二軒茶屋の石橋
『物語の中の下流』の冒頭で、猫間川の写真などが見つからない、という話を書きつけているが、唯一の例外として『大阪名所独案内』(おおさかめいしょひとりあんない)という、明治十五年に刊行された、手のひらに収まるかというほどの大きさのガイドブックがある。
この書物の存在は大阪日日新聞の特集記事『森琴石と歩くおおさかの町』(WEB上で閲覧できる)で知った。森琴石(もりきんせき)は有馬出身の銅版画家・南画家で明治期に活躍した。『大阪名所独案内』には精緻な銅版画の挿絵がふんだんに入れられているが、その版画を担当したのが森琴石である。この中に「二軒茶屋」の案内と銅版画があり、奈良街道をはさんでの茶屋が向かい合い、石垣になっているためお城の堀のように見える川に橋がかかっているようすが描かれている。この堀かと見えるようなものが猫間川であり、開高健が『日本三文オペラ』の中で河口付近について
これは深くて、へりがほとんど崖といってもよい急勾配をもち、
と描写した川の形状がここでも同様だったことが見てとれる。
(「マチともの語り」のWEBサイトにおける『猫間川をさがせ』のタイトルイメージには、このページの見開きを使っているので参照頂きたい)
これらの茶屋は明治初期にいずれも廃業したというから琴石が描いたのは最期の姿であったろう。今では長堀通りの自動車の往来の多いなか、歩道に二軒茶屋と猫間川にかかっていた橋「石橋」(別称「黒門橋」)があったことを示す碑と金属製の説明版が建てられている。
琴石の描いた風景と今の風景との落差だけでも、充分に書き残すに値することかもしれないが、ここでは少し違うことを書きたい。経緯も含めて書くので冗長になるかとおもうが重要なことが見逃されていると私はおもうので、ご容赦賜りたい。
私が参照している情報源のなかに、『AGUA』というWEBサイトがある。個人が公開しているサイトだが畿内の川についての情報の豊富さには圧倒されるものがある。このサイト内に「猫間川覚え書き」という一ページがあり、前述の二軒茶屋の顕彰碑についても触れているのだが、そのなかで
碑のあるところの北、国道を渡った東成区中道三丁目には、橋の跡かと思われるコンクリート構造物がある。
と書かれているのである。この辺りは森之宮在住の頃から散々歩き回っているが、全くこの建造物の存在に気がつかなかったので、軽い衝撃を覚えた。私は数日内に現地に行き確認したのだが、確かに橋の欄干に見えるのである。私は『AUGA』の製作者の方に連絡し、この橋らしきものについて書かせて頂くことについてご相談したところすぐに承諾の返事を頂き、併せて「付近の方に聞いても誰も知らなかったので本当に橋かどうかは分からないですよ」という所見も教えて頂いた。
私も同様に付近のひとに聞いてみたが、経緯を知るひとは探せない。そこで別の問い合わせ先を当ってみることにした。橋跡らしい建造物の背後は駐車場になっているのだが、管理者は市の下水道局の外郭団体なのである。ここに聞けば分かるのではないか。
その外郭団体に電話してみたところ、電話に出た男性は実にあっさりと「それは橋の跡であろう」という意見を私に述べられた。道路だけではなく、駐車場になっている部分も猫間川の川幅の内だったのであり、恐らくそうだろう、ということだった。更にこの方は、実際の土地管理元が大阪市の都市環境局になることも教えて下さった。都市環境局の土地管理を担当していそうな部署を探して電話したところ同様の見解が返ってきて、川を埋めた場合に橋の欄干を撤去せずに残す例は多々あるということを、若干の後ろめたさを含む口調で説明してもらうことができた。私は重ねて、埋められた橋の名前と川のこの地点が埋められた時期を調べてもらえないか、お願いした。
この稿を書いている時点で回答は頂けていないのだが、予想される回答は
──橋は「石橋」で埋められたのは大正十三年(一九二四年)
という答えか、
──別の名前を冠した大正以降建造の橋で埋められたのも昭和に入ってから
の、いずれかに絞られるだろう、と考えながら私は質問していた。
だが、回答を待ちながら私は、手元にある情報からその回答を類推できることに気がついた。私の手元にワラヂヤという大阪の地図出版会社が復刻した『大阪市パノラマ地図』という、大正十三年に発行された地図がある。上空から見た景色という形式をとった銅版画による仕事で、恐ろしく精密なものである。美濃部政治郎という製作者の名前が復刻版の解説書きに見て取れるが、この名前は冒頭で紹介した森琴石と同様に大阪という土地と紐つけて記憶されていい。ちなみに今回調べたら、ワラヂヤは数年前に自己破産の手続きをとり、既にこの世にはないことが分かった。残念なことである。

ワラヂヤ刊『大阪市パノラマ地図』の右上(北東)部分。上方に天守閣の無い大阪城が見えており、城東線(現在の大阪環状線)に沿って猫間川が流れている。それより東はまだ市街化されていないことも見て取れる。
