【近代史のファイル】=近代史をテーマにした作品を収録しています。
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孫文と福岡(4)

カテゴリ : 孫文と福岡

〔3・13〕雑報 ○孫逸仙氏の旅程
孫逸仙氏一行は、来る十七日午後三時三十二分下り列車にて来福、水茶屋常盤館に投宿、十八日午後四時より川路知事・山田旅団長・湯浅裁判所長・神崎県会議長及び市長・市会議長・商業会議所会頭等の主催に係る、西中洲公会堂に官民連合歓迎会に臨み、十九日午前八時熊本に向け出発の筈、因に歓迎会々費は一円にて此際成るべく多数の来会を期する由、

〔3・14〕雑報 ○孫氏と筑豊鉱業家
不日来県すべき中華民国孫逸仙氏歓迎に関し、曩(さき)に筑豊鉱業組合の名を以て同氏を門司倶楽部に招待の筈なりしも、旅程取急ぎの為め右は中止し、安川・貝島・松本・麻生・中野・伊藤・堀七氏の連合にて、来十七日福岡着当日午後六時より東公園一方亭に招待の筈にて、同所嵯峨〔ママ〕経吉氏は専ら準備中なるが、同亭門頭には日華両国々旗を交叉し、玄関には赤地「歓迎孫氏」と金文字し縁に電灯装飾を施したる長五尺の扁額を掲げ、宴会場なる階上の大広間天井には民国々旗に因(ちなみ)て径五尺許(ばかり)の円形五色の彩灯二個を吊るし、室の周囲に彩色硝子(ガラス)の装飾を施こし、室外表通りには両国々旗五十流を交互に吊るし、同室及控室には安川氏外各主催者の秘蔵せる珍什佳品を配置する等、最も意匠を凝らしつゝあり、

〔3・17〕雑報 ○関門に於ける孫氏一行
孫逸仙氏は秘書官戴天仇及何天炯(かてんけい)・馬君武・宗(ママ)嘉樹(かじゅ)・袁華選(えんかせん)氏等を随へ、宮崎滔天氏等と与(とも)に宮島より昨十六日午前五時五十分下関停車場着、プラツトホームに待受けたる小林下関市長・宝辺(たからべ)同市会議長・内田下関商業会議所会頭・市参事会員・市会議員・杉下関水上署長・新聞記者其他官民数十名の歓迎を受け、直(ただち)に山陽ホテルに入り、楼上にて歓迎者の訪問に接し、少憩後一行と与(とも)に食堂に入り、朝餐を終へて暫時休憩し、此間新聞記者其他に対し会談したり、氏は載(ママ)天仇氏の流暢なる通訳に依り記者等に対し例の荘重なる態度語調を以て語つて曰く、
 今回予の貴国訪問に際し、長崎上陸以来各地を歴遊せるに、到る所熱誠にして盛大なる歓迎を受けしは、今将に貴国を去らんとするに方り予の深く感謝して措く能はざる所なり、是れ貴国人の博愛の同情を以て世界の平和の為め、又た東洋の平和の為め弊国人に好意を表せらるゝ証拠にして、予は一私人のみならず民国の人民一同に代りて感謝の意を表せざるべからず、貴国人と弊両(ママ)人の間には一部誤解を懐きし者なきにあらざるも、唇歯輔車の両国間に於ては、互に博愛親密の精神を以て平和の為に提携協力せざるべからず、而(しか)して両国の親密は之を実行の上に現はさゞる可からず、今後民国に於ては、商工業其他国富の増進に事業の計画を要するもの多々あることなれば、提携協力以て其の発展を期せんことを望む、今回貴国人の予等一行に寄せられたる誠意好情は、予帰国の上は必ず普(あまね)く之を全国民に伝ふべし、而(しか)して感謝の趣旨は亦貴国人一般に伝へられんことを望む、云々、
話頭は鉄道其他に及びたり、一行休憩中、下関市よりは菓(ママ)物一籠、下関商業会議所よりは菓子一箱を何(いずれ)も贈呈したり、斯(か)くて出迎への汽艇は八時二十分門司鉄道桟橋着、安川清三郎・加納九鉄営業課長・岩崎門司水上警察署長等の出迎ひを受け、一行徒歩にて電車通に至り特別電車にて戸畑に向ひたり、

同 ○戸畑に於ける孫氏一行
門司上陸後の孫逸仙氏は岩橋(ママ)水上警察署長に迎へられ、安川清三郎・加納九管(ママ)営業課長等と共に、八時二十五分停車場前より安川家借切の軌電九車に乗り、戸畑に向ふ途中小倉より松本九軌支配人乗り込み、八時五十分三六停留所にて一同下車、其れより孫氏及び安川氏其他数名は自働(ママ)車にて、外は腕車(わんしゃ)にて午前九時明治専門学校々門に着し、安川敬一郎氏・的場校長以下職員諸氏に迎へられて校長室に入り、其れより校長以下諸教授の案内にて各教室・工場等を順次参観し、諸教授の説明、各種の実験等あり、十一時運動場に至り、当日は日曜なるに拘(かかわ)らず特に外出を見合せ此珍客を迎へし約二百の生徒等が勇壮なる発火演習と分列式を観、其れより職員生徒の方陣に囲まれ、随員載(ママ)氏の通訳にて大要左の如き演説をなし、終つて一同と共に安川邸に入り、午餐入浴の後休憩したり、
 余は本日当校を参観し、生徒諸氏の兵式体操を見て其規律あるは痛感に禁(た)へず、却説(さて)余は深く今日世界の文明は科学の力に俟(ま)たざるべからざるを信ずるものなるが、当校は由来科学上の進歩発達を図らんが為めに設立したるものなり、然るに貴国に当校ありて諸氏が当校に在学せるは、啻(ただ)に貴国進歩の為めなるのみならず、又東洋科学の進歩の為めなる事を知らざるべからず、されば余は諸氏に望む、諸氏は将来貴国の科学興業の責任を負ふのみならず、又東洋発展の為め大なる責任を負ひたるものなり、故に余は此点に於て東洋の為め実に欣喜に堪へざるなり、最後に当校の進運を祝すると共に諸氏が斯(か)く各其志す処を大成せられん事を祈る、

