想像がつくことであらう。昨秋あたりは幹彦君一ヶ月の収入は約三百円と謂はれて居た。それに、この人達の多くは、雑誌にも、連続物を書いてゐるからお座敷は絶え間なしに、勤めてゐることになる。同時に、之れ等の作物（さくもの）が、小説集になつたり、単行本にされたりして、一ヶ月一冊平均とまでゆかずとも、それに近い位、出版されるから、それから上る印税をも加算して、この三人者は、その働き振りも目ざましいが、小成金として許されるだけの収入もあるわけである。だが、綺堂君のは、筆は、速い方ではない。まめな方なのだ。<br />
<br />
　<b>関東の精力家には田山花袋君</b><br />
　注文さへすれば、ドシドシ片附けて行かれる人に<b>田山花袋</b>君がある。この人は、毎月長短三つ平均は雑誌に発表してゐる以外に、書き下（おろ）しの長篇を単行本として出したり、新聞小説を書いたりするから、盛んに仕事をするといふ点では、純文芸の方での、唯（ゆい）一人（にん）とも目すべきであつて、若い人などには、とても、真似も出来ない。<b>木下杢太郎</b>君が速いと言つても、<b>久米正雄</b>君が達者だと言つても、それは皆、遅筆家揃ひの文壇の諸君の中での話なので、花袋君のやうに、のべつ盛んな人は珍らしい。鉛筆で一晩に二百枚を書飛ばしたといふレコードを有（も）つて居る。その為めか、家作を持つてゐるとか、地主だとか噂はされてゐるけれ共、どうして一円から二円どまり位の原稿を、如何に花袋君が、沢山書いたとて、貯金らしい貯金は覚束ないと言つてゐるといふが、併しこの人には小説の外に紀行文といふ裏芸もあり、これがまた近来非常に売行がよいさうである。小説では、「田舎教師」は一番売れたさうだ。<br />
【写真】徳富蘆花君……略<br />
<br />
　<b>著述業者の景気</b><br />
　次ぎに、著書では、どんな人々が、小成金の組に入るかと言ふに、<b>木下尚江</b>君の小説が売れたといふのも、昔の話、その他<b>黒岩涙香</b>君、<b>村上浪六</b>君、<b>泉鏡花</b>君、故<b>柳川春葉</b>君などゝいふ通俗小説で売つた人達や、学生相手の、故<b>押川春浪</b>君、印税の高い大町桂月</b>君、同じく、二割若くは二割五分の高い印税をとる<b>加藤咄堂</b>君などや、<b>幸田露伴</b>君などの著書が売れると言つて見たところで、成金どころか、いつも成貧で暮さねばならない、惨めな有様だ。一つには、読書界が、まだまだ向上したやうでも、講談本が一番売れる世の中であるし、婦人雑誌と、子供の雑誌だけが、時を得顔の今日では、とても著書で、大成金になるなんて、夢のやうな幸運は向いて来ない。<br />
【写真】故夏目漱石君……略<br />
<br />
　<b>辞書成金の井上十吉君</b><br />
　別の方面で、<b>三宅雪嶺</b>博士、<b>徳富蘇峯</b>君の著書が売れるのは、今こそ昔程ではなくとも、小成金と見做すことが出来なくはないやうである。更に「静坐三年」の<b>岸本</b>君は、チヨイス・リーダーや「静坐三年」で資産を作り、立派な家を建てたが、<b>大槻</b>博士や、<b>芳賀</b>博士なども、辞書による印税は尠くない。それに近来に於ける辞書成金は<b>井上十吉</b>君で至誠堂から出した英和辞書だけで、年収一万円内外はあるさうだ。あれは、初版に四万刷つたさうだが、井上君は、三十万は出すといつてゐるさうだ。<b>斎藤秀三郎</b>君のリーダーその他で小成金の称号を冠しても異議は出ないだけの資産を作つて居る。<br />
<br />
　<b>著書成金の横綱は蘆花君</b><br />
　明治から大正へかけての著書成金として、推称したいのは、かの<b>徳富蘆花</b>君である。「不如帰（ほととぎす）」は申すに及ばず、「寄生木（やどりぎ）」「思ひ出の記」などの版を重ねてゐるのは、実に驚くべきものがある。「自然と人生」などは、毎年、今でも四五千は市場に出るといふ、素晴らしい売行である。近頃の著書では、「みゝずのたはごと」「黒い眼と茶色の眼」「死の蔭に」の如き、どんなにしても一万五千から二万迄は、確実に売れると出版書肆は語つてゐた。書肆が蘆花君に執筆の承諾を得たといふだけで、森村銀行は一万円迄は融通するさうである。文士も一諾一万円となれば偉いものである。蘆花君の著書は、一版が、少くても、二千であつて、それが定価一円平均としても二割の印税を取るとすれば一書につき一版で四百円は居乍ら、得られることになる。粕壁の大地主として、田園生活に親しみ乍ら、三年に一冊位宛、著作をして、洛陽の紙価を独り高からしめてゐるとは、まことに、稀（めず）らしい幸運児と言ふことが出来る。だから、どんなに安く見積つても、年に一万円内外の収入が、著書に依つて上るわけであるから、或人が、君を日本のジヤツクロンドンに比したのも、決して、無理はない。蘆花君の右に出るものは、当代、まづ無いと言つてよからう。<br />
【写真】與謝野晶子女史……略<br />
