福岡県糟屋郡須恵町役場発行の広報紙に連載した作品を収録しています。
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《まちの史跡めぐり》第106回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第106回 (『広報すえまち』462号 2006年1月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(17)

村の一年(続き)


【十一月】
御切米指紙御立用願

 現代の経済慣行の中には江戸時代にすでに原型のあったものがあります。世界初の先物取引は江戸時代、大坂は堂島の米取引所で始まったというのは有名な話です。
 指紙さしがみは聞き慣れない言葉ですが、イメージとしてはビール券や図書券のようなものでしょう。
 切米きりまいは福岡藩士が藩の米蔵から米を給与として支給されることを言います。この時、藩の勘定所が侍に米券を発行し、それを米蔵に持参して米と引き換えます。
 ところが、この米券自体が流通することにもなりました。米券は実物の米(現米)と同じ価値を持っていたので、商人によって現金化されることもあったのでしょう。
 そうなると、年貢を納める農民の側でも、商人から米券を買い取り、年貢米を納付する際に、米券で代用する方が便利なこともあります。遠隔地からはるばる米俵を運ぶような場合、あるいは不作で年貢米に不足が生じたような場合です。
そうした願い出は十一月の月初めに行うよう定められています。
臨時切立
 切立きりたてとは村(庄屋が支配)や触(二〇ヵ村程度を大庄屋が支配)の自治的費用を各戸から徴収したものです。今で言えば町内会費のようなもの。
止宿証拠
旅人を村に泊めた際の報告。年に二回行います。今回は七月以降の分。
御納方払切
 「おおさめかたはらいきり」と読むのでしょう。村として、年貢の納付が完了したことを言います。藩の証明書をもらい、大庄屋に届け出ました。
【十二月】
長寿者の調査

 昔はお正月が来ると一つ年を取ります。いわゆる「数え年」の考え方で、大晦日に生まれたとすると、翌日には二歳になってしまう。一年が十三ヶ月になることもある昔の暦では、誕生日で年齢を数えるのは実際に不可能でもありました。
 翌年、八十歳・九十歳・百歳を迎える者が村にいれば、大庄屋へ報告せねばなりませんでした。長寿者は表彰もされることになります。
 年齢がはっきりわかるのは、キリシタンを取り締まる宗旨改めが戸籍作成の役割を果たしていたことによります。誰もが生まれたとたんに宗旨改帳に登録され、毎年年齢を加算されました。まれではあっても百歳を迎えることが実際にありえたことがわかります。
冬普請の決算
 農閑期の冬は普請(土木工事)の季節。農民たちが人夫として動員されることになります。ため池や用水路など、田畠に関わる普請の報告を二十日までに求められています。
臨時切立の割方
 臨時切立について、各人への割り当てと徴収について急ぐことという項目です。
産子の死亡調査
 産子うぶこはこの年に生まれた子供のこと。乳児の内に死亡した子供について、特別に養育方への報告を求められています。養育方は大庄屋を補佐する役人(庄屋が兼任)で、捨て子や間引きのないよう監視するのが役目です。
産子月払
 毎月の出生児数を届けることになっています。
地頭納め・節季夫
これはすでに説明したことがありますが、季節の行事ごとに、村では地頭(領地を持つ侍)に季節の納入者や人夫を差し出すことになっていました。年末・年始の準備のために村から門松を持参したり、大掃除の手伝いをしたりしました。
 これで、月別に一年の庄屋の仕事を見てきましたが、次に「追加」と「増加」があります。季節ごとに配列できない項目について見ておきます。
【追加】
御書付

 いわゆる「御墨付おすみつき」のこと。殿様の名前で発行された文書を持っているものが死亡すれば直ちに届け出ねばなりません。身分を問わず、由緒を重んじたということになります。
洪水による破損
洪水の被害は翌朝までに報告すること。
倒壊家屋
風や雪で家屋が倒壊した場合の報告。
旅人の病気
旅人が村内で病気になった場合、村では医者を呼び治療を加えます。本人が出身地へ帰りたいと言えば「村次」という制度がありました。村から村へと順次バケツリレー式に送り帰すのです。時には行き倒れの死体が発見されることもあります。その場合は、事件性があるかどうかを見極めるまで、村では番人をつけて監視しました。
【増加】
五穀の貯え

 雑穀であっても、豊作の年には貯えておき、飢饉に備えるようにという注意です。
収納の公正
 庄屋にとって年貢の収納など、上納物(税負担)に関する業務が最も重視せねばならないものでした。ゆるがせにせず、きびしくせよと言っていますが、貧しい一人暮らしの者には特別な配慮を加えよとも書かれています。また、納めすぎは直ちに返し、不足分は急ぎ取り立てること。公用に関することは厳密に行うことと注意を加えています。
(「村の一年」はこれで終わります。)

《まちの史跡めぐり》第105回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第105回 (『広報すえまち』461号 2005年12月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(16)

村の一年(続き)