同 ○孫氏歓迎余話
孫逸仙氏昨十六日朝山陽ホテルに休憩中、記者孫氏に対し、日本の鉄道御視察に関するに感想如何と問へば、氏は呵々笑つて曰く、ドウも到る処盛大の歓迎に殆(ほと)んど寸暇なく、実は鉄道視察も今回来遊の一の目的なりしも特に視察と云ふべきは東京にて中央停車場を視たる位のものにて、其他は往復旅行の汽車中の視察位に過ぎず、お話する程の事もありません▲宮崎滔天氏は関門間の船中にて語つて居つた、一昨日孫氏が宮島に於て神戸クロニクルを手にしながら、数日前のノースチヤイナデリーニユウズに東京電報として、北京より孫逸仙氏が日本に滞在するは不可なる由を在東京同国汪代表(宛脱カ)打電したるより、汪代表は日本政府と交渉の結果、遂に日本を退去するに至れり云々の記事を、更に神戸クロニクルに転載せるを見て荒唐無稽も茲に至つては殆んど噴飯に値すと、孫氏は傍人を顧みて哄笑したりと、

同 ○孫氏十七日日程
安川邸に滞在せる孫氏一行は、本日午前九時四十分戸畑発八幡に向ひ八幡製鉄所を参観し、午後一時二十分同駅発午後一時二十分同駅発(ママ、重複)午後三時三十分博多駅着の予定なり、

同 ○孫逸仙氏講演
本日来福すべき孫逸仙氏は明十八日午後三時より九大学友会の求めに応じ、病院等を視察したる後同大学図書館に於て一場の講演を為す由、一般有志も参聴自由なりと、

孫文と福岡(3)

カテゴリ : 孫文と福岡

〔2・9〕雑報 ○瑛胡(ママ)来着期
本邦来遊中なる支那屯墾氏胡瑛(こえい)は、十日夜大阪発、十一日若松(ママ)安川家に一泊、十二日午前十一時四十分博多着の列車にて福岡に来遊し、同日の夜行列車にて孫逸仙(そんいっせん)出迎へのため長崎に赴く予定也、

〔2・12〕雑報 ○胡暎(ママ)氏一行来着
民国毛(ママ)墾使胡暎(ママ)氏一行は、予定の如く明十三日長崎来着の孫文氏一行出迎への為め、昨十一日午前九時三十八分、鉄路神戸より下関着、直(ただち)に予(かね)て出迎へたる戸畑安川氏の家族、其他数名と共に、特に門司港務部より借入れたる汽艇神風丸に搭乗渡門、門司鉄道桟橋待合所に少憩、特別借切電車にて戸畑に赴き同地専問学校の視察を為し、夫より安川氏(ママ)に入りたり、一泊の上本日長崎に向ふ筈、