この地図において、猫間川は玉造辺りで終っているように見えているのである。また、東成区のWEBサイト内でも石橋が撤去されたのが「大正十三年」と記載されている。これらの情報からして、大正末期には長堀通りを横切る地点の猫間川は暗渠化されてしまい橋は必要なくなっていたのではないかとおもわれる。ということは昭和以降に橋はない。やはりこの橋跡は顕彰碑の対象である石橋ではないのか。つまり、森琴石の絵の中にある橋と同じ橋なのではないか。絵の橋の形状と残っている欄干は少し異なるという疑問はあるのだが。
ここで話がよそに飛ぶ。これらのことを調べている時期に岸和田に出かける用事があった。大阪南部の城下町で、だんじりで知られたまちである。私はそこでたまたま、古城川という小川を渡る欄干橋という橋に行き会った。欄干橋のたもとには、この橋の来歴を説明する立派な看板が立っている。
その看板を読んでいてしばし考え込んでしまったのだが、この欄干橋は二軒茶屋の石橋と経歴が似ているのである。重要な街道にかけられた橋であること(石橋は奈良街道、欄干橋は紀州街道)、そして江戸期には珍しい石橋であったことも似ている。
ところが、現在の境遇の差はどうだろうか。岸和田の古城川というのも暗渠化されていて、この点でも猫間川と同じである。だが欄干橋辺りではまち並みにあわせるかのように地上に姿を現して流れている。勢いをつけたら向こう岸に飛べるような小川だが、綺麗に整備されていて、欄干橋はその川に架けられている姿を今に残しているのである。大阪では、碑と説明板は設置されているのに、顕彰されるべき橋そのものは打ち捨てられている。
もし長堀通り沿いの建造物が橋跡ならば、今からでも遅くはない。せめてこれが石橋の最期の姿であることが誰にも分かるように説明書きを立てるなりすべきではないか。
そういう配慮を、橋が撤去された大正期の大阪の人が持っておられたことを今回調べていて私は垣間見ることができた。というのは、「石橋」はここ以外にも残されているのである。次章では分かれてまちの片隅に残されている「石橋」を文章のなかでひとつにするために、そのことを書きたい。

背後の駐車場の金網越しに、石橋の欄干らしきもの。長堀通りの向こうには、車などの陰になってみえないが碑と説明板が立っている。
これは深くて、へりがほとんど崖といってもよい急勾配をもち、
と描写した川の形状がここでも同様だったことが見てとれる。
(「マチともの語り」のWEBサイトにおける『猫間川をさがせ』のタイトルイメージには、このページの見開きを使っているので参照頂きたい)
これらの茶屋は明治初期にいずれも廃業したというから琴石が描いたのは最期の姿であったろう。今では長堀通りの自動車の往来の多いなか、歩道に二軒茶屋と猫間川にかかっていた橋「石橋」(別称「黒門橋」)があったことを示す碑と金属製の説明版が建てられている。
琴石の描いた風景と今の風景との落差だけでも、充分に書き残すに値することかもしれないが、ここでは少し違うことを書きたい。経緯も含めて書くので冗長になるかとおもうが重要なことが見逃されていると私はおもうので、ご容赦賜りたい。
私が参照している情報源のなかに、『AGUA』というWEBサイトがある。個人が公開しているサイトだが畿内の川についての情報の豊富さには圧倒されるものがある。このサイト内に「猫間川覚え書き」という一ページがあり、前述の二軒茶屋の顕彰碑についても触れているのだが、そのなかで
碑のあるところの北、国道を渡った東成区中道三丁目には、橋の跡かと思われるコンクリート構造物がある。
と書かれているのである。この辺りは森之宮在住の頃から散々歩き回っているが、全くこの建造物の存在に気がつかなかったので、軽い衝撃を覚えた。私は数日内に現地に行き確認したのだが、確かに橋の欄干に見えるのである。私は『AUGA』の製作者の方に連絡し、この橋らしきものについて書かせて頂くことについてご相談したところすぐに承諾の返事を頂き、併せて「付近の方に聞いても誰も知らなかったので本当に橋かどうかは分からないですよ」という所見も教えて頂いた。
私も同様に付近のひとに聞いてみたが、経緯を知るひとは探せない。そこで別の問い合わせ先を当ってみることにした。橋跡らしい建造物の背後は駐車場になっているのだが、管理者は市の下水道局の外郭団体なのである。ここに聞けば分かるのではないか。