【十月】
年賦払い方

 御当用米拝借の年賦は、今月中に払い方のこと。ただし、大庄屋から触れ達して、年番村に払うこと。一斗以上は縄・俵も添えて払うこと、とされています。
 「御当用方」役所から村人が米の貸し付けを受けている場合の返済方法について書かれています。貸し付けを受けるのは生活に困窮したからでしょう。返済は年賦ですから、年に一回十月中にその年の返済分を返すことになっていました。当番の村が決められていてそこに持参することになります。縄・俵を添えるのは、当番の村で集まった米をいったんプールし、俵詰めまで行ったことを意味しています。
おち牛馬の調査
 落ち牛馬あるいは、倒れ牛馬(斃へい牛馬・死牛馬)などとも言います。要するに村で飼育されている牛馬が死んだ場合の調査です。
 農村では運搬用、耕作用に牛馬が飼われていました。今で言えば、農家の軽トラックや耕耘機のような役割を牛馬が果たしていました。
 江戸時代はどこの藩でも、牛馬が死ぬと、飼い主の所有権がなくなるという原則がありました。つまり、死体を勝手に埋葬したりすることなどは禁じられています。
 藩に届け出ると、回収され、解体して、皮革や膠にかわ、骨粉など、社会的に有用な製品に生まれ変わるという仕組みがあったのです。なめし革は太鼓だけでなく、履き物(雪駄せった)、防寒・防水の羽織・袴などにも利用されたそうです。
 飼っていた牛馬が死んだという届け出は、間を置かずにすぐに行われたはずです。というのは、次の新しい牛馬を買い入れねばならないからです。この調査は、前年の十月一日から今年の九月三十日まで、一年間の牛馬の死亡数を庄屋から大庄屋へ報告するよう求めたものです。
畠方上納
 上納は、厳密には年貢とは別に「諸上納」という税負担の分類があったのですが、ここでは畠方の年貢を上納するという意味に受け取っておきます。
 田の年貢は米で、畠(宅地を含む)の年貢は大豆で計算されます。その大豆の上納について、現大豆(大豆の現物)で納めるのか、代米(大豆でなく米で代用)または代銀(大豆の量に相当する銀に換算)によって納めるのかを十月中に届け出なければなりません。
 当然ですが、畠に大豆を植えていない場合、大豆で納めるわけにはいかず、農民にとって代米・代銀の方が都合のいい選択になります。と同時に、代米が可能なのは、田の年貢米を納めた後にも、農民の手元にはかなりの米が残っていたという現実を指し示してもいます。
 いずれにせよ、それは許可制で、許可が下りれば、大庄屋から通帳かよいちょうが支給され、福岡城下簀子町にあった永蔵ながくらへ納めに行きました。
運上銀
 運上とは商売にかかる税負担です。庄屋は、諸商売運上銀(職種によって額が決まっています)と山方仕組払いの竹木代を関係の農民から取り立て、判屋に納めて預かり手形を受け取り、十日までに大庄屋に差し出すことになっていました。
 竹木代とは、山方から山林の竹木の払い下げを受けた場合の代金です。これは実際には、山に入って竹木を切るための鑑札料を意味していたと思われます。運上銀も同じで、売上から税を納めるのではなく、商売を営むための鑑札を得るためにお金を納めたのです。
 判屋は銀行業務の一種で、今で言えば収入印紙を発行しているような意味があります。村から納める運上銀は藩の指定する判屋に納め、そこから収入済みの紙片をもらうのでしょう。貨幣の量目を保証するのが本来の役割で、その保証のために「判」を押したことから判屋と呼ばれたのでしょう。
【十一月】
妊婦の調査

 年に4回行われる調査の内、来年春に臨月を迎える女性の調査です。五日までに養育方へ差し出します。養育方は正確には産子うぶこ養育方。大庄屋を補佐する役人で、おそらく配下の庄屋の中から兼任していたと思われます。間引きや捨て子を防止するために置かれた役人で、子どもの養育に不安がある場合はお米を貸し付けたりしました。
上納銀
 十一月は諸上納銀の納付期限です。ただ、御切手納が認められていました。これが運上銀の場合と同様、判屋に納めてその領収書(切手)をもらうことを意味しているのでしょう。判屋で納付する場合は現物の銀を用意する必要もないし(銭や米に換算するとして)、それを動かす必要もないという点で、農民にメリットがあったのだろうと思われます。

★石瀧さんからのお知らせ
 須恵町広報紙への連載は、『広報すえ』一五九号(一九八〇年七月)~一九〇号(一九八三年三月)に「町史のひとこま」と題して三二回、一九四号(一九八三年七月)~一九七号(同年十月)に「史料あれこれ」「地名の話」と題して三回、『広報すえまち』三五五号(一九九七年二月)から現在まで「まちの史跡めぐり」と題して一〇五回ということになりました。
 毎月一回を積み重ねて、断続的に合計一四〇回(十一年八ヵ月)に及んだことになります。これまでそれらの一覧ができない不便がありましたので、過去の掲載分をインターネットのサイト上で自由に見ることができるようにしました。(順次登録中。登録分は 『広報すえまち』連載のファイルで検索可能です。URLは http://monokatari.jp/isitaki/ からリンクをたどって下さい。)