〔2・14〕雑報 ○孫逸仙氏と語る
長崎上り二時三十三分の列車を鳥栖駅に迎ふ、列車の最終尾なる展望車に入る間もあらず、孫逸仙氏等の一行、熊本に向へる胡瑛氏一行と分れて車中に入り来る、孫氏の外かねて見知り越の戴天仇(たいてんきゅう)・山田純三郎氏等も亦一行の中にありて、来べかりし筈の前司法大臣王寵恵(おうちょうけい)氏はあらず、十三師団の参謀袁(えん)・参議院議員宋(そう)の二氏新(あらた)に加はれり、孫氏に対して曾(かつ)て我紙に寄せたる好意を謝し、携へ来れる孫氏肖像入りの本紙を呈すれば、莞爾として御礼は当方よりこそ申すべけれ、貴国は政変時に際して新聞記者は最も多忙なる時なり、遠方の接迎感激尽きずと答へ、長崎着の時間狂ひて彼(かの)地にては我国領事の外何人とも相見ざりきと語る、其面持ち昨臘(ろう)贈られたる写真に比して稍や痩せ、フロツクコートの肩のあたり何となく殺(そ)げて見え、手頸(くび)に捲きたる金時計の光冷たし、今日は新聞記者としての応接なり、記者の外に朝日・九州日報等の同僚もあり、何にもあれ時事談を承はりたしと云へば、匆忙(そうぼう)の際なり近き中に又見るべし、第二の故郷たる日本の春こそ快けれと顧みて他を語る、乃(すなわ)ち「中国革命史」に孫氏の自署を請ひ受けたる後、其れと推して食堂に避けて待つ間も無く、宮崎・山田・馬君武(京都帝大工科出身にして南京政府の実業次長)及び大阪より長崎まで出迎たる大毎新聞の佐藤君と共に食堂に入り来り卓を囲んで寛談す、孫氏、卓上の落花生に砂糖かけたる菓子を取りポロポロと囓ぢりながら、新聞記者としての君に対しては我が来遊の目的は単に観光の為なりとのみ告げん、未だ入京せざる中途詳しき談話は甚だ迷惑なり、又政論を試みんも好ましからず、君は弊邦の事に精(くわ)しく我が今日の境遇をも問はで知りたらん、近日再会の機もあるべし、是非に発表したき意見もあれば、其は載(ママ)君をして書を致さしめん、今日は久闊をこそ叙すべけれと語る、此時隣座の山田君我を顧みて政変の次第、山本内閣の閣員予想に就いて日本語もて問答するに、孫氏は耳を傾むけて、貴国の政変に血を見たるは聞くも憂(う)たてしと挿(さしはさ)む、否、憲政の完美のために流す血なり、不幸なる死傷者自らも亦以て慰むべしと我抗(あら)がへば、孫氏微笑して点頭し、只無辜の人の血を見たくなしとの意なりと云ふ、傍の宮崎君又言を挿みて尾崎行雄君は司法大臣に、犬養毅君は逓信大臣には擬せられ居ると云ふにあらずや、彼等も天下を取れり、我等も天下を取らざらんや、百二百の犠牲何かあらんと豪語し、更に英訳して孫君に告ぐれば卓を繞(めぐ)れる各人一斉に勧笑す、此より英・日・支那三国語をチャンポンにしたる異様の言語もて食卓に時ならぬ花を咲かすれば、彼の国会歓迎会に孫氏一派が関係あるやう北京に伝へられて大に迷惑せる事、江西都督李烈鈞(りれっきん)が醸(かも)せし紛擾も其実は憂ふるに足らず、又李都督のみを責むるは酷に過ぐることなどの談より、新聞紙の偉力の称賛となり新聞記者道徳論となる、我(われ)山本内閣成立すると仮定して、山本内閣に対する貴邦人の感想如何(いかん)と質(ただ)し、孫氏何事をか之に答へんとする際、汽車生憎(あいにく)も博多駅に着す、乃(すなわ)ち孫氏に請ふて展望車外に出で写真を撮影せんことを請へば、孫氏快く諾して馬・載(ママ)・何・宮崎・山田氏と共に車外に出で、我社員の指向(さしむけ)たる写真器のレンズ中に入る、駅頭には福岡県庁・福岡市役所・博多商業会議所等の各代表者等の歓迎者多数ありき、尚ほ孫氏一行は昨日午後五時廿五分、門司着、水上署の特別差立の汽船筑紫丸にて渡門、山陽ホテルに少憩の後、七時十分下関発京都に向ひし筈なり(澤村生)

同〔掲載写真〕博多駅停車中の孫逸仙氏(中央孫、右馬君武、孫の左に顔を出したるは宮崎滔天)

〔2・15〕雑報 ○胡瑛氏歓迎会
九州遊歴中なる胡瑛氏一行の福岡来遊を期とし、市役所・商業会議所・九日福日両新聞社発起にて、十六日午後五時より水茶屋常盤(ときわ)館にて其歓迎会を催す筈、出席希望者は本日中に商業会議所に申込むべし、尚(なお)氏は同夜福岡一泊の筈なり、

〔2・17〕○来福せる胡瑛氏
来朝中なる中華民国屯墾使胡瑛氏は、昨日午前五時三十分熊本より来着、松島屋に当時、暫時休憩の上午前十一時同旅館を発し、天神町(てんじんのちょう)平岡良助氏の邸に至り、故浩太郎氏の未亡人等と撮影し、夫より大名町の中野徳次郎氏、西職人町の玄洋社、西公園、市外住吉末永茂世氏等を歴問し、博多聖福寺内の故平岡氏の墓を弔ひ、午後二時三十分東公園一方(いっぽう)亭に至り同所に於ける中野・平岡氏等の招宴に列し、午後五時より水茶屋常盤館に於ける市内有志者の招宴に臨みたり、