その外郭団体に電話してみたところ、電話に出た男性は実にあっさりと「それは橋の跡であろう」という意見を私に述べられた。道路だけではなく、駐車場になっている部分も猫間川の川幅の内だったのであり、恐らくそうだろう、ということだった。更にこの方は、実際の土地管理元が大阪市の都市環境局になることも教えて下さった。都市環境局の土地管理を担当していそうな部署を探して電話したところ同様の見解が返ってきて、川を埋めた場合に橋の欄干を撤去せずに残す例は多々あるということを、若干の後ろめたさを含む口調で説明してもらうことができた。私は重ねて、埋められた橋の名前と川のこの地点が埋められた時期を調べてもらえないか、お願いした。
この稿を書いている時点で回答は頂けていないのだが、予想される回答は
──橋は「石橋」で埋められたのは大正十三年(一九二四年)
という答えか、
──別の名前を冠した大正以降建造の橋で埋められたのも昭和に入ってから
の、いずれかに絞られるだろう、と考えながら私は質問していた。
だが、回答を待ちながら私は、手元にある情報からその回答を類推できることに気がついた。私の手元にワラヂヤという大阪の地図出版会社が復刻した『大阪市パノラマ地図』という、大正十三年に発行された地図がある。上空から見た景色という形式をとった銅版画による仕事で、恐ろしく精密なものである。美濃部政治郎という製作者の名前が復刻版の解説書きに見て取れるが、この名前は冒頭で紹介した森琴石と同様に大阪という土地と紐つけて記憶されていい。ちなみに今回調べたら、ワラヂヤは数年前に自己破産の手続きをとり、既にこの世にはないことが分かった。残念なことである。
ワラヂヤ刊『大阪市パノラマ地図』の右上(北東)部分。上方に天守閣の無い大阪城が見えており、城東線(現在の大阪環状線)に沿って猫間川が流れている。それより東はまだ市街化されていないことも見て取れる。
この地図において、猫間川は玉造辺りで終っているように見えているのである。また、東成区のWEBサイト内でも石橋が撤去されたのが「大正十三年」と記載されている。これらの情報からして、大正末期には長堀通りを横切る地点の猫間川は暗渠化されてしまい橋は必要なくなっていたのではないかとおもわれる。ということは昭和以降に橋はない。やはりこの橋跡は顕彰碑の対象である石橋ではないのか。つまり、森琴石の絵の中にある橋と同じ橋なのではないか。絵の橋の形状と残っている欄干は少し異なるという疑問はあるのだが。
ここで話がよそに飛ぶ。これらのことを調べている時期に岸和田に出かける用事があった。大阪南部の城下町で、だんじりで知られたまちである。私はそこでたまたま、古城川という小川を渡る欄干橋という橋に行き会った。欄干橋のたもとには、この橋の来歴を説明する立派な看板が立っている。
その看板を読んでいてしばし考え込んでしまったのだが、この欄干橋は二軒茶屋の石橋と経歴が似ているのである。重要な街道にかけられた橋であること(石橋は奈良街道、欄干橋は紀州街道)、そして江戸期には珍しい石橋であったことも似ている。
ところが、現在の境遇の差はどうだろうか。岸和田の古城川というのも暗渠化されていて、この点でも猫間川と同じである。だが欄干橋辺りではまち並みにあわせるかのように地上に姿を現して流れている。勢いをつけたら向こう岸に飛べるような小川だが、綺麗に整備されていて、欄干橋はその川に架けられている姿を今に残しているのである。大阪では、碑と説明板は設置されているのに、顕彰されるべき橋そのものは打ち捨てられている。
もし長堀通り沿いの建造物が橋跡ならば、今からでも遅くはない。せめてこれが石橋の最期の姿であることが誰にも分かるように説明書きを立てるなりすべきではないか。
そういう配慮を、橋が撤去された大正期の大阪の人が持っておられたことを今回調べていて私は垣間見ることができた。というのは、「石橋」はここ以外にも残されているのである。次章では分かれてまちの片隅に残されている「石橋」を文章のなかでひとつにするために、そのことを書きたい。
背後の駐車場の金網越しに、石橋の欄干らしきもの。長堀通りの向こうには、車などの陰になってみえないが碑と説明板が立っている。
本日:1
今週:7
累計:6323(5/9 15:00より)
よねもと
on 02/20 at 19:03:PM
猫間川は、今の森之宮操車場辺り~サクラクレパスを分断して玉造前の、岩木病院 辺りで、長堀通りを横切り 玉造駅の西口辺 さくら花壇辺りまで伸びていたと思いますが
on 02/23 at 01:52:AM
よねもと様椋です。
>岩木病院 辺りで、長堀通りを横切り
末尾の写真が岩木病院から玉造駅に行く途中になるので、仰る内容と符合するようにおもいます。また、「さくら花壇」は玉造駅横の公園のことでしょうか? 桜の季節はあの公園で宴会をされているので、「さくら花壇」というのかな、と思った訳ですが、そういうちょっとした言葉が分からずに書いているのはお恥ずかしいです。
ご記憶の猫間川は、いつ頃のことでしょうか?
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