《まちの史跡めぐり》第104回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第104回 (『広報すえまち』460号 2005年11月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(15)

村の一年(続き)


【九月】
堤水のためこみ

 堤(ため池)の溜め込みは、年内より手抜かりなく手配すべきこと。ただし、漏水などのないよう、念の上にも念を入れること、とされています。農閑期こそ、ため池の修復の期間であり、それが終わると、水をためて翌年の田植えに備えました。
 町内のため池の数は、明治初年の『福岡県地理全誌』で見ると次の通りです。
  佐谷村   一
  上須恵村  八
  須恵村  一九
  新原村   四
  旅石村   五
  植木村  一〇
  本合もったい村   六
   合計  五三

 この内、築造年のわかっているのは一九。築造年不明が多いのですが、不明なのはおそらく、記録が残らないほど古い時代に作られたものだということを意味する、と考えられます。
 次に、判明する分について築造年順に並べてみると次の通りです。築立年つきたてねん・所在地・(村名)の順に記しています。地名の読みは参考までに付けていますが、間違っているかもしれません。
一六三四 柿本かきがもと(本合)
一六六一 仏道ぶつどう(新原)
一七一六 樫木原かしのきばる(上須恵)
一七一七 伊勢山いせのやま(上須恵)
一七四〇 烏帽子形えぼしがた(須恵)
一七四一 笹原ささばる(上須恵)
一七四六 南面里後なめりのうしろ(上須恵)
一七七二 奈起田なぎた(須恵)
  同  大谷(植木)
一七七七 大塚(植木)
一七九五 永谷(本合)
一七九九 芋堀(旅石)
一八〇六 小鳥越ことりごえ(上須恵)
一八二三 金堀谷かなぼりだに(上須恵)
一八二六 草場(須恵)
  同  藤浦(須恵)
一八二七 池下いけのした(新原)
一八五三 深田浦(上須恵)
一八五七 長礼ちょうれい(須恵)

 こうして見ると、一七世紀に二個、一八世紀に一〇個、一九世紀に七個となり、江戸時代を通じてため池の築造が盛んに行われていることがわかります。
 農業用水はどこから水を引くかで、天水てんすい請け、堤掛かり、井手掛かりなどに分かれます。天水請けは外部から水を引かず、雨が頼りです。堤掛かりはため池、井手掛かりは川の堰せきから取水しました。
 井手はたとえば佐谷村の場合、寛政五年(一七九三)の村明細帳で三七カ所をあげています。本川筋に一三カ所、割石川筋に三カ所、佐谷川筋に二一カ所。井手にはその都度、竹の笹や土の俵などでせき止める方法と、木や石で頑丈な構造にする方法とがありました。その維持・管理だけでもたいへんだったことでしょう。
 ため池や井手から田までは、溝(水路)や樋で水を流します。こうした用水施設の維持管理は個人では手が回らず、権利も複雑に絡んでいます。それで、庄屋の指揮のもと、村全体で工事や管理に取り組んだのです。
 県道筑紫野・古賀線を門松方面に進むと、右手に新大間しんだいま池が見えます。道をはさんで反対側には古大間ふるだいま池があります。古大間池は粕屋町、新大間池は須恵町・粕屋町にまたがっていて、一部が篠栗町にかかっています。
 新大間池の水は若杉山中腹から一部、地下水路で引かれています。いったん新大間池にたまった水を、さらに駕与丁かよいちょう池へとためるのです。この水路を仕掛溝しかけみぞと言い、文化十二年(一八一五)に着工、文政七年(一八二四)に完成しました。水路は全体でおよそ三・六キロ。その内、巨岩に通したトンネル部分はおよそ九一メートルありました。
 長い歳月を要した難工事でしたが、戸原村の大庄屋長卯平のねばりづよい指導と、戸原村出身の博多の豪商立石又左衛門が提供した巨額の工事費、それに工事に携わった農民たちの努力が、工事を完成に導いたのでした。
 風景の中に溶け込んでいて、ふつうは意識しないことですが、どのため池も、農民みずからが作り上げ、何百年も守ってきたものだということは、忘れることはできません。

《まちの史跡めぐり》第103回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第103回 (『広報すえまち』459号 2005年10月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(14)

村の一年(続き)