〔2・18〕○胡瑛氏一行招待会
中華民国屯墾使胡瑛氏一行は、既報の如く一昨日市内各所訪問の後、午後三時より東公園一方亭に於ける中野・平岡二氏及び玄洋社の主催に係る招宴に臨みたるが、来賓側には胡瑛・周慶慈(しゅうけいじ)・余長輔(よちょうほ)・彭毅(ほうき)外数氏、並に川路福岡県知事、永田・馬渡・大島各事務官、横地連隊長・日野少佐・秦市助役、九日・福日両新聞社社員其他数氏あり、席定まって中野徳次郎氏主催者側を代表して簡単なる挨拶を述べ、次いで川路知事彼我両国親善の意を陳(の)べ、酒間胡瑛氏起ち一行中周慶慈氏の通訳を以て答辞を述ぶ、斯くて主客歓語多時にして散会、更に午後七時より一般市(ママ)有志者の催せる常盤館に於ける招宴に臨みたるが、此処にも川路知事始め前記諸氏の外五十余名出席小野市助役主催者側を代表して歓迎の辞を述べ、少時にして胡氏亦起つて左の答辞を述べ、午後九時散会せり、因に氏等一行は昨日午後三時廿一分博多発列車にて東上の途に就きたり、
 孫逸仙先生を長崎に迎接し途たまたま此地を過ぎるに方(あた)り、予が為に此の盛大なる歓迎会を催されしは予の感激了(おわ)るを得ざる所なり、九州の地、特に福岡と敝(ママ)邦との交通は往昔甚だ頻繁なるものあり、史蹟歴々として徴すべし、近ごろ十数年来、敝邦に対し九州人士の暗に之を援助し以て、一昨秋の革命を完成するを得せしめられたるは、敝邦人悉く感謝措(お)かざる所なり、而(しか)して敝邦は今や革命を遂行し得たりと雖(いえども)、百瑞ともに興るを俟(ま)つ、兄分たる貴国の指導協賛を得るに非ずんば全からんこと難し、凡(およ)そ亜細亜(アジア)に国するもの数邦あれども、東亜に位地(ママ)して其眉目を為すものは貴邦と敝邦とあるのみ、貴邦と敝邦とは同種なり、同文なり、又同洲なり、二邦提携せずして可ならんや、理応(まさ)に提携すべき也、然れども談何ぞ容易なるといふ語あり、同種同文同洲なるが故に提携すべしとの論を聞くは久しけれども、既往に於ては空論に了らんとせしこと少からざりき、予の今日諸君に切望する所の者は実々在々の提携なり実々在々の協助なり、而して提携協助を実行するの捷(しょう)径如何、曰く、商工業上に於ける関係を層一層密接ならしむるに在り、凡そ近世の文明の発達は科学の力に待たざること無し、敝邦の科学の発達及び人智の程度は貴邦に比し遜色甚し、此点に於ても兄分たる貴邦は、敝邦を啓発さるゝの義務ありと信ず、科学の力に頼る殖産興業は実に敝邦今日の急務にして、之が為めには貴邦人の援力を請ふと共に、敝邦人は之に酬ふるの途を忘れざるべし、予一人にても苟も計り能ふ所の便宜は、今後之を計るに躊躇せず、予日本語に熟せず、通訳を介しての演説は心肝を披瀝し悉さゝるの憾みあれども、言外の言、意中の意は略ぼ了得せられたりと信ず、敢へて多く言はず、冀(こいねがわ)くは国民的・経済的携帯(ママ)の実行に予が趣旨なるを記せられんことを、

孫文と福岡(2)

カテゴリ : 孫文と福岡

   孫文関係記事一覧
    * 「 」は見出し、( )は小見出しの別。
月・日
2・3「孫文渡日確定」「孫逸仙入京期」
2・4「孫逸仙待遇」
2・5「孫逸仙来着期」
2・7「孫逸仙来着期」
2・9「瑛胡(ママ)来着期」
2・12「胡暎(ママ)氏一行来着」
2・13「孫氏来遊目的」「写真、本日来朝の孫逸仙氏」
2・14「孫逸仙来る」「孫逸仙氏と語る」「写真、博多駅停車中の孫逸仙氏」
2・15「関門に於る孫逸仙氏」「胡瑛氏歓迎会」
2・16「孫逸仙入京す」「孫逸仙氏歓迎」「孫逸仙氏歓迎会」「孫氏延命寺参詣」
2・17「孫氏と知人」「来福せる胡瑛氏」
2・18「孫逸仙歓迎会」「東邦協会の孫氏歓迎」「胡瑛氏一行招待会」「写真、孫逸仙氏の入京―新橋着当時の出迎人雑沓」「写真、帝国ホテルに於けり(ママ)孫氏」
2・20「大岡議長の孫氏歓迎」「両氏の辞令交歓」「写真、滞京中の孫逸仙氏―日暮里近衛公の墓参」
2・23「孫逸仙氏動静」
2・24「孫氏と日華学生」
2・26「北京宮の悲雲―隆裕皇太后の御事共」(孫氏一行の談・某支那通の談)
2・27「孫逸仙氏帰程」「孫氏歓迎会」
3・1「孫逸仙氏の電告」
3・2「孫氏と実業関係」
3・4「孫氏の首相訪問」「寺尾博士の対支談―二日福岡県教育会主催先賢追慕会に於る演説」
3・5「民国承認問題」「孫逸仙氏歓迎」「寺尾博士の対支談(承前)」
3・8「孫逸仙氏旅程」
3・9「孫氏一行来着」
3・10「孫逸仙氏入洛」「孫と香港日報」
3・11「日華国民連合会の活動」
3・13「孫逸仙氏の旅程」
3・14「孫氏歓迎の影響」「孫氏と筑豊鉱業家」
3・16「孫逸仙氏出迎」「孫氏の海軍見学」
3・17「孫逸仙氏の答詞」「関門に於ける孫氏一行」「戸畑に於ける孫氏一行」「孫氏歓迎余話」「孫氏十七日日程」「孫逸仙氏講演」「孫逸仙氏小伝―本日午後来福すべき(写真)」「歓迎孫逸仙先生来博(クラブ歯磨広告、写真)」
3・18「孫逸仙氏一行―昨日午後三時半来福」(安川邸にて・製鉄所参観・列車内の孫氏一行・福岡来着・孫氏代理の来社・孫夫人等遭難・本日の日程)
3・19「孫夫人経過」「孫逸仙氏一行」(午前中の行動・旧友会の招待・九州大学参観・公会堂の歓迎会・本日の日程)、「寺尾博士と宮崎氏」「写真、福岡医科大学講話会に臨みし孫逸仙氏(昨日所見)」
3・20「孫逸仙氏一行」(列車中の一行・三池港其他観覧・宮崎家訪問・万田坑を見る・熊本の日程)、「孫氏講演と歓迎」(九大に於る講演・公会堂の講演)、「不体裁なる歓迎会」
3・21「孫逸仙氏一行」(工業学校参観・晩餐会・大牟田出発・熊本駅着・熊本見物)
3・22「孫氏の熊本出発」「長崎に於ける孫中山」「宋教仁狙撃さる」
3・23「孫逸仙氏一行」「写真、狙撃されたる宋教仁氏」
3・24「孫逸仙氏一行」「孫氏の日支親睦論」「宋教仁氏」「嗟乎宋教仁氏」 * 以上二つは三月二十日上海で狙撃され二十二日死亡した宋教仁の訃報。以後続報相次ぐが割愛する。
3・28「孫逸仙氏帰着」「宋教仁追悼会」
3・30「日華国民会成立」