<br />
　<b>歿後に産を作つた紅葉全集</b><br />
　最後に、全集で成金になつた人を挙げたい。無論、<b>樗牛</b>、<b>紅葉</b>は何（いず）れもその全集が、大いに売れたし、現に売れつゝあるに違ひない。また紅葉全集は、非常の売行で未亡人の手に三万円からの現金を提供したが、<b>二葉亭</b>全集とか、その他、<b>廣津柳浪</b>、<b>北村透谷</b>、<b>国木田独歩</b>、<b>樋口一葉</b>などゝいふ人々の著書や全集などは、余り香（かん）ばしくなかつた。<br />
<br />
　<b>驚くべき漱石全集の申込み</b><br />
　茲に驚くべきものは、<b>夏目漱石</b>全集の好況である。「芸術は永し生命（いのち）短し」と大広告をした漱石全集は、実に七千余の会員を集め得たと言はれてゐる。一冊三円全部十二冊の全集を、七千の会員が買ふものとすると、如何に、少額に見積つても十五万円以上否二十二三万円は、夏目家の手に這入ることになる。漱石死して後一年、文豪の人気の絶大なのに驚嘆せざるを得ない。これこそは、近時文筆界に於ける大成金の随一人と声を大きくして叫ぶに何等の躊躇を要としないものである。漱石未亡人が、仮りに自働車を飛ばしたとて、芝居に出入りしたとて、まづそれだけの収入がきまれば、平然としてゐられるといふもので、地下の漱石何事をつぶやくとも、恐るゝに足らない次第である。それに引較べて、同じく文界に雄飛し貢献した人でも、<b>上田敏</b>博士は、死後、何物の収入どころか、借金を残したといふ噂さへある。<br />
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　<b>女では與謝野晶子女史</b><br />
　終りに、閨秀作家では、一と頃<b>田村俊子</b>君が大いに書いたが、今は、とんと筆ををさめてしまつた形である。只一人、<b>與謝野晶子</b>君が、夫君と大勢の子供を擁して健気にも奮闘しつゞけてゐる。]]></description>
 <category>資料・文学史の落穂拾い</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3365</comments>
 <pubDate>Tue, 15 Aug 2006 00:36:04 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[西南戦争が結ぶ糸]]></title>
 <link>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3364</link>
<description><![CDATA[<b>「西南戦争が結ぶ糸―二つの「戦袍日記」と祖母のこと／記憶の底を掘り起こす―」</b><br />
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２０００年３月３１日、毎日新聞西部本社版夕刊<br />
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　<div style="text-align: right">石瀧豊美</div><br />
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　二つの『戦袍日記』の同時刊行が話題になったのは昭和六十一年九月。それまで『戦袍日記』は佐々友房の著作として知られていた。刊行は明治二十四年。その頃、佐々は熊本国権党を率いて、福岡玄洋社の頭山満と条約改正反対運動に奔走していた。二十三年の第一回総選挙で代議士に当選。以後、第九回まで連続当選を果たし、在任中の三十九年、五十三歳で亡くなる。政党政治家であり、熊本済々黌の創立者としても知られている。<br />
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　『戦袍日記』は佐々が熊本隊の指導者として西南戦争に参加した、その戦いの日々が記されている。「戦袍」とは、戦いに着用する衣服。熊本城攻撃に始まり、宮崎県で重傷を負って降伏するまでの半年、佐々は戦いに明け暮れた。懲役十年の刑で服役し、療養のため、十二年一月に、在獄一年余で出獄した。<br />
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  佐々の『戦袍日記』の復刻を進めていた熊本の青潮社、高野和人さんが、それまで知られていなかった古閑俊雄著『戦袍日記』の原稿を入手する。古閑も熊本隊の幹部で、佐々よりも一歳下。懲役五年の刑を受け、広島監獄に服役中、十一年五月に二十四歳で病死した。死後、訪れた古閑の友人佐藤信喜に和綴じ十二冊の『戦袍日記』が託された。獄中、不自由な中で紙を求め必死の思いで書き継がれたものであった。<br />