【九月】
火の用心

 日頃から火の用心に気をつけるのは当然の話ですが、年貢納入中は殊に厳しくしなければいけませんでした。月初め、庄屋は村中全員に、その旨、通達し念を押しました。これは、年貢蔵に運び込む前に、または年貢蔵に運び込んでからでも、年貢米が火災で焼失することを恐れたのです。年貢蔵に運び込む前に焼失すると、農民は莫大な損失になります。
納め米まいかよい帳
 永蔵ながくら納米通帳は初旬に大庄屋へ差し出すこととされています。永蔵は福岡簀子町すのこまちの海岸に置かれていた、藩の年貢蔵で、各村の年貢蔵の年貢米は永蔵へと集められます。同様の集荷場は藩内に他に三か所ありました。
 納め米通い帳は、村全体で負担すべき年貢の内、どれだけが納入済みかが記録される帳簿です。
永蔵初津出し
 津出しは年貢米を村から運び出すことを言います。糟屋郡の場合は永蔵まで運ぶことになっていました。
 初津出し、つまりその年の第一回目の津出しは、早米はやまいができたらすぐに手配しなければなりません。寒冷で実りが悪いというような、時節遅れの年であっても、わずかの俵数でも、とにかく九月中には永蔵へ提出するという心構えが求められました。
春免
 免めんは年貢、あるいは年貢率の意味です。殿様と関係があるので史料上は「御免」と表記されます。
 中世には免は収穫物から年貢を除いた、農民の取り分をさしていましたが(その方が年貢を免じるという、免の本来の意味にかなっているようにも思えます)、近世には意味が逆転して、農民の取り分ではなく、年貢の方を指すようになりました。
 免には春免・秋免・定免じょうめんなどの種類があり、年貢率を指す場合は免四ツ(年貢率四〇パーセント、つまり四公六民)のように言います。
 春免は秋の収穫高を予想して、春の内に年貢高を決めておくことで、秋免は実際の実り具合を見て年貢高を決める方法、定免は過去の一定期間の実績から年貢高を固定しておくことを言います。
 田方春御免請け留め書き物は月初めに差し出すこととされています。もう、来年の年貢のことを考えなければいけません。
かけい
 筧は懸け樋かけひ、つまり、庭などに水をひくために、地上にかけわたした竹や木のといのこと。よく、竹を半分に割って、水を引いていくものを見かけますね。そうめん流しをする時のことを想像するといいですね。
 御免用筧類、その他について、田方用水以外に用いない分は、次の水取りまで入念に準備しておかねばなりません。田植えの時期に用いたものは、農閑期には不要ですから、回収し、補修して、来年の田植えにすぐに間に合わせることができるようにしたのです。
実をちぎる
 この場合の実は櫨ハゼの実です。飢饉時の換金作物として、農村に櫨を植えることが奨励されていました。須恵町でも、戦前は須恵川の土手などにハゼの並木がふつうに見られたようです。段々畑のわずかな空き地などを選んでハゼが植えられていました。筑後地方のハゼ並木の紅葉は今でも有名ですが、筑前でもふつうに見られたのです。
 戦後には姿を消したのですが、須恵町では戦時中に駐屯していた兵隊達が薪として利用するために伐採したと聞きました。他には、ハゼは地主の作物であったために、戦後の農地解放で「地主とともに消滅した」とも言います。
 ハゼの実を収穫すると、器具で押さえつけて搾ります。それが和ロウソクの原料(木蝋もくろう)になりました。ハゼの実をしぼる業者を須恵町では「板場いたば」と呼んでいたそうです。蝋〆板場(ろうじめいたば)の略です。江戸時代には、ハゼの実を博多から買い付けに来ていました。
 ここにはこう書かれています。御実植え所御用のハゼの実は、大庄屋から触れが出てから実をちぎること。
 藩にハゼの実の栽培・集荷・販売を行う「御実植所」という役所があったのです。そのハゼの実に限り、役所から大庄屋、大庄屋から庄屋へと指示があってはじめて実をちぎることができた、ということのようです。
 さて、福岡藩でハゼ栽培の技術を磨き、その普及に貢献した人として、那珂郡山田村(現・大野城市)の庄屋高橋善蔵が知られています。この人は『窮民きゅうみん夜光やこうの珠たま』という本を書き残しています。「夜光の珠」とは、目の前にありながら、その価値に気づかなかったものというたとえです。
 善蔵が三十九歳の時に書かれ、藩は大庄屋たちに書き写して活用するよう命じました。
 宝暦十一年(一七六一)に善蔵は五十三歳で亡くなりますが、子孫に対し、墓石を建てなくてよい、と言い残します。そんなものは生活の役に立たないと言いたかったのでしょうか。
 その代わりハゼの樹を植えよ、と言いました。善蔵が生涯をかけて追究したハゼ。飢饉の影響を受けず、農民に安定した現金収入の道を開くことになりました。

《まちの史跡めぐり》第102回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第102回 (『広報すえまち』458号 2005年9月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(13)

村の一年(続き)