孫文と福岡(1)

カテゴリ : 孫文と福岡

『福岡地方史研究会会報』第21号〔1982年4月30日、福岡地方史研究会発行〕より

資料紹介
    孫文と福岡(一)

                           石瀧豊美

 辛亥革命に助力した日本人は多かったが、殊に福岡県では玄洋社の人々や筑豊の炭鉱経営者たちの与えた援助が知られている。ただ、これらの福岡県人と辛亥革命の関わりについても、わかっているのは通りいっぺんのことであって、具体的な事実についてはほとんど解明されていないのではなかろうか。私が知りたいのは事実である。
 福岡県所在の孫文関係資料を集め、記録にとどめることを本稿の目的としたい。孫文関係の資料を追うことで、ひいては孫文と玄洋社・筑豊鉱業家との関係を、その細かいひだに至るまで、見きわめたいものだと思う。先ず、大正二年二・三月の孫文訪日関係記事を、当時の福岡日日新聞からひろってみる。(他に、孫文の動向に関連するものも、合わせて採用した)
◆             ◆
 中国では十月十日を双十節と呼ぶ。武昌(今、湖北省武漢市の一部)に辛亥革命の火ぶたを切った記念日である。今年(昭和五十六年)はちょうどその七十周年にあたる。
 中国革命同盟会の結成(明治三十八年八月)から辛亥革命(同四十四年十月)に至る過程で、宮崎滔天をはじめ、革命派を支援した日本人には九州出身の人々が多かった。中でも福岡県では、玄洋社が組織をあげて孫文を支援していた。その人たちの名は、枚挙にいとまがないほどである。亡命中の孫文の生活を支えていたのは、筑豊の炭鉱経営者が提供した資金であった。このように、「孫文と福岡」は、中国近代史や日本近代史といったレベルだけでなく、福岡地方史の分野でも興味深いテーマである。
 辛亥革命の直後、中華民国臨時大総統に就任した孫文は、在任二カ月余にして袁世凱にその地位を譲る。中華民国元年、明治四十五年三月(七月、大正に改元)のことである。翌大正二年二月十三日、孫文は前・国家元首としての栄光につつまれて来日、三月二十三日帰途につくまでの三十九日間、行く先々で歓迎の人波にもまれたのだった。この間、福岡県内では戸畑・八幡・福岡・大牟田の各地を訪れた。八幡製鉄所や三池炭鉱を視察し、明治専門学校・九州大学・三井工業学校を見学した。殊に福岡市では西職人町の玄洋社を訪問し、聖福寺と崇福寺に革命を支援した玄洋社員の墓参を行った。

中山紀念碑 中山は孫文の号。孫中山と言った。

孫文生誕百年を記念した「中山紀念碑」(福岡市南公園)

 孫文来日の直前、二月十日には東京日比谷の内閣弾劾国民大会が騒擾化し、焼打ちにまで発展して軍隊が出動した。孫文の来日中には、上海で宋教仁(国民党指導者の一人)が袁世凱の手で暗殺されるという事件が起きた。日本も中国も政変のさなかであった。この年七月には袁世凱打倒の第二革命が失敗、孫文は黄興とともに日本に亡命するのである(九月七日)。この孫文来日の当時は、革命派と袁世凱の妥協が成立していた時期だったが、一方では不安な序奏が聞こえ始めていたのでもあった。
 記事転載にあたり、次のとりあつかいをした。
①旧字体は新字体に改めた。次のように、同音の当用漢字でおきかえた場合もある。「聯→連」
②ルビは原文によらず、必要なものだけ新たに付けた。ルビは新かなづかいに従っている。……(補足 ルビは( )内に移した。)
③原文には句点はなく、読点はあるがその数は少ない。新たに読点のみ補って読みやすくした。また、単語が並んでいる場合は中黒を付した。
④孫文記事一覧のうち、福岡県関係分(ゴシック体で区別)だけを掲載した。……(補足 ゴシック体を太字に替えた)
⑤新聞は、福岡県文化会館所蔵の福岡日日新聞(大正二年二・三月分)を利用した。……(補足 須崎にあった福岡県文化会館図書部は現在、箱崎に移り福岡県立図書館となっている。当時は新聞の原紙を閲覧できたが、今はマイクロフィルムでしか見ることができない)

