南進北鎖の夢・福本日南 第1回
カテゴリ : 南進北鎖の夢
☆西日本新聞朝刊連載 石瀧豊美「南進北鎖の夢―素描・明治の史論家 福本日南―」全9回 を収録します。

南進北鎖の夢◆素描・明治の史論家 福本日南 第1回 (1998年11月3日 火曜日 西日本新聞朝刊)

【写真】福本日南
福岡に生まれた福本日南(一八五七-一九二一)を国士的雄弁家、国士的文豪と呼んだのは文学者大町おおまち桂月けいげつである。
試みにひもとくと、『国史大辞典』では、日南の生涯を「ジャーナリスト、政党政治家、史論家」の言葉で代表させている。日南は振幅の大きな人だったから、その生涯を要約するのは容易ではない。忘れてならないのは、幅広い教養を備えて、どの分野でも一流をなしながら、決して書斎だけの知識人ではなかったということである。
●敵なしの健筆家
明治二十二年二月十一日に、日南もその創刊に加わった新聞『日本』の第一号が出る。日南は同紙に論説を書くなど、対抗紙『国民新聞』の徳富蘇峰から「向かうところ敵なしの健筆家」と評される活躍を見せる。新聞人としての評価は超一流と言ってよい。
この創刊日と紙名には実は偶然以上の意味があった。紀元節、しかも、大日本帝国憲法が公布された日である。『日本』の立場は〝国粋〟とくくれるが、排外ではなく、欧米に学んだ教養を基礎に、日本を他と区別する日本らしさ、価値にこだわった人たちであった。
桂月が強調したのもそこである。日南の最後の著書となった『大阪城の七将星しょうせい』(大正十年)に序文を寄せ、「先生の弁舌も文章も、国士のおもかげがある」と書いている。国士というのは、こんにちの言葉でナショナリストと読み替えてもいいだろう。桂月の評は、国士のおもかげというのだから、思想よりも一種の風格、気概に力点がある。
十二歳年下で、晩年の日南に碁敵ごがたきとして交わった思い出を持つ桂月が、千葉県大多喜中学校で講演中に日南が卒倒したと聞いて、
「驚いた。悲しんだ。しかし、国士の最期にはふさわしいとも思った」
と書いたのは率直だが、桂月にとって日南はどこまでも「国士」だった。同時代人が日南を「国士」、「文豪」と評したことには他にも例がある(雑賀博愛、大熊浅次郎)。
●玄洋社の同伴者
私が日南に興味を持ったのは、本紙に「玄洋社発掘」を連載していた頃ころだから、もう二十年ほども前になる。
玄洋社は明治十年代の自由民権運動の中で、福岡県に誕生した民権政社である。後に右翼運動の源流と目されるようになり、戦後は超国家主義のレッテルを貼はられることになった。私は「玄洋社とは何か」ということを虚心にみつめて、日本の近代を検証したいと思っていたのだが、その過程で日南が研究対象として浮かび上がってきた。
日南は旧福岡藩士の家に生まれ、明治三十八年四十九歳の年から四十二年まで、玄洋社系の新聞「九州日報」の主筆兼社長を務めた。客観的には玄洋社員であっておかしくない位置にいたのだが、社員として名を連ねることはなかった。その意味で、玄洋社の同伴者という性格を持つ。日南という鏡によって、玄洋社を見ることはできないか。これが、その頃の私のもくろみであった。
●未知の部分多く
日南について調べようとする人は、これほどの人物でありながらほとんど研究がないことに驚くにちがいない。戦後唯一の論考とも言える「福本日南の思想形成―明治一〇年代ナショナリズムの一側面―」*1を発表した広瀬玲子氏は、同じく新聞『日本』の同人だった陸くが羯南かつなん、三宅雪嶺せつれいに比し、日南には未知の部分が多いと述べているが、その状況は今も変わらない。
私は日南の研究を志し、まず彼の著書の収集を始めた。日南の著書は訳書を含め三十冊を超える。古書目録に見出いだすたびに購入して、今では十六冊が手元にあるが、それでもほぼ半分である。日南の研究が進まないのは、その著書の大半が入手しにくいことと、雑誌・新聞へ寄稿された膨大な文章が未刊のままで、閲覧に多大な困難がともなうことに原因がある。なにしろ、同時代の評価は「文豪」なのである。研究の前提としても、日南の著述を網羅した全集なり、選集なりが必要だろう。
日南の文筆の特色ある一分野として、『元禄快挙録』に代表される史論がある。「史論家」に分類されたことが日南の不幸であった。歴史を、歴史研究でも、文学作品でもなく、人間を素材に、ジャーナリスティックな目で論評することが「史論」と言ってもよいだろう。そのためか、日南の名は史学史からも、文学史からももれることになったのである。


南進北鎖の夢◆素描・明治の史論家 福本日南 第1回 (1998年11月3日 火曜日 西日本新聞朝刊)