【八月】
宗旨秋改め

 宗旨改めは年二回。春と秋に行われますが、秋は、一人一人血判を求められた春ほどには厳密ではありませんでした。
御年貢蔵
 年貢蔵は村人の年貢米を一時的にプールしておく場所です。そこから福岡簀子すのこ町にあった藩の施設「永蔵ながくら」まで運んでようやく年貢納入もおしまいです。村には必ず年貢蔵があり、時には村で唯一の土蔵・瓦葺きということもありました。火事や盗難、鼠害などの恐れがあったからです。年貢蔵に収められるのは藩主に差し出す年貢米ですから、年貢蔵は民衆からは「殿ノ倉」と呼ばれていました。「御」を付けて呼ぶのも藩主に関係するものだからです。
 年貢蔵の隣には「斗家はかりや」が併設されていました。斗家は米粒を選り分けたり、升で量って俵詰めをする場所です。このため、屋根とそれを支える柱だけから成り、周囲の壁はなかったようです。ちょうど相撲の土俵のような、大勢の人が四方から出入りして働くことが可能な作りでした。
 年貢収納の時期が近づいたので、年貢蔵と斗家について、屋根やむしろなどの手入れを求められていました。
縄・俵の準備
 いよいよ稲刈りです。稲刈りの前に、縄と俵を前もって準備します。言うまでもなく、刈り取った米を速やかに上納するためです。庄屋は村人を集めて、その点の念をおすことになっていました。
 縄や俵を作るのはたいへんな苦労がありました。俵詰めをした米は福岡の永蔵まで運ばれ、そこから一部は武士の給米に回り、一部は大阪まで運ばれて販売されます。買い取られた米はさらに全国各地に運ばれます。縄や俵ががんじょうでないと、途中で米粒が目こぼれすることになり、高く売ることはできません。このため、一定の基準を示され、がんじょうな作りが要求されたのです。これには時間も手間もかかることになりました。
 特に、幕末期には家老立花弾正が「弾正縄」というものを考案し、農民はいっそう苦労することになりました。このため立花弾正は農民のうらみをかったということです。
箱崎・太宰府の祭礼
 八月十五日、二十五日は筥崎八幡宮と太宰府天満宮の祭礼です。毎度のことですが、この時も、改めて参詣の際に禁じられた贅沢品を身につけないようにと、村人は庄屋から注意を受けました。この日付は旧暦なので、現在は月遅れで祭礼が行われています。すなわち、この時の八月十五日の筥崎八幡宮の祭礼とは、九月十二日から十八日まで行われる放生会ほうじょうやのことです。
収納の日割り
 年貢の納め方について、庄屋は当月中に収納日割り帳面を大庄屋に差し出します。植木村を例に取ると、年貢米は一二七〇俵余。馬で往復するとして、馬は二俵を振り分けて運ぶので、延べ六三五頭を動員しなければなりません。収納は六回に分けて行うことになっていて、一回平均一〇六頭ということになります。何日から何日までという、収納の予定をあらかじめ書き出したのです。
【九月】
諸勧進の禁止

 勧進とは宗教者が一軒一軒回って、お金やお米を集めること。時には乞食を含めて、勧進と呼ばれることもあります。宗教者がお金やお米を集めるのは、寺院・仏像の建立や修繕のため。それらを負担する民衆の側では、求めに応じて金品を提供することで、死んだ後、生前の善事によって極楽往生したいという願いがあったのです。村には、宗教者だけでなく、芸能者や行商人などさまざまな人たちが出入りしていましたが、年貢納入を控え、「諸勧進留とめ」の高札が村の入り口に立てられました。
 村人が年貢納入に専念するための、いわば環境作りです。
払方米の記録
 年貢取り立ての払方米はらいかたまいは、庄屋が十日ごとに調査し書き上げておくよう求められました。個々人の納付する年貢量はあらかじめ通達されています。自分の負担すべき分を納め終わることが皆済かいさいです。一番皆済は郡奉行により表彰されました。優良納税者の表彰制度があったのです。その前提として、当然ながら皆済者のチェックが行われていたのです。
地頭納め
 これはすでに述べた通り、季節ごとに、村は知行主の侍に決められた物品を納入することになっていました。規定では、地頭納めは年末と五節句の時ですから、九月九日の重陽ちょうようの節句がこの場合にあたります。
他払いの禁止
 年貢・諸上納が終わるまでは決して他払いをしてはいけないということが村中に達せられました。
 収穫した米は一粒一粒を選り分けて、最も質のよいものは年貢に回されます。年貢納入を終わらない内に、米俵を動かしては、本来年貢に回されるべき良質の米を他払いしたのではないかと疑いをかけられることにもなったのです。村外へ販売したり、返済したりするのは、あくまでも年貢を納め終わってからの話でした。

《まちの史跡めぐり》第101回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり ⅩⅠ

まちの史跡めぐり 第101回 (『広報すえまち』457号 2005年8月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(12)

村の一年(続き)


【六月】
菜種

 菜種の産出量についての報告が求められています。
 昨年、大坂表に菜種を送って販売したものがいないかどうか。それから、今年の菜種の出来高はどれだけか。その石高を二十九日までに報告しなければなりません。
 須恵町域での江戸時代の菜種の産出量はわかりませんが、明治の初め頃には次のようでした。菜種の量を石高で、その売り上げを円で表現しています。当時の一円は江戸時代の一両に当たります。
 佐谷村  六八石◆四二五円
 上須恵村 一二石◆六〇円
 須恵村  二〇石◆一二五円
 新原村   三石二斗◆一四円一〇銭
 植木村  四〇石◆二〇二円五六銭
 本合村  一四石◆六一円七〇銭
 旅石村  三二石◆二〇〇円
 七か村合計 一八九石二斗◆一〇八八円三六銭