竪坑櫓 №2 2007/05/11

カテゴリ : 今日の竪坑櫓

竪坑櫓009
「わが家の蜂の巣 増築中か?」

竪坑櫓010
「夕焼けの竪坑櫓。シーメイト駐車場から」

竪坑櫓011
「東側の張り出し」

竪坑櫓012
「南東方向から仰ぎ見る。」

竪坑櫓013
「南側に張り出したひさし」

竪坑櫓014
「ひさしを上へ」

竪坑櫓015
「ひさしの上の格子状の部分」

竪坑櫓016
「南壁と西側の張り出し」

竪坑櫓017
「もう一度、東側の張り出しを見る」

竪坑櫓018

竪坑櫓019
「ボタ山の間を夕日が沈む。ピラミッドが二つあるように見えるでしょう?」

竪坑櫓020
「わが家の裏からボタ山を望む。右側の薄いシルエットがボタ山。」

竪坑櫓 №1 2007/05/10

カテゴリ : 今日の竪坑櫓

 竪坑櫓とは、地下の坑道へと鉛直につながる「竪坑」を、エレベーターのように上下に上り下りするために作られた施設だ。地上部分は52メートル以上、地下部分は430メートル。てっぺんに巻揚機が設置されていた。

 海軍・国鉄時代を通して、唯一の国営炭鉱である旧志免鉱業所の竪坑櫓は、戦時中に造られた巨大なコンクリート構造物で、今年、国の「登録有形文化財」の指定を受けた。

 竪坑櫓は周辺の風景に融け込み、季節により、時間によって、また天候によっても、さまざまな表情を見せる。折々の表情をここにとどめていくことにしよう。


竪坑櫓001
「壁に張り付いて、冬の間は静かに眠っていた草が、眠りをさまして、そろそろ緑を濃くし始めた。」

竪坑櫓002
「左側は庁舎跡に建つシーメイト」

竪坑櫓003

竪坑櫓004
「左に少し見えるのがボタ山、右に、ここからは見えないがシーメイト・竪坑櫓。その間を新しく作られた道路が貫く。志免町から須恵町へ抜ける。正面に見えるのは若杉山で、右に三郡山地が連なり、その先の麓に太宰府天満宮がある。」

竪坑櫓005

竪坑櫓006
「竪坑櫓の足元部分。鉄板で四囲を囲っている。」

竪坑櫓007
「竪坑櫓のtop。避雷針がある。」

竪坑櫓008

吉田俊男著『天下之怪傑 頭山満』から

カテゴリ : 資料・同時代が見た平岡浩太郎

吉田俊男著『天下之怪傑 頭山満』

奥付:著者吉田俊男、発行所成功雑誌社(東京市本郷区弓町壱丁目十一番地)、明治四十五年六月十八日発行


    (三十四) 怪傑頭山満と九州炭鉱王平岡浩太郎
左様、今では物故せられた、九州炭鉱王の一人たる、平岡浩太郎は、生前怪傑頭山満と、非常に懇意な間柄であつた、平岡が先年、欧洲見物から帰ると、帰朝の旨を報ぜんものと、頭山の邸に赴いた、主客互に、久方振りの挨拶が済むと、平岡は脇目も触らず、一生懸命、欧洲に於ける交通制度の完備より、美術工芸の発達と云はず、鉱山経営と謂はず、あらゆる方面より説き起し、遂に天下経綸に説き及んだ、終始黙々として傾聴して居つた頭山が、いつしか寝込んでしまつたと見えて、周囲より高鼾の声が聞えた、これはしたり平岡は、頭山に天下の経綸を説いたのぢやない、何のことはない、壁に向ふて話しをして居つた様なものである、こゝに平岡は、喋舌り損の草臥れ儲け、後ち平岡は頭山が、不図目覚めたのに気附き、
平岡「頭山寝て居つたのか」、
頭山「うむ」、
平岡「頭山酷いね」、
頭山「俺りや寝掛けるから、汝へも寝ながら話せと言ふたら耳に入らぬようぢやつたから、お先に御免蒙つた、あはゝゝゝゝ」、
相手にこふ言はれちや、流石の平岡浩太郎も、今更仕様がない、又話しに来ようと、頭山の邸を辞した、後ち頭山人に語るよう、「平岡が俺に種々難かしいことを話したようだが、何で俺に西洋のことなど判るかい」。

 平岡浩太郎は、頭山満の郷友である、彼は起業的手腕のあつた人で、鉱業界に成功を博した、喝采的生涯を送つた、一世の快男子であつた、事業の迹を見ると頭山を真似てる所が、ちらりちらり現はれて居る。

 請ふ左に、某雑誌記者の、頭山満平岡浩太郎の人物対較評の一節を掲げしめよ。

 平岡浩太郎は、人に接すると、盛んに天下の経綸を説いたものだが、頭山満は之と反対に、沈言寡黙、己れは天下国家を論じない、頭山満の親友子爵三浦梧楼(観樹将軍)も、頭山の豪い所は、自ら天下国家を口に出さないで、いざ国家的の問題が起ると、云はず語らずの中に、驚天動地のことをやらかすにあるのだ、と又能く穿つてる、平岡に始め接すると、英姿颯爽人をして、覚へず快哉を叫ばしむるが、二度目には漸く稚気を感じ、三度四度するに及んでは、遂に矜気を生ずる、頭山は平岡と異なつて居る、頭山に始めて逢ふ時は、愚なる如く、二度目には茫なるが如く、三度目には大なる如しと、

