《まちの史跡めぐり》第20回 人参畑の先生、高場乱(博多区千代、崇福寺)
カテゴリ : まちの史跡めぐり Ⅱ
まちの史跡めぐり 第20回 (『広報すえまち』376号 1998年11月 福岡県糟屋郡須恵町役場発行)

先月は突然の休載で申しわけありませんでした。
三週間九大病院に入院していました。中央病棟上層階の私のベッドには朝夕お寺の勤行ごんぎょうの鐘がかすかに聞こえてきました。窓から見下ろすと、崇福寺そうふくじの屋根が緑の中に浮かんでいます。とんびでしょうか、ゆったりと空を舞う姿も見えます。高層ビル群の中にそこだけが別世界のようです。地上からは気付かない、崇福寺の豊かな緑を病室から発見しました。
それで、思いついて、今回も町外の史跡の紹介です。崇福寺にある高場乱たかばおさむ(一八三一~九一)という女性眼科医の墓碑について書くことにしました。この人はとんでもない元気な女性です。父親は須恵町の出身でした(詳しくはもう一度、取り上げることにします)。
禅宗の寺院、崇福寺は旧福岡藩主黒田家の菩提寺です。九大病院前の道路はもとの唐津街道にあたります。山門をくぐると、左手に願掛けで有名な地蔵堂。地蔵堂の裏側(西側)に墓地が広がっていて、南側奥に玄洋社墓地と呼ばれる方形に区画した一画があります。
玄洋社墓地の一番奥に三つの墓碑が建っています。左から順に、「高場先生之墓」、「頭山満先覚之墓」、「来島恒喜之墓」。頭山、来島は旧福岡藩士の出身で、いずれも福岡に生まれた政治結社玄洋社のメンバーでした。頭山は後に右翼の巨頭と呼ばれた人物。来島は明治二十二年、条約改正に反対し、霞ヶ関の外務省門前で、馬車で通りかかった外務大臣大隈重信に爆弾を投じて自殺しました。大隈は命は助かりましたが、片足を失いました。
頭山も来島も高場乱の興志塾の出身で、乱の教え子。乱の墓碑の字は勝海舟が書きました。碑文はこう書き出されています。「高場先生、其の先、粕屋須恵の人」。先祖は糟屋郡須恵村の出身であった、というのです。
現在の須恵町に高場姓はありませんが、内科を開業しておられる岡泰正先生のおうちは、二百年ほど前まで高場姓を名乗っていました。岡先生の自宅の瓦には、今も「高」の字が浮き上がっています。
江戸時代の初め、この連載第二回で取り上げた高場順世により、糟屋郡に眼科の技術、目薬の製法がもたらされました。その子孫に当たる高場正節の代に岡と姓を改めたのです(連載第十六回)。岡正節には子供が三人いました。長男正庵は父の家を継ぎ、次男実美は福岡藩士月成つきなり家の養子となりました。三男正山は博多瓦町(櫛田神社の南側)で眼科を開業しました。これが高場乱の父です。乱は女性ですが、帯刀し、男のまげを結い、眼科医となって生涯を男装して過ごしました。野村望東尼ぼうとうにとはいとこ同士と言われます。
高場乱は眼科医、漢学者であり、同時に興志塾を主宰する教育者でした。今の博多駅前四丁目(人参畑)に塾を開き、人参畑のバアさんと親しまれました。彼女の教え子からは、士族反乱や自由民権運動へ参加する者が出て、「玄洋社の生みの親」とも言われています。
須恵町ゆかりの男装の女傑
人参畑の先生、高場乱(博多区千代、崇福寺)
人参畑の先生、高場乱(博多区千代、崇福寺)

先月は突然の休載で申しわけありませんでした。
三週間九大病院に入院していました。中央病棟上層階の私のベッドには朝夕お寺の勤行ごんぎょうの鐘がかすかに聞こえてきました。窓から見下ろすと、崇福寺そうふくじの屋根が緑の中に浮かんでいます。とんびでしょうか、ゆったりと空を舞う姿も見えます。高層ビル群の中にそこだけが別世界のようです。地上からは気付かない、崇福寺の豊かな緑を病室から発見しました。
それで、思いついて、今回も町外の史跡の紹介です。崇福寺にある高場乱たかばおさむ(一八三一~九一)という女性眼科医の墓碑について書くことにしました。この人はとんでもない元気な女性です。父親は須恵町の出身でした(詳しくはもう一度、取り上げることにします)。
禅宗の寺院、崇福寺は旧福岡藩主黒田家の菩提寺です。九大病院前の道路はもとの唐津街道にあたります。山門をくぐると、左手に願掛けで有名な地蔵堂。地蔵堂の裏側(西側)に墓地が広がっていて、南側奥に玄洋社墓地と呼ばれる方形に区画した一画があります。
玄洋社墓地の一番奥に三つの墓碑が建っています。左から順に、「高場先生之墓」、「頭山満先覚之墓」、「来島恒喜之墓」。頭山、来島は旧福岡藩士の出身で、いずれも福岡に生まれた政治結社玄洋社のメンバーでした。頭山は後に右翼の巨頭と呼ばれた人物。来島は明治二十二年、条約改正に反対し、霞ヶ関の外務省門前で、馬車で通りかかった外務大臣大隈重信に爆弾を投じて自殺しました。大隈は命は助かりましたが、片足を失いました。
頭山も来島も高場乱の興志塾の出身で、乱の教え子。乱の墓碑の字は勝海舟が書きました。碑文はこう書き出されています。「高場先生、其の先、粕屋須恵の人」。先祖は糟屋郡須恵村の出身であった、というのです。
現在の須恵町に高場姓はありませんが、内科を開業しておられる岡泰正先生のおうちは、二百年ほど前まで高場姓を名乗っていました。岡先生の自宅の瓦には、今も「高」の字が浮き上がっています。
江戸時代の初め、この連載第二回で取り上げた高場順世により、糟屋郡に眼科の技術、目薬の製法がもたらされました。その子孫に当たる高場正節の代に岡と姓を改めたのです(連載第十六回)。岡正節には子供が三人いました。長男正庵は父の家を継ぎ、次男実美は福岡藩士月成つきなり家の養子となりました。三男正山は博多瓦町(櫛田神社の南側)で眼科を開業しました。これが高場乱の父です。乱は女性ですが、帯刀し、男のまげを結い、眼科医となって生涯を男装して過ごしました。野村望東尼ぼうとうにとはいとこ同士と言われます。
高場乱は眼科医、漢学者であり、同時に興志塾を主宰する教育者でした。今の博多駅前四丁目(人参畑)に塾を開き、人参畑のバアさんと親しまれました。彼女の教え子からは、士族反乱や自由民権運動へ参加する者が出て、「玄洋社の生みの親」とも言われています。