 菜種からは種油が作られますが、その業者は須恵、新原、本合、旅石にいました。その産出量は次の通りです。
 須恵村 二〇斤◆六〇〇円
 新原村  五石◆一三円一二銭
 本合村  九斗◆二三円六二銭
 旅石村  九石◆一五七円五〇銭
 四か村合計 三四石九斗◆七九四円二四銭

止宿証拠
 十二月以後の止宿証拠を二十日までに取りそろえ、大庄屋に差し出すように、と定められています。
 止宿は宿に泊まることですが、この場合、村であって宿場ではないので、本来の宿を指しているわけではありません。村人が旅人を、しかも長期に泊めることはないにしても、親戚を止めたり、日が落ちて途方にくれた旅人を人助けのつもりで泊めるということはあったでしょう。
 その場合、旅人の身元を確認するために、止宿証拠(宿帳のようなもの)を書き留めておく必要があったのです。名前と住所と、通行手形を持っているかどうか。持っていなければ、不審者として役人に届け出ねばならないでしょうから、泊めた人物が通行手形を持っていることは前提です。その内容を写し取ったものが、止宿証拠ということになります。
 庄屋にはその都度報告が来ているわけですが、大庄屋を通じて藩に報告されるのが年に二回だったということになります。
 須恵村、上須恵村は農村であるにも関わらず、特別に旅人の長期滞在が許されていました。言うまでもなく、高名な眼科医を中心に眼療宿場が形成されていたからです。目の治療を求める人たちは九州を中心に全国各地から訪れ、しかも長期間の滞在を余儀なくされていました。このことは別にふれたいと思います。
【七月】
 七月は冬季懐婦臨月帳を五日までに養育方へ差し出すこととされています。
 もうひとつは、地頭納めのこと。七月はお盆の行事に必要なものを村から地頭(知行地を持っている侍)に差し出します。
 以上は、すでに触れたことの繰り返しです。
直津出じきつだし庄屋請合うけあい
 津出しとは年貢を納めることを言います。直津出しですから、村が直接、侍のところへ持参するという意味でしょう。
 この項目をもう少し詳しく見ると、「御給知ごきゅうち」、「定為替じょうがわせ御足おんたし」、「御自分納ごじぶんおさめ」についての規定で、共に直津出しを庄屋が請け合った分について、書上帳かきあげちょうを当月限り、提出するよう決められています。
 武士の給与形態には「知方」と「扶持方」とがあることは、第九四回ですでに触れています。知方は「~石」と表現し、村に領地を持っています。時代による変化はありますが、基本的には領地から年貢を届けさせることになります。扶持方は「~石~人扶持」と表現し、藩の蔵から米を支給されるのです。
 知方の中でも家老クラスの武士になると、村をまるごと領地にしていて、しかもそれが何か村にもまたがっています。このような身分の高い武士は家来を多く抱えていて、年貢は自分の家来を使って収納させることになります。これが「自分納め」です。
 御給知は村に領地を持つ武士のことで、家老クラスほど身分が高くないので、年貢収納の事務を行うスタッフを抱えていないのです。このため、庄屋が代行しています。
 定為替御足は少し説明がいります。「御足」は給与の計算方法が変わったために、実収に不足額が生じた侍に、その不足分を補うことを言います。「定為替」は為替ですから、年貢を現物で移動させずに、為替(証券)として納めるのです。侍の方ではその為替を藩の蔵や商人のところに持ち込めば現物の米と交換されることになりますが、現実には換金されていたことと思われます。
 いずれにしても、年貢徴収方法は村によって違いがあったために、秋の刈り取りの前に見通しを立てておく必要があったのです。

《まちの史跡めぐり》第100回 村の一年(続き)

カテゴリ : まちの史跡めぐり Ⅹ

まちの史跡めぐり 第100回 (『広報すえまち』456号 2005年7月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(11)

村の一年(続き)


【六月】
 前回に続き、六月の庄屋の仕事です。
徳割帳の提出
 徳割帳と田畠出入でいり指引さしひき帳を二十五日までに大庄屋へ提出しなければなりません。田畠出入とは代替わりや、質入れ、災害などで持ち主や面積に異同が生じた時に、その内容を報告したものでしょう。言うまでもなく、秋の収穫を迎え、年貢を収納するための準備作業です。
 徳割帳は村で収める年貢の総量を、田畠・屋敷地の各人の持ち分に応じて、ひとりひとりに割り付けた帳簿です。「徳」は年貢を言います。
 ここで年貢について説明しておきましょう。私たちは「年貢を〈取られる〉」とよく言いますが、年貢はこちらから持っていくものです。「貢」は「みつぐ」とも読みます。漢字の本来の意味からも、年貢は下から上へみつぐ、たてまつるという意味を持っているわけですが、江戸時代の実際のあり方からもそうでした。
 関ヶ原の合戦の二年前、慶長三年(一五九八)六月に、石田三成が筑前国志摩郡在々に宛てた文書が残っています。そこには年貢収納の原則が示されています。
 全部で九項目ある中の五番目、六番目は次のようになっています。
一、年貢米五里ハ百性持て可出之事
  (年貢を納める際、五里以内は百姓の負担となる。)
一、五里之外者、百性之隙ニ飯米を遣持せ可申事
  (五里より遠い場合は、農作業の合間に運ぶようにさせ、必要な食事は支給する。)