 此言は一寸面白い、嘗て頭山が結社の玄洋社に在る日、終日黙して語らず、茫然として来り、茫然として去つたことがある位、一見愚なる如く、衆人の間に在りて、別る所はなかつたのである、然るに、久しからずして、社の首領と仰がるゝに至つたのを見ると、何処かに常人の上に立つべき偉大なる所があるのである。

 最後に著者の、頭山満評を、簡単に記せば次の如くである。

 単に頭山満の名のみ聞くものは、世に怪傑と謳はれて居る人だから、何だか怖ろしく、近づき難いように思ふが、さて逢ふて見れば、風貌堂々たる人物で、何となく元亀天正年間の遺物ではないかと思はれる、これは頭山満に初見の時の観察である、彼と久しく交遊するに従ひ、頭山満は、剛勇にして胆大、深く其智を晦まし、機略を蔵するの人であるかゞ判る、元来義侠心に富んで居る男だから人の難義を扶助せずには居られないのである。

須藤靄山著『名士名家の夫人』から

カテゴリ : 資料・同時代が見た平岡浩太郎

須藤靄山著『名士名家の夫人』

奥付:著作者須藤愛司、発行所大学館(東京市神田区鍛冶町十七番地)、明治三十五年二月廿三日発行。(年月日は手書き訂正による)


    平岡浩太郎と其夫人
福岡県第一区撰出代議士平岡浩太郎君といへば何人も其九州鉱山王として又憲政本党の金庫として商界に亦政界に其偉名を拡めつゝあるは世人皆之を承する処。其君が始めは維新改革より西南戦争の間身を千軍万馬の中に置き遂に賞典録を賜はるに至りしと云へば軍人的事歴に似たるも、君が度量已に百折不撓の胆据りて居る故にして敢て怪しむに足らず、君今より十数年以前僅に金二十両を懐にし、赤池に至つて鉱業に従事し掘り当てゝ以て今日の富に及びしと云へば世人又大に其好運に驚くならん、君は嘉永四年六月二十三日を以て福岡地方に生れしなり、君が前半生は鉱業より出でゝ政事家となり、又鉱山業に返りしが明治二十七年日清平和破れしより以来又風雲に乗じ其三区より挙られて中央の政機に参与す、降りて三十年松隈両伯の間に斡旋し遂に其聯合内閣を組織せしめぬ、爾後政党の変遷につれ今は憲政本党に籍を措くに至る、君が此幾年の間に在つてよく世に処し、政界に奔走するを得しは即ち君が家に在つてよく其内政を理弁し、君をして毫も其財政より私交迄眷顧の憂なからしめたる君が令夫人の在りしが為なり、世人君が偉業を賞すると共に之が内に在つて君が諸事を補助せし夫人が功は決して忘るべからざるの価値あり、又世の夫人たるもの大に奮起せざるべけんや。

岩崎徂堂著『〈商海立志〉明治豪商苦心談』から

カテゴリ : 資料・同時代が見た平岡浩太郎

岩崎徂堂著『〈商海立志〉明治豪商苦心談』

奥付:著作者岩崎勝三郎、発兌元大学舘(東京神田区鍛治町十七番地)、明治三十四年十月十一日発行。(月日は手書き訂正による)


    平岡浩太郎
世に所謂政治家なるものは即ち政党屋である、若し吾人をして云はしめたならば彼れは政党政派の為めに労する者であつて政治家ではない、政治家たらんとせば政治上の素養がなけんければならんので有る、彼れ等は何の有する所もなくて自から政治家を以て誇るとは余輩其意を知るに苦しむのである、彼れ等の多くは祖先伝来の遺物を蕩尽して、漸く代議士たるの資格を仮ることを得て而して其伎倆は皆無に属して居るのである、其為す所只夫れ己利、眼中には社会なくしかも国家と云ふ感念がないので有る、徒らに其位置に懸恋して以て歳費二千円を貪るのみで有る、其一度び議場に上ては活動を失ふて黙然たる有様で有る、偶々開口しても賛成若くは不賛成の短語を発するのみで有つて理由に至ては之を口にすることが出来んのである、蓋し彼れは脳中利益の外は何の計画ない頭脳又空々たるのみで有るからである、誰れか憫笑せざるものあらんや、思へば政治と他の関係を知らざるの徒敢て怪しむに足らないので有る独り君の如きは真個の政治家である、正党を組織し得らるゝの資格ある一人物であると、我輩の認むる所である請ふ聊か一言せん先づ君の
生地 より云へば君は九州福岡地行の人、嘉永四年六月を以て生る、君が家は世々鉱業を営む幼少の時より秀才能く衆を抜く長ずるに及び文武の学を講じた、戊辰の際君王師に従ふて軍功あり為めに賞典録を賜はつたのである、其平定するや君は卒先以て就義隊なるものを編制したが廃藩置県と共に戍衣を解き以て公私の事に身を尽す、佐賀の乱が起るや君四方に奔走して志士と謀つて以て不慮に備ふた、西南の役
兵を挙げて 遙に西郷に応じたが戦破れ単身薩軍に投じて事平ぐや君は捕はれて東京の獄に入れられ、十二年放免された後に
玄洋社 を起して二区十五郡四十万人民の連署を以て国会開設の建白を為す、吾人今日に於て帝国議会を見る所以のものは蓋し君等主張に依て生れたるものである、之れより後ち政党熱の流行するや君は立憲政体上に於ける政党の必要を認め茲に始めて政海に入る此時十四年君が齢三十二の時にぞありしが、君は傍ら鉱業に従事して富国の策を講ず爾来日を追ふて欧米の文明に化して内部の事皆な彼れに習ふたので有る、交通上の機関は益々繁多となつたから、君は早くも此点に着眼し九州に於ける炭鉱其他の諸鉱を採掘して以て外国の輸入を防ぎ、一は以て斯業の発達を図つた、之れ君が政治家として実業と政治との関係を知るの端緒で有る、君は実に鉱業界の人たるばかりでなく一汎経済上の事情に注意して措かな(か)つた、故に君は今日流行せる政党屋でなくて実に夫れ真の政治家と評するのも豈偶然ではない、見よや去年清国に変乱あるや君は忽然として満州の内地を跋渉し、戦況地理民情の視察を遂げて朝に帰た、然して之を政友に説くに清国問題を以てした吾人は政治家として宜しく君の如き着眼と決心なくてならぬと信じて疑はないのである、君は籍を進歩党に置いて松隈内閣□立に斡旋し次で憲政党□立に多額の金を抛ち終に政党内閣の濫觴を開くに至つた所以は又任つて君の熱誠に出でないと云事はないのである、故に党員は挙げて君の徳を慕ふた宜で有る君は現下憲政本党の有力者で或一方に於ては真に旗頭として持囃さるゝので有る、之れ皆な君が実力あるにあらずんば何を以て他を支配することを得べけんや、蓋し君の如きは現時の代議士として政党家として又敵を見ざるのである吾輩聊か之を特筆して諸氏に紹介する所以のもの又他にある訳でない