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　古閑の三回忌の席で、佐々はその原稿を見た。そして、自分の記録も『戦袍日記』と改めた。二冊の『戦袍日記』が生まれた事情は高野さんによって明らかにされた。<br />
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　佐々と古閑、二冊の『戦袍日記』刊行は世間の注目を集めた。その記事を読んだ私に、記憶の底できらっと光るものがある。古閑……？　私はあわてて引き出しの奥から祖母の除籍謄本を取り出した。祖母が昭和五十四年、九十一歳で亡くなった後、私は祖母の戸籍を確かめた。しかし、一読、痛ましい思いで、そのまま封印していたのだ。<br />
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  母方の祖母操（母にとっては継母）は熊本の佐々家から来た。九州帝大教授で、左傾教授として昭和三年に大学を追放された佐々弘雄（友房の三男）が荷物を運んだという。祖父は朝鮮総督府を退官し、福岡市に住んでいた。昭和八年、祖父は六十七歳、操は四十五歳である。祖母は友房を叔父と呼んでいたようだった。しかし、私が遠く離れて日常接する機会がなかったことと、私の若さもあって、直接、祖母に問いただしたことはなかった。<br />
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　戸籍では父は亡加来権九郎（賀来が正しい）、母は青木登志。養父の欄に古閑信喜とあった。最初の夫とは死別で、祖父とは再婚だ。両親の姓はなぜか異なる。深い事情がありそうだと思ったが、痛ましさが先に立ち、それ以上、追及することははばかられた。<br />
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　しかし、記事を見てあっと思った。祖母の養家の姓古閑が古閑俊雄と結びつく。古閑信喜は実は古閑俊雄の遺品を引き取った佐藤信喜その人で、友人古閑俊雄の遺跡を継いでいたのである。祖母がその養女となったのは偶然ではなかった。<br />
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  熊本隊を描いた『硝煙弾雨丁丑感旧録』には、賀来権九郎の伝記があった。嘉永三年の生まれで古閑俊雄よりは五歳、佐々友房よりは四歳年長だった。熊本隊に属し、懲役一年に処せられた。妻青木氏との間に、一女あり、権九郎の死後、妻は実家に復籍したとある。この「一女」が祖母にまちがいない。祖母の戸籍には権九郎没後の事実が記載されていたために、母は青木姓となっていたことがわかった。権九郎は桐野利秋の信頼篤く、桐野の身辺には常に権九郎の姿があったという。<br />
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　佐々の『戦袍日記』に、十二年一月十九日、宮崎の獄を出る時、「親戚賀来権九郎来リ迎フ」とある。二人は馬上、かつて戦火をくぐった古戦場を見ながら熊本をめざした。<br />
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  佐々友房の兄で、やはり懲役十年の刑を受けた佐々干城の妻須磨が、権九郎の妹である。祖母から見ると確かに友房は（義）叔父である。祖母は父の死後、熊本砂取本町の佐々家に身を寄せていた。干城が父親代わりであったらしい。最初の結婚に際し、古閑信喜が自分の籍に入れ、そこから米倉家に嫁したという形をとった。養女とあるのがそれだ。<br />
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　高野さんが昭和二年頃の九州日日新聞の記事を紹介している。下田曲水記者が県立熊本中学校米倉書記の家で、偶然に古閑信喜と会う。これを機会に米倉の案内で古閑家を訪れ、秀才として知られた古閑俊雄の遺稿・遺墨を見て、その概要を紙上に報告した。その中に、もちろん『戦袍日記』の原稿もあった。この米倉書記が祖母の最初の夫米倉猛五郎である。してみると、古閑信喜は養女の祖母に会いに、米倉家を訪れていたはずだ。祖母も同席していたであろう。この時、祖母は歴史の目撃者だった。西南戦争が女たちのその後の運命に影を落としていく。祖母の証言を聞かなかったことが悔やまれる。<br />
]]></description>
 <category>思い出すこと</category>
<comments>http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=3364</comments>
 <pubDate>Mon, 14 Aug 2006 19:19:30 +0900</pubDate>
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