 五里以内は百姓の負担で持参することが当然とされています。
 江戸時代には福岡城下簀子町に永蔵ながくらという、細長い蔵が建ち並ぶ一角があり、そこまで農民が年貢を運びました。
 村には軸帳があり、ここには村全体の石高(村高)と年貢率が書かれています。たとえば一〇〇〇石の村で年貢率が五〇%(これが五公五民)だとすると、五〇〇石が年貢となります。一石は三俵で計算するので、三斗三升俵(実際は三斗四升入っている)で一五〇〇俵。一頭の馬には二俵しか載せられないことになっているので(馬を痛めないため)、延べ七五〇頭の馬が福岡永蔵まで往復したことになるわけです。
 これでは永蔵までの距離が近い、遠いで不平等が生じます。それで近い村は年貢率を高く設定し、遠い村は低く設定することで、公平感を演出しました。
 さて、村全体の年貢量は村高×年貢率で算定できますが、問題はそれをどう個々人に割り振るかでした。
 そのために作成されていたのが検地帳と名寄なよせ帳です。検地とは田畠の面積を測り、そこに一反当たりどれだけの米が取れるかという見込みを決めて、一枚一枚の田畠から収穫できる米・大豆の量を決定します。これはあくまでも見込みであって、実際の収量はこれよりも多くなったり少なくなったりするのですが、多くなる(農民には得になる)ように設定される傾向があったのではないかと、私は考えています(でなければ、農民は承知しないでしょう)。
 田と畠の他に屋敷地にも年貢はかかります。屋敷地は畠と見なすことになっています。また、田は米で、畠は大豆で年貢量を書き上げますが、実際には大豆の替わりに米で収めることになっていました。これも村に残された米に余裕があったことを示しています。
 検地帳は測量の記録なので、田畠の並び順に記載されています。一人の人間の持つ農地があちらこちらのページにバラバラに記載されることになり、個々人の負担する年貢を計算するには不便です。それで、一人一人の持ち分を一覧できるようにまとめ直したのが名寄帳です。現在の税の計算などでも名寄せという作業は行われているようです。
 ついでに、一定の面積を持つ土地を「一筆いっぴつ」と言い、それを分ける「分筆」、合わせる「合筆がっぴつ」という言葉は、検地帳に由来します。検地帳には土地の所在地、田畠のランク、面積、石高と所有者(年貢負担者)が一行に書き込まれています。それで一枚一枚の田んぼを一筆と呼ぶことになりました。その習慣が今も残っているというわけです。
 名寄帳から各農民の持っている一枚一枚の田畠の年貢が判明しますので、それを合計すると、個人の負担すべき年貢の量がわかります。それを書き込んだのが徳割帳です。
 災害で荒れ地になったような田畠があれば、その分の年貢は差し引きます。そうした異同があるために、毎年徳割帳を作成し、確認する必要があったのでしょう。
 徳割帳に記された各人の年貢高を、一人ずつ書き出して本人に手渡しておきます。これが年貢の通知になりますが、実際に年貢収納が始まると、皆済かいさい(年貢を納め終わる)まで通い帳として利用することになります。収めるたびごとに年貢の残高がいくらと書き込まれていて、最後にすべてを収め終わった時点で、合計額に庄屋が印を押し、皆済の証明とする(領収書となる)ことになっていました。

《まちの史跡めぐり》第99回 村の一年(続き)

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まちの史跡めぐり 第99回 (『広報すえまち』455号 2005年6月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

江戸時代へようこそ(10)

村の一年(続き)


 二回、絵葉書の紹介をはさみました。再び、『村役人心得』を続けます。
【五月】
 『村役人心得』で五月の項に挙げられているのは次の五つです。
  妊婦の調査
  地頭納め
  春普請の決算
  田植
  用水の分配
 この内、「地頭納め」についてはすでに触れました。「妊婦の調査」は二月が「夏季懐婦臨月帳」だったのに対し、今回は「秋季」出産予定者の分です。
春普請の決算
 春(一~三月)の普請はすでに終わっています。春普請を完了し、大工の支払いはいくらだったというような、決算書類の提出です。その工事は「御免用春諸普請」と呼ばれています。農閑期に行う、ため池などの工事です。
田植、用水の分配
 旧暦の五月はほぼ現在の六月。梅雨に入り、田植えの季節でもあります。田植え(田方根付け)が済んだことを庄屋は大庄屋へ報告しなければいけません。
 旱魃の年には田方分水(用水の分配)が問題になります。川やため池の水は、上流から順次水を田へ引き込んでいきますが、上流から下流までの村々の間に契約が成り立っていました。
 何月何日の何時から何時まではどの村が水を取る。それが終わると、次の村が……という具合です。農民達が自分の都合で判断すると(文字通り《我田引水》ですね)、何ヶ村もが対立する大騒動になります。庄屋は村と村との約束事を守ると同時に、村内の農民の間に不公平が生じないよう、用水の分配を管理していました。
【六月】
博多祇園会