東台隠士著『名士の交際術』から 追録

カテゴリ : 資料・同時代が見た頭山満

東台隠士著『名士の交際術』

奥付:著作者東台隠士、発兌元大学館(東京市神田区鍛冶町十七番地)、明治三十五年三月廿三日発行。


    ◎平岡浩太郎

(略)


ツラツラ惟(おも)ふに往年封建時代の遺風は其の藩々に依て今も猶ほ余韻を存し居るかの如くに思はれる、筑前は関ヶ原の大戦後黒田長政の封ぜられし所であつて長政の父如水は非凡の豪傑にして又頗る洒々落々たる気風ありて極めて放胆的でヤヽもすれば曠世の英雄秀吉を翻弄せんずる気宇の人であつた、従ふて長政も亦乃父の遺鉢を踵(つ)いで少年の時からナカナカ聞かぬ気の性で年甫(はじ)めて十三の時其の一族の黒田甚吉なるものゝ家に出火があつた其の頃は盗賊が頻りに徘徊して居つたので長政は一族に火事が出たと云ふので手に大なる薙刀を提(ひつさ)げて奔り行き其の家人に号令して汝等早く家財を搬(にな)ひ来れ我れ此に在て之を守るべしとて火の鎮まるまで泰然として孤(ひと)り留り以て賊の襲来を禦(ふせ)いだと云ふ談(はなし)である、それのみならず一方には柔和(やさ)しい情け深い義気にも富んで居つたと云ふのは彼の関ヶ原の戦ひに石田三成は武運拙く空しく敗亡(やぶれ)て終に家康の捕虜(とりこ)となつて小西行長等と与(とも)に縛せられた後ちであるが長政は馬に跨(の)つて家康の所に行かんとして途中(みち)で三成が秋風の寒く身に浸む頃にまだ帷子(かたびら)一枚で慄へて居るのを見て徐(そぞ)ろに哀れを催ふし馬から飛び降りて三成の前に行き自から着くる陣羽織を脱ぎて三成に着せたと云ふことである誠に武士の情けと云ふものは芳ばしき談である。

古への藩主が斯ふ云ふ気風であつたからしてか妙に今の筑前人士に此の遺風が存して居つて面白いのである、一口に九州人と云ふけれども取り分け筑前は快活でハツキリして交際(つきあ)つても気持が善(い)い果して然らば今日筑前人士の性格を代表するもの果して誰ぞと問ふものあらば余は其の人を挙ぐるに少しも躊躇するなく曰く頭山満曰く平岡浩太郎の二人を称すべし、古への豪傑を以て之に比すれば頭山の大智にして胆あり略あり而して愚を装ふる所は如水の如く平岡は長政の如しとも云ひ得べけんか、如水が其の子長政を戒めて汝は乃公(おれ)の如くに智ならず又天下を争ふの機略なし我れ死するの後は小心翼々臣下を撫して自から驕ることなかれと浩太郎を以て満に比す其の器量の大小人物の高下は猶ほ長政を以て如水に比すると略ぼ同一と謂ふても善からう満は天才なり是を以て高きなり大なるなり浩太未だ垢抜けせざるなり、構へるなり、従ふて大ならざるなり高からざるなり然れども浩太も亦筑前人士なり高く且つ大ならずとは雖も快活なり任侠なり一たび意(こころ)に決するあれば邁往突貫して少しも顧みず斃れて後ち止むの慨あり頭山に比すればこそ小なれ浩太豈に猥りに軽(か)ろんずべけんや。

(略)

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