【写真】福本日南
国士的文豪 新聞「日本」創刊に参加
▼振幅大きな一流教養人
福岡に生まれた福本日南(一八五七-一九二一)を国士的雄弁家、国士的文豪と呼んだのは文学者大町おおまち桂月けいげつである。
試みにひもとくと、『国史大辞典』では、日南の生涯を「ジャーナリスト、政党政治家、史論家」の言葉で代表させている。日南は振幅の大きな人だったから、その生涯を要約するのは容易ではない。忘れてならないのは、幅広い教養を備えて、どの分野でも一流をなしながら、決して書斎だけの知識人ではなかったということである。
●敵なしの健筆家
明治二十二年二月十一日に、日南もその創刊に加わった新聞『日本』の第一号が出る。日南は同紙に論説を書くなど、対抗紙『国民新聞』の徳富蘇峰から「向かうところ敵なしの健筆家」と評される活躍を見せる。新聞人としての評価は超一流と言ってよい。
この創刊日と紙名には実は偶然以上の意味があった。紀元節、しかも、大日本帝国憲法が公布された日である。『日本』の立場は〝国粋〟とくくれるが、排外ではなく、欧米に学んだ教養を基礎に、日本を他と区別する日本らしさ、価値にこだわった人たちであった。
桂月が強調したのもそこである。日南の最後の著書となった『大阪城の七将星しょうせい』(大正十年)に序文を寄せ、「先生の弁舌も文章も、国士のおもかげがある」と書いている。国士というのは、こんにちの言葉でナショナリストと読み替えてもいいだろう。桂月の評は、国士のおもかげというのだから、思想よりも一種の風格、気概に力点がある。
十二歳年下で、晩年の日南に碁敵ごがたきとして交わった思い出を持つ桂月が、千葉県大多喜中学校で講演中に日南が卒倒したと聞いて、
「驚いた。悲しんだ。しかし、国士の最期にはふさわしいとも思った」
と書いたのは率直だが、桂月にとって日南はどこまでも「国士」だった。同時代人が日南を「国士」、「文豪」と評したことには他にも例がある(雑賀博愛、大熊浅次郎)。
●玄洋社の同伴者
私が日南に興味を持ったのは、本紙に「玄洋社発掘」を連載していた頃ころだから、もう二十年ほども前になる。
玄洋社は明治十年代の自由民権運動の中で、福岡県に誕生した民権政社である。後に右翼運動の源流と目されるようになり、戦後は超国家主義のレッテルを貼はられることになった。私は「玄洋社とは何か」ということを虚心にみつめて、日本の近代を検証したいと思っていたのだが、その過程で日南が研究対象として浮かび上がってきた。
日南は旧福岡藩士の家に生まれ、明治三十八年四十九歳の年から四十二年まで、玄洋社系の新聞「九州日報」の主筆兼社長を務めた。客観的には玄洋社員であっておかしくない位置にいたのだが、社員として名を連ねることはなかった。その意味で、玄洋社の同伴者という性格を持つ。日南という鏡によって、玄洋社を見ることはできないか。これが、その頃の私のもくろみであった。
●未知の部分多く
日南について調べようとする人は、これほどの人物でありながらほとんど研究がないことに驚くにちがいない。戦後唯一の論考とも言える「福本日南の思想形成―明治一〇年代ナショナリズムの一側面―」*1を発表した広瀬玲子氏は、同じく新聞『日本』の同人だった陸くが羯南かつなん、三宅雪嶺せつれいに比し、日南には未知の部分が多いと述べているが、その状況は今も変わらない。
私は日南の研究を志し、まず彼の著書の収集を始めた。日南の著書は訳書を含め三十冊を超える。古書目録に見出いだすたびに購入して、今では十六冊が手元にあるが、それでもほぼ半分である。日南の研究が進まないのは、その著書の大半が入手しにくいことと、雑誌・新聞へ寄稿された膨大な文章が未刊のままで、閲覧に多大な困難がともなうことに原因がある。なにしろ、同時代の評価は「文豪」なのである。研究の前提としても、日南の著述を網羅した全集なり、選集なりが必要だろう。
日南の文筆の特色ある一分野として、『元禄快挙録』に代表される史論がある。「史論家」に分類されたことが日南の不幸であった。歴史を、歴史研究でも、文学作品でもなく、人間を素材に、ジャーナリスティックな目で論評することが「史論」と言ってもよいだろう。そのためか、日南の名は史学史からも、文学史からももれることになったのである。

- 注1 広瀬玲子『国粋主義者の国際認識と国家構想―福本日南を中心として―』
(二〇〇四年一月、芙蓉堂出版刊)に収録。

>玄洋社の同伴者という性格
玄洋社といえば右翼の源流、国家主義、政界の黒幕、テロリストなどなど戦後は極端に歪められたイメージを与えられています。
しかし自由民権運動からスタートしたこと、中央に対抗しての地方、広くアジア諸国との連帯を模索したことなど、そういったレッテルだけではない、本質としては非西洋追従での日本固有の近代への適応を模索して集団という姿があると思うのです。
そうしたものも玄洋社だけの資料や文脈ではなかなか見えてこないのですが、そこに史論家、ジャーナリストの福本日南を鏡のように合わせることで何が見えてくるのか、ワクワクしています。