 六月は博多祇園山笠の月。現在七月に行っているのは、旧暦から新暦に切り替えた時に、月遅れの行事になったためです。本来は六月十五日が追い山ということになります。
 毎度のことですが、博多の祇園祭に見物に出る時は、禁止された品を用いないよう、改めて庄屋は村人に徹底しておかねばなりません。違反したらどうなるか。庄屋は村人への管理責任を問われることになるのです。
根浚い・水当て
 田植えをした後の管理がまた大変です。草を抜いたり、水の量を加減したり……。絶えず田の見回りをしなければなりません。
蝗害の防止
 蝗イナゴが発生しそうだと見えたら、手遅れにならないよう、庄屋が指示して早めに鯨油げいゆを注ぎます。虫を殺すために編み出された方法です。鯨油の手配が間に合わない場合は、すぐに藩に届け出るよう、細心の注意を呼びかけています。
 これは享保十七年(一七三二)から十八年にかけての享保の大飢饉の経験があったからです。ウンカが大発生し、稲の茎を食い荒らしていきました。虫が水に浮いて流れていく時、川の水の色が変色したと言われています。秋になって食べるものがなく、福岡藩では三〇万人の人口の内、一〇万人が餓死したと言われています。その人たちを供養したのが飢人地蔵うえにんじぞうで、中洲や石堂川べりなどに今も祭られています。西日本各地での餓死者は九六万人以上と、幕府の記録には書かれています。
郡夫
 郡夫は村単位で行う公共の土木事業よりも大規模なもので、郡全体から人夫を動員することを言います。今年の冬から来年の春にかけて、農閑期に工事を行う場合の郡夫の見積もりを報告するよう求めています。
 多田羅村(現福岡市東区多々良ほか)の六ツ田の例を上げてみましょう。
 この時は、多々良川南岸の干潟を開発して田地が生み出されました。指導したのは王丸彦四郎です。宝永元年(一七〇四)のことで、長さ七千九八六間の土手を築いて、三五町九反四畝二〇歩の新田が作られました。
 この工事では、土手が崩れないよう、工事を一気に進める必要があったらしく、王丸彦四郎は藩の許可を得て、表粕屋・裏粕屋・那珂・席田の四郡から七万人を動員し、五日間で工事を無事終了に導いたということです(糟屋郡志)。
 このように、建設業の専門業者がいたわけではないので、すべての公共事業は村々から人夫として村人を動員することでまかなわれていました。

《まちの史跡めぐり》第98回 ありし日の海軍炭鉱の風景

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まちの史跡めぐり 第98回 (『広報すえまち』454号 2005年5月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

海軍燃料廠採炭部絵葉書の紹介

ありし日の海軍炭鉱の風景


 前回に続き、石瀧の所蔵する海軍炭鉱の絵葉書(手彩色)の紹介です。



(写真4)第五坑作業場
 五坑は志免。作業場が見えるのは、現在シーメイトのある一帯と思われます。その背景に見えるのは現在も残る五坑ボタ山でしょう。



(写真5)西戸崎積込場
 掘り出した石炭は現在の香椎線で終点の西戸崎まで運ばれ、そこから船積みしました。人力で運んでいる様子が写っています。



(写真6)昭和御大礼記念奈多会館・従業員講習会(黎明の遙拝)
 昭和御大礼とは昭和天皇の即位を言い、昭和三年に奈多海岸に建てられました。炭鉱の厚生施設です。講習会は毎年十一月、およそ五〇人ずつ七日間宿泊して行われました。写真はその一こまです。

《まちの史跡めぐり》第97回 ありし日の海軍炭鉱の風景

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まちの史跡めぐり 第97回 (『広報すえまち』453号 2005年4月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

海軍燃料廠採炭部絵葉書の紹介

ありし日の海軍炭鉱の風景


 『村役人心得』は二回お休みして、石瀧の所蔵する海軍炭鉱の絵葉書(手彩色)を紹介することにしました。
 粕屋町・志免町・宇美町それに須恵町の糟屋郡南部四ヵ町に位置した旧海軍・国鉄炭鉱の歴史は明治二十三年(一八九〇)の(海軍)新原採炭所の開設に始まります。戦後は国鉄に移管され、昭和三十九年(一九六四)に閉山しました。今年は閉山から四一年に当たります。


(写真1)庁舎・病院
 海軍炭鉱の本部庁舎と付属の病院です。新庁舎の落成は昭和四年(一九二九)。玄関前はまだ整地されておらず、竣工直後の写真と思われます。本部庁舎跡には現在、志免町総合福祉施設「シーメイト」が建っています。


(写真2)青年団(第四坑運動場)
 運動会で体操をしているところです。四坑は新原にありました。


(写真3)第四坑々口・截炭機使用の状況
 トロッコで採掘した石炭を運搬していました。このトロッコは空なので、下るところでしょう。採掘現場では最新の機器を使い、かがんで作業をしています。
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