《町史のひとこま》第25回 須恵の眼科医④ 目養生の記録
カテゴリ : 町史のひとこま Ⅲ
須恵の眼科医④ 目養生の記録
町史のひとこま 第25回 (『広報すえ』183号 1982年8月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

眼療を乞う人数千人
上須恵の眼科医・田原家のもとへ、全国から治療を求める患者がかけつけていたことを、江戸時代の地誌『筑前名所図会ずえ』(奥村玉蘭著)は次のように書いています。
▽田原氏の宅 上須恵村田原氏の祖は養卜ぼくという。眼療医にして、其の名海内かいだい(=日本国中)に高し。三都(京都・江戸・大坂)は云うに及ばず、東は奥州西は薩摩より、眼療を乞う人、当まさに数百千人、来たりて寓居ぐうきょす。
このように、繁華を極めた京都・江戸・大坂から筑前まで治療に来る人があったことがわかります。中には奥州(陸奥むつ、青森県)から来る人もいましたが、その頃の旅行の不自由さや交通事情を考えれば驚くべきことです。
『名所図会』では、続けて、「此の須恵村は、山里の片田舎なれども、正明膏しょうめいこうあるがゆえに都会の地のごとく繁昌せり」と言っています。ここで言う須恵村は上須恵村をさしているのです。
全国から患者を引きつける須恵村の秘密、それを「正明膏あるがゆえ」と言うのは、正明膏が当時いかに高い評価を受けていたかを思わせます。
広瀬淡窓の日記から
日田の広瀬淡窓たんそうと言えば、高野長英や大村益次郎などすぐれた弟子たちを多く輩出した私塾・咸宜園かんぎえんの先生として有名です。多数の塾生の切磋琢磨せっさたくま、試験による進級制などユニークな教育で知られた淡窓ですが、淡窓二十八歳の日記に当時の上須恵村のようすが記されています。
▽文化六年(一八〇九)
五月 予(=自分)、既に須恵に至り、藤助というものの家に投宿す。翌朝、田原氏を訪おとのうて診察を受けたり。……
九月 須恵の人家数十。皆、農戸にして、兼ねて旅人を留とどむることを業とせり。田原氏大医にして、四方より来り留まって治を乞う者多し。此の時も旅人七、八十もあり、藤助が家にも、十余人ありて同宿せり。……予、須恵に留まること三十日。……
学者・広瀬淡窓は生来の病弱に苦しんだ人。目のわずらいもその一つで、上須恵を二度にわたって訪れています。殊に二度目の滞留は三〇日に及び、目の治療が即効性のあるものでないだけに、いかに長期の滞在を必要としたかがわかります。一般の治療客を考えた場合、道中・滞在期間をあわせると、長期にわたって仕事を休み、旅行や治療の費用もかさんだはずで、武士階級や庄屋クラスなどでないと、おいそれと治療にも来れなかったのではないでしょうか。
淡窓の泊まった藤助の家には十余人もの同宿者があったと言いますから、かなり大きな家だったはずです。
数えうた
酒殿の案浦イネという人が、上須恵に目の治療に来た時につくった「数えうた」があります。当時(明治時代でしょうか)の診療の様子がよくわかる内容です。
一、一人来られぬ連れられて
お目をば押さえしおしおと
上須恵村をば訪ねくる
二、古き昔も今とても
変わらぬ目医者は田原様
訪ねて来るのが諸国から
三、さても退屈旅の空
右も左も皆他人
居おると思えば辛気しんきなや
……
八、宿の亭主に手を引かれ
田原様へと連れて行ゆき
診察なされて連れ帰る
……
二〇、日本で名高い田原様
ここで治らにゃ是非もない
前世の業ごうじゃと諦あきらめる
……
二五、御門の外には薬師様
養生患者が参詣し
朝から晩まで絶え間ない
……
二八、八時に起きて御飯食ベ
コンとなる鐘待ち受けて
出て行く人々点眼に
(『老倶たより』*1から)
患者を診察に連れて行くのは宿の主人の役目だったことや、朝八時過ぎに、治療開始を告げる鐘の音がなっていたこと、田原眼科に見てもらうのが患者にとって最後の頼みの綱だったことなどが、数えうたにあらわれています。
- 注1 『老倶たより』三十三号、昭和五十六年一月一日、須恵町老人クラブ連合会広報